
ルカによる福音書11章1節から4節
1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。2そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。3わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
今日は、弟子の一人がイエス様に「祈りを教えてください」とお願いして、教えていただいたという場面ですね。
「祈りを教えてください」。
弟子の一人は、そういうふうにお願いをしたんです。
しかし、そうなりますと、考えてしまいますね。
弟子たちは、祈りを知らなかったんでしょうか。
祈ったことがなかったんでしょうか。
そうではないでしょうね。
弟子たちはみんな旧約聖書を読んでいますから、毎日祈ります。
イエス様の弟子になる前に、もうすでに、お祈りをする習慣を身につけていたはずです。
それなのに、お祈りを教えてくださいとお願いするんですね。
それは、自分たちの祈りとイエス様の祈りが同じではない、どこか違っているということを感じていたからだと思います。
では、弟子たちの祈りとイエス様の祈りは、どのあたりが違っていたんでしょうか。
その違いが一番よく表れているのが、イエス様が教えてくださった祈りの一番最初の言葉ですね。
「父よ」という言葉ですね。
神様に対して、父よ、と呼びかけているんです。
イエス様は祈るときにたいていこの言葉で神様に呼びかけますね。
神様のことを父と呼ぶことは旧約聖書の中にもないわけではありません。
ただ、旧約聖書の中で神様を「父」と呼んでいるのは、あくまでもたとえなんです。
神様が力強く私たちを導いていってくださる方であることをたとえて、「父」と呼んでいるんです。
つまり、「本当のお父さんじゃないんだけど、お父さんのような方だ」ということですね。
神様は聖なる方で人間は罪びとですから、人間は神様のことをお父さんなんて言っちゃいけない、でも、たとえてみるなら、お父さんのような存在だよね、という感覚です。
けれどもイエス様は、その神様のことを、本当のお父さんなんだよ、と言うんですね。
他の福音書を読みますと、イエス様が言った「父」という言葉は、日本語に直すと「お父ちゃん」、とか「パパ」という言葉であること分かります。
親しみを込めた言葉なんですね。
強いお父さんの前にひれ伏しているというような感じではないんです。
安心して、信頼して「お父さん」と呼ぶような言葉なんです。
それは、旧約聖書の感覚ではないんですね。
イエス様はそれまでになかったような神様との関係の中で祈っておられる。
弟子たちはそのことに気づいて、祈りを教えてくださいとお願いしたんだろうと思います。
そうすると、イエス様は、あなたがたも私と同じように、神様のことを「父」と呼びなさい、と教えてくださったんです。
これには弟子たちもびっくりしただろうと思いますね。
罪びとである自分たちが、聖なる神様を父と呼んでいいんだ。
そういうふうに言われて、本当にびっくりしたと思います。
本来、私たちは誰も、神様を父と呼べるような者ではありませんよね。
旧約聖書に書かれてあることですが、旧約聖書を読まなくてもわかります。
神を神とも思わないのが人間です。
神を信じていると言いながら神に背いているのが人間です。
これはとてもつらいことですが、現実に私たちはそうです。
だから、旧約聖書で神様のことが「父」と呼ばれる時には、それは、強い父であり、厳しい父なんです。
でもイエス様は、そうじゃないんだ、神様は私たちにとって、安心できるお父さん、信頼できるお父さんなんだとおっしゃってくださるんですね。
そして、安心して呼びかけて、安心して祈っていいんだとおっしゃってくださるんですね。
これは、イエス様が教えてくださった祈りの言葉の中身を見ても、同じです。
祈りの言葉にも、神様が安心できる、信頼できるお父さんだということが現れています。
まず第一に、「御名が崇められますように」と祈ります。
「御名が崇められますように」と言いますと、「私たちは御名を崇めます」という気持ちになりますが、これはそういう意味ではないんですね。
「崇める」という言葉は、「聖なるものとする」という言葉です。
ですから、「御名が崇められますように」という言葉は、「御名が聖なるものとされますように」という言葉なんです。
どうしてそういうふうに、「御名が聖なるものとされますように」と祈るのかと言えば、それは、御名が聖なるものとされていないからですよね。
罪びとである私たちが、神様を汚してしまっているからです。
「私たちが汚してしまったその御名を、神様ご自身が聖なるものとしてください」、これが、「御名が崇められますように」という言葉の意味なんです。
旧約聖書には、まさにそのことがそのまま記されている箇所があります。
エゼキエル書の36章22節、23節なんですが、人間が汚してしまった神様の御名を、神様ご自身が聖なるものとしてくださるということが書かれているんですね。
そしてその、神様の御名を聖なるものとするのは、どのようにしてかと言いますと、エゼキエル書の36章に書かれていることには、人間を救うことによってなんです。
人間を救うことによって、人間が神様のことを崇めるようになる。
そうして、神様の御名が聖なるものとされる。
これが、「御名が崇められますように」という祈りの意味なんです。
ですから、こうなるともう、この言葉の最初の印象からはだいぶん違ってきてしまいますが、「御名が崇められますように」という祈りは、実は、「私たちを救ってください」という祈りなんです。
これはでも考えてみれば、ずうずうしい祈りですよね。
神様の御名を汚しているのに、救ってくださいと祈るわけですから。
けれども、私たちにとって、神様は安心できるお父さん、信頼できるお父さんだから、そういうふうに祈ることができるんです。
イエス様は私たちに、そういうことを教えてくださっているんですね。
次の祈りは、「御国が来ますように」ですね。
「国」という言葉は「支配」という意味にもなる言葉です。
ですからこれは、神様が地上を支配してくださいますように、という祈りです。
そういうふうに祈るということは、現実はそうなっていないということですね。
神様が支配しておられるのではなくて、罪の力に支配されているわけです。
私たちは、自分自身の罪に、ほかの人たちの罪に、支配されてしまっている。
人間の罪が原因なんです。
それなのに、神様が支配してくださいと祈るわけですから、これもやっぱりずうずうしい祈りです。
これだけでも十分ずうずうしいんですが、これだけではありません。
聖書には、神様のご支配は世の終わりに完成すると書かれています。
そして、世の終わりには、裁きがあると書かれています。
神様の支配、神の国に入ることができるのは、その裁きをくぐりぬけた人だけです。
それなのに、「御国が来ますように」と祈るということは、これは、私たちは神の国に入れるんだ、天国に入れるんだと確信しているということですよね。
それでいいんです。
イエス様が、こういうふうに祈りなさいと教えてくださっているんですから。
神様はどこまでも神様は安心できるお父さん、信頼できるお父さんですから、私たちはこんなふうにも祈っていいんです。
さて、ここまで、前半の二つの祈りは神様のことでしたが、後半の三つは私たちのことを祈ります。
三つ目の祈りは「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」ですね。
こういうふうに祈る感覚は、とても大切なものだと思いますね。
これがクリスチャンの感覚なんだと思います。
これは、実家に帰っていた時に気づいたんですが、私の両親はクリスチャンではありませんので、あまり食べ物に感謝しないんですね。
自分でお金を出して買ってきたんだから、別に感謝することもないという感覚があるみたいなんです。
でも、そうじゃないんだ、ということですね。
毎日与えられる食べ物は、神様が私たちを養ってくださっているということなんですね。
考えてみれば、食べ物って全部命ですよね。
神様が大事に育ててくださった命です。
その命が、わたしたちの命のためにささげられているんですよね。
すごいことだなあと思いますよね。
食卓ってもう、聖なる場所です。
それに、どの食べ物も、本当にたくさんの人の手を経て私たちのところにまで届けられているわけですよね。
たくさんの人の働きの賜物です。
そしてそれを料理してくれる人がいて、おいしくいただけるわけです。
だからもう食卓っていうのは愛の塊ですよ。
神様がそこに至るまでのすべてのことを守り、祝福してくださっているから、食卓があるんです。
そうやって神様が私たちを毎日、養ってくださっている。
そのことに、私たちは毎日、食事のたびごとに感謝するんですね。
そして、食事が与えられるようにと祈るこの祈りは、言ってみれば、生活の一番基になることを祈る祈りですよね。
私たちが生きていく上で、一番基本のことというか、一番最初のことというか、そういうことを祈る祈りがこれです。
ですので、主の祈りは、「私たちを救ってください」という一番大きな、最終的なことも祈るし、一番基になることも祈る、そういう祈りなんですね。
ですからこの主の祈りというのは、オールインワンの祈りなんです。
この祈りに全部入っているっていう祈り。
この祈りだけでもう大丈夫だという、そういう祈りなんです。
そういう祈りを、イエス様は私たちに教えてくださったんですね。
後半の二つ目の祈りは、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」という祈りです。
この祈りは勘違いされることが多いんですけれども、これは、「私たちが周りの人たちを赦したら、神様も私たちを赦してくださる」ということではないんですね。
「わたしたちも(……)赦します」というのは、私たちが赦されるための条件ではありません。
そもそも、この祈りは、イエス様が教えてくださっている祈りです。
イエス様は、私たちの罪が赦されるために、私たちが何もお願いしていないのに、私たちに代わって十字架にかかってくださった方です。
そのイエス様が、「こういうふうにするなら赦されるよ」なんて、条件を付けるはずがないんですね。
ではどうして、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」というふうに祈るのかと言えば、それは、私たちが、赦しの中で生きるためです。
赦すか赦さないか、どちらもある世界に生きるのではなくて、完全に赦された、赦しだけの世界に生きるためです。
考えてみれば、「私たちの罪を赦してください」というこのお祈り、とてつもなくずうずうしい祈りですよね。
聖書で言う罪というのは神様に背くことですけれども、私たちは、自分の罪を自分ではどうすることもできません。
それを、神様にどうにかしてもらおうというんですから。
さんざん神様に逆らっておいて、赦してくださいというんですから、これはとんでもないことです。
けれども、イエス様は、私たちがお願いもしなかったのに、私たちに代わって、ご自分から十字架にかかってくださって、私たちの罪を赦してくださったんです。
私たちは今、現に、赦しの中を生きている。
赦すか赦さないかじゃないんですね。
完全に赦されて、赦しの中だけを生きているんです。
だから、こう祈るんです。
「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。
こういうふうに祈るのは、クリスチャンにだけ許されたことだと思います。
最後の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りです。
ここにでてくる「誘惑」という言葉は、「試練」とも訳される言葉です。
考えようによっては、私たちの人生は誘惑と試練の連続です。
けれども、困難な出来事を通して私たちが鍛えられるということもあるわけです。
ですのでこの祈りは、私たちを誘惑にも試練にもあわせないでくださいという祈りではないんですね。
「遭わせないでください」という言葉は、「引き込まれないようにしてください」という言葉です。
つまり、この祈りは、私たちが誘惑や試練にあったとしても、それに打ち負かされてしまうことがないようにしてくださいということなのです。
ずっと自分を神様のそばに置いていてください、神様から離れることのないようにしてくださいという気持ちで、こういうふうに祈るんですね。
神様が安心できるお父さん、信頼できるお父さんだから、私たちはそういうふうに祈るんですし、こういうふうにお願いすることができるんですね。
この祈りも、クリスチャンだけに許された祈りですよね。
世の人だったら、誘惑や試練に自分の力で勝ちなさいって言いますよ。
でも、これでいいんです。
こういうふうに祈っていいよとイエス様が教えてくださっているんです。
こういうことですから、イエス様が教えてくださった祈りというのは、全部、神様に、こういうふうにしてください、とお願いする祈りなんですね。
それも、一番小さなことから一番大きなことまで、全部含みこむ祈りです。
こんなにずうずうしいことを祈っていいんです。
イエス様が、教えてくださったんですから。
こんな祈りを教えてくださるということは、イエス様としては、もう、必ず、何としても私たちを救うおつもりなんですね。
どんなことをしてでも、命がけで私はあなたを救うよ。
そういう気持ちで、イエス様は、私たちにこの祈りを教えてくださっているんです。
ですから私たちも、そのつもりで、この祈りを祈っていきたいと思います。
私たちはもう救われているんですから、救ってくださってありがとうございますという気持ちで、祈っていきたいと思います。
命がけで愛されている者として、喜んで、この祈りを祈っていきたいと思います。
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