エリアス・ガルシア・マルティネス『この人を見よ』(1900年以前)
エリアス・ガルシア・マルティネス『この人を見よ』(1900年以前)

イエス・キリストについて

 

キリスト教に対するイメージから、イエス・キリストは倫理的な指導者であったと思われるかもしれませんが、実はむしろ、その正反対です。

 

イエス・キリストは倫理的な指導者たちと戦ったのです。

 

イエス・キリストの時代、人を愛するために与えられたルールであるはずの聖書は、人を裁くためのルールになってしまっていました。

 

愛するためのルールが、人を判断する基準になってしまい、人を愛せなくなってしまっていたのです。

 

「倫理的な」指導者たちは、「自分はルールを守っているから正しい人間で、守っていない人たちは間違った人間だ」と考えて、人々を見下していました。

 

愚かなこととお思いになるかもしれませんが、手段を目的にしてしまうのは人間の愚かさの常です。

 

聖書の「罪」という言葉は、もともとは「的外れ」という意味の言葉です。

 

的外れだから手段を目的にしてしまう。

 

そして、その手段で人を裁く。

 

自分を誇るために。

 

身に覚えのない人はいないのではないでしょうか。

 

イエス・キリストは、人間のそのような本質を突きながら、愛を教え、人を愛しとおしました。

 

そのために、保身にやっきになった指導者たちによって十字架につけられますが、十字架の上でもそのような人々の罪の赦しを祈りました。

 

その、愛を貫き通したイエス・キリストの生涯を知るとき、人は、愛することを本当の意味で目的にすることができるようにされるのです。