聖書の読み方について
聖書の読み方について、こういうご質問をお受けすることがあります。
「創世記に書かれている天地創造などの神話的な記述も、文字通りそのまま受け取らなければいけないの?」。
こういう疑問を抱いていらっしゃる方は多いのではないかと思います。
もし、聖書に書かれている事柄を、すべて文字通りにそのまま受け取らなければならないとすれば、聖書を読む人は書かれている言葉に縛られて不自由になってしまうことでしょう。
そんなことのために聖書が書かれたわけではありません。
聖書は、自分の・他者の言葉に縛られて不自由になっている人を自由にする書物です。
ですから、ひたすら字面を負うように読むものではありません。
聖書は、書かれている事柄を掘り下げて読んでいくべきものなのです。
聖書は次のように読まれ、またその読み方を前提して書かれてきました。
まず、「字義」という層があります。
これはいわば表層です。
とりあえず、書かれている事柄をそのままに読むわけです。
ですが、この読み方は重要ではありません。
どんな本も、字面だけ追ったのでは益にならないはずです。
ですので、これを掘り下げて、「暗示」という層で理解を深めます。
書かれている事柄を、何かを暗示するものとして理解するわけです。
さらに深めて、「意味」という層に至ります。
単なる「暗示」として受け取るのではなく、それが暗示されていることの意味をつかむのです。
ここまで来ると、字義の段階で受けた印象とはまったく違った理解に至っていることもあります。
少しわかりにくい説明になってしまったかもしれませんが、これは平たく言うと、私たちが小説を読む時と同じ読み方をするのだということです。
私たちは小説を読むとき、文字を追うようにして読みながら、それを掘り下げて、そこに作者の精神やその時代の意識を読み取っていくわけですが、それと同じように読んでいくわけです。
ただ、聖書の読み方には、もう一段深い層があります。
それが「奥義」という層で、これは、限界のある人間が神の真理を理解しつくすことはできないということです。
けれどもこれも、小説を読む時と同じかもしれません。
優れた芸術作品であればあるほど、汲み尽せないものを内に秘めているはずですから。
ただ、文学は、「人間の魂の叫び」までしか描くことはできません。
それに対して聖書は、人間の魂の叫びを聞き、愛を注いでくださる神の存在までを描いているのです。
いずれにせよ、そのように読むことによって、自分の・他者の言葉に縛られて不自由になっているところから自由にされていくのが聖書の読み方なのです。
ちなみに、「字義」、「暗示」、「意味」、「奥義」をそれぞれヘブライ語で「ペシャート」、「レメズ」、「デラーシュ」、「ソード」と言います。
この「ペシャート」、「レメズ」、「デラーシュ」、「ソード」の頭文字を取って、この聖書の読み方を「パルデス」と言い、これが英語になると「パラダイス」になります。
聖書の中にも、聖書をどのように読むべきかについて言及している箇所がありますので、そのような箇所もご覧いただければと思います。
いつでもお尋ねください。
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