フィンセント・ファン・ゴッホ『開かれた聖書のある静物』(1885年)
フィンセント・ファン・ゴッホ『開かれた聖書のある静物』(1885年)

聖書への招き

 

私たちが「うまく生きる」ことは熱心に願っても、「よく生きる」ことをそれほど強くは願わないのはどうしてでしょうか。

 

それは、私たちが、死を想うことがなくなってしまったからではないでしょうか。

 

それゆえに、生きている間のことだけを考えるようになってしまったからではないでしょうか。

 

そのように生きていれば、余計に考えなくて済むのは確かでしょう。

 

しかし、そのような生き方は、本当に私たちのためになっているでしょうか。

 

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、自らが死ぬべき存在であることを自覚していることが人間という種に固有の特徴であり、それが人間の意識の根源であると言いました。

 

確かにそうでしょう。

 

人類に最も近い種であるチンパンジーでも、2時間先のことまでしか考えることができないそうです。

 

自分が「死にゆく存在」として生きていることを自覚できるのは人間だけです。

 

であるとすれば、死を想わず、そこに蓋をして、まずはうまく生きることを願う生き方は、本当に人間らしい意識を私たちから奪ってしまっているということではないでしょうか。

 

けれども、単に自分が「死にゆく存在」であることに心を向けるだけでは、実りがあるとは限らないでしょう。

 

死を遠ざけようとするあまり、「うまく生きようとする」以上のエゴイストになってしまいかねません。

 

それは最も人間らしい意識であり、最も人間らしくない意識です。

 

これは、聖書に証言されていることでもあります。

 

聖書は、「人間は皆、罪びとである」としますが、その「罪」とはエゴのことです。

 

そして、「罪」とセットにされているのが「死」です。

 

聖書は人間存在を活写しているわけです。

 

そして、聖書の知恵はそこに留まりません。

 

私たちがエゴから抜け出して、本当に人間らしい意識を取り戻す方法を教えてくれる知恵が聖書にはあります。

 

どうぞ、ご都合が良い時に教会にいらしてください。

 

聖書から知恵を借りて、「よく生きる」方法をお伝えいたします。