ディエゴ・ベラスケス『十字架上のキリスト』(1632年)
ディエゴ・ベラスケス『十字架上のキリスト』(1632年)

十字架について

 

 

私たちには、皆、多かれ少なかれエゴイズムがあり、それに従って生きています。

 

そのゆえに、人間は、神から遠く離れた存在です。

 

このことが、聖書では、旧約聖書の創世記のアダムとイブに由来するものとして描かれています。

 

神に背くエゴイストであるアダムとイブが楽園にいられなくなったという物語です。

 

しかし、物語はそこで終わりではありません。

 

それでもなお人間を愛する神は、罪に陥った人間を取り戻すべく、行動します。

 

人間にとって罪(エゴ)は当たり前のものですから、人間が自分の力で罪に打ち勝つことはできません。

 

そのため、人間を救うには、誰かが人間に代わって、人間の代表として、罪に対する罰を受けるしかありません。

 

その誰かは、「すべての人の代わりを一人で務める」ことができなければなりませんから、人間には務まりませんし、「人間の代表を務める」わけですから、人間でなければなりません。

 

この二つの相反する条件をクリアするため、「神が人になられた」のです。

 

そして、十字架の罰を受けてくださったのです。

 

聖書はこのように、私たちが命がけで愛され、赦され、救われていると語ります。

 

そして、それを知るとき、私たちは、神の愛を生きはじめるのです。

 

これが、神の用意した救いの物語です。

 

スケールが大きすぎて私たちの理解を超えているかもしれません。

 

それだけでなく、聖書以外の宗教では、言わば、人が神になることを目指すのに、聖書はその反対に、神が人になられたと言うのです。

 

しかし、人間の罪性を片付ける方法が、何か他にあるでしょうか?