今週の説教「イエスを主人にする」(新約聖書・ルカによる福音書11章24節から32節)

 説教音声

 

 

ルカによる福音書1124節から32

 

24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

 

27イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」28しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 

29群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。30つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。31南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。32また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 

 

 

 

 

今、まとめてお読みした個所は、なんだか別々の話が三つ並んでいるような感じがします。

 

三つのタイトルが付けられていますけれども、「汚れた霊が戻ってくる」というたとえ話と、「真の幸い」という話と、「人々はしるしを欲しがる」という話ですね。

 

タイトルを見ましても、何の関わりもない話が並んでいるような感じがします。

 

 

 

けれども、今開いていただいているページを見ますと、一行空けてタイトルが付いていますけれども、もともとの聖書には、一行空けるということもなければ、タイトルも付いていないんですね。

 

章の番号や節の番号なんかも、もともとの聖書にはありません。

 

これは、聖書の翻訳を作った人たちがその方が読みやすいだろうということでわざわざ付けてくれているものなんですね。

 

 

 

そういうことですから、聖書というのはもともとは、全部、ひとつながりの物語であるわけなんです。

 

バラバラにして読むべきものではなくて、つながった話として読むべきものなんですね。

 

では、今日の、バラバラに見える三つの話ですが、それをつなげて読むとどういうメッセージが聞こえてくるのか、そういうつもりで読んでいきたいと思います。

 

 

 

まず、「汚れた霊が戻ってくる」という話ですけれども、悪霊が一度は人から出て行ったけれども、また戻ってくるという話ですね。

 

これは、その前の個所とつながっていますね。

 

前の個所の最後のところでは、悪霊が自分の屋敷を守っているけれども、悪霊よりももっと強いキリストがやってきて、悪霊を追い出して、すべてをご自分のものとしてくださる、という話でした。

 

ところが、その悪霊が、「出てきた我が家に戻ろう」と言って帰ってくる、というのが今日の話ですね。

 

 

 

この悪霊の言葉を聞くとぞっとしますね。

 

「出てきた我が家に戻ろう」って言っています。

 

こんな嫌な言葉はないですね。

 

悪霊にとって私たちは「我が家」なんです。

 

悪霊にとって私たちは一番居心地のいい場所だと言われてしまっているということです。

 

でも、そうであってはいけません。

 

なにしろ、聖書のほかの個所に、私たちの体は聖霊の神殿だと書かれているじゃないですか。

 

私たちの体は、神の霊を収める神殿なんですね。

 

そして、洗礼を受けた時に、私たちはその神の霊をいただいているんです。

 

だから私たちは悪霊の屋敷であってはいけない。

 

聖霊の神殿なんです。

 

けれども、悪霊にとっては私たちが我が家であるというたとえ話をイエス様はなさるんですよね。

 

気をつけなさいよということですね。

 

こんなことではいけないんだよということですね。

 

 

 

しかしこの状況は、いったいどうすればいいんでしょうか。

 

悪霊は自分よりももっと悪い七つの悪霊を連れて戻ってきて、住み着いてしまうんです。

 

そんなことを言われてしまうと、私たちにはもう、どうしようもありません。

 

ですけれどもそこで大事なのが、前の個所の最後の話ですよね。

 

悪霊よりももっと強いイエス様が来てくださったら、私たちは解放されるんです。

 

ですから大事なのは、そのイエス様に、私たちの中にずっと住んでいていただくことです。

 

そうすればもう、悪霊は戻ってくることはできないはずです。

 

 

 

このたとえ話でまずかったのはそこですよね。

 

最初に、悪霊が追い出されるということが起こった。

 

それはいいことですね。

 

そして、25節ですが、「家は掃除をして、整えられ」た。

 

これもいいことです。

 

けれども、きれいになったその家は、空き家なんですね。

 

家の主人がいないんです。

 

だから悪霊が戻ってきて、また主人になってしまう。

 

大事なのは、イエス様に、私たちという家の主人になっていただくことなんです。

 

それが、私たちが聖霊の神殿になるということですよね。

 

私たちはもちろん悪霊の屋敷であってはいけないんですが、きれいに整えられているからと言って、空き家ではいけないんですね。

 

イエス様に住みつづけていただかなくてはならないんです。

 

そうでないと、悪霊はまた戻ってきてしまうんです。

 

自分が空き家になっていないかどうか、もしかして、悪霊が戻ってきたりはしていないか、気を付けたいと思います。

 

 

 

では、私たちがイエス様を主人にしているのかどうかは、どのようにして分かるでしょうか。

 

それが、この次の、「真の幸い」という話で語られています。

 

ある人が、イエス様のお母さんのことを、幸いだ、と言っていますね。

 

この時代には、ある人のことをほめるときには、その人のお母さんをほめるということをしました。

 

ですので、ここで本当にほめられているのはイエス様です。

 

けれども、その人に対してイエス様は言うんですね。

 

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。

 

神の言葉に従う人が幸いな人なんですね。

 

神の言葉に従うというのは、神様を主人にするということですね。

 

神様を主人にしているから、その言葉を聞いて、それをしっかり心の中に収めて、それに従って生きていくようになるわけです。

 

神の言葉を聞いて、それを守っているなら、それは神様を主人にしているということだから、私たちがそうする時には、神様の言葉を伝えてくださるイエス様が必ず心の中にいて、私たちを守ってくださっているんですね。

 

そうしている時、私たちは聖霊の神殿であるのです。

 

 

 

ところが、人々は神様の言葉を聞いて守って、神様を主人にするということがなかなかできないんですね。

 

次の話ですが、「人々はしるしを欲しがる」んです。

 

聖書で「しるし」という言葉が出てきたら、それは、神のしるしということで、奇跡のことです。

 

人々はイエス様から話を聞いても納得できないで、奇跡を見せてくれ、そうすれば信じます、と言うんですね。

 

そういう人たちがすでに16節に出てきていました。

 

「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」んですね。

 

これについてイエス様は、「今の時代の者たちはよこしまだ」と言います。

 

「よこしま」と言う言葉は、原文では、単に「悪い」という言葉です。

 

しかし、しるしを欲しがるというのは、イエス様の時代の人たちだけに当てはまることでしょうか。

 

いつの時代の人たちにも当てはまることではないかと思います。

 

それに対して、イエス様は、あなたがたに与えられるしるしはヨナのしるしだけだ、と言うんですね。

 

 

 

ヨナと言うのは旧約聖書にヨナ書という書物がありますが、その登場人物です。

 

ヨナはユダヤ人なんですが、ニネベという外国の町に行くように神様に言われます。

 

ニネベの町が罪深い町だったので、悔い改めなさいという神様の言葉を伝えに行ったんですね。

 

そうするとニネベの町の人たちは悔い改めまして、神様はこの町を滅ぼさなかったんですね。

 

ヨナのおかげで、この町は救われたわけです。

 

こういうことですので、今日の30節にありますが、「ヨナはニネベの人々に対してしるしとなった」わけです。

 

滅ぼされるはずの人たちが救われるという神様の業が、ヨナを通してなされたわけです。

 

 

 

ヨナは何も奇跡を行ったわけではありません。

 

ただ、「悔い改めなさい」と伝えただけです。

 

神の言葉を伝えただけです。

 

けれども、ニネベの人々は、神の言葉を聞いて、それに従ったんですね。

 

ニネベの人々は「しるしを見せろ」とは言わなかった。

 

もともとは悪霊の家のような町だったのに、悔い改めて、神様を主人にしたんですね。

 

そうすると、そうしなければ滅ぼされるはずだったのに、救われたわけです。

 

 

 

それについて、イエス様は今日の30節でおっしゃいますね。

 

「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」。

 

「人の子」という言葉は、「私」という意味の言葉です。

 

つまりイエス様は、「私はヨナだ」とおっしゃっているんですね。

 

私の言うことを聞いて、悔い改めて、神の言葉に従って、神様を主人にしなさい。

 

そうして、滅びから救われなさい。

 

イエス様は今、そういうふうにおっしゃっておられるんですね。

 

 

 

そしてここには旧約聖書からもう一つ、南の国の女王の話が出てきていますね。

 

南の国の女王というのは、旧約聖書の「列王記」という書物に出てくる人物です。

 

この人は、イスラエルにソロモンという賢い王様がいると聞いて、ソロモンに会うためにイスラエルにまでやってきた人でした。

 

この人は、ソロモンに対してしるしを求めたわけではありません。

 

ソロモンが神様に知恵を求めたので神様が知恵を与えたんですが、そのソロモンの言葉を聞くためだけに、この人は、はるか遠くからやってきたんですね。

 

イエス様はそれをほめておられます。

 

神の知恵、神の言葉に従おうとするその態度をほめておられるんですね。

 

 

 

そして、イエス様は31節でこういうことまで言っておられますね。

 

この女王は、世の終わりの裁きの時に、今の時代の者たちを罪に定める。

 

それだけではありません。

 

32節でも同じようなことを言っておられますね。

 

ニネベの人々は、世の終わりの裁きの時に、今の時代の者たちを罪に定める。

 

この女王もニネベの人々も、罪を裁く側に立つんですね。

 

つまり、神様の側に立つんです。

 

 

 

これには、この話を聞いていた人たちは驚いたはずです。

 

南の国の女王もニネベの人々も、イスラエル人ではありません。

 

神の民であるイスラエル人ではないんです。

 

それなのにイエス様は、外国人であるその人たちが神の民を裁くことになる、と言ったんです。

 

南の国の女王も、ニネベの人々も、しるしを求めませんでした。

 

ただ、神の言葉を聞いて受け入れたからです。

 

そして、そのような人たちこそ幸いなのだ、と28節で言われていたんでした。

 

ですので、しるしはヨナのしるしだけで十分なんです。

 

神様を主人にして、神様の言葉を聞いて、守る。

 

そうすれば滅びから救われるのです。

 

 

 

そして、私たちはしるしを求める必要はありません。

 

「神様は本当に働いてくださるのかなあ」なんて、考えなくていい。

 

何か自分の力を超えた、人間の力を超えた、大きな出来事なんて求めなくていい。

 

もう、働いてくださっているんですから。

 

だから私たちは、今ここにいるんですから。

 

こうして、ここにいるということ。

 

それは、私たちが神様を主人にしているということです。

 

しるしは欲しがらなくていい。

 

私たち自身がしるしです。

 

ここにいるということは、私たちが愛されていて、救われているというしるしです。

 

そして、神様を主人としているというしるしです。

 

これは何よりも大きなしるしです。

 

だって私たちは見ないで信じたんですから。

 

見ないで信じるって、奇跡ですよ。

 

「見ないで信じなさい」なんて、世の中では誰も言いません。

 

誰も教えてくれない。

 

見たら信じますよ。

 

信じるしかないから。

 

先週、説教をしてくださったS長老がおっしゃってましたよね。

 

お母さんの死を、その手に触れて、信じた。

 

辛かったと思いますよ。

 

受け入れられないものを、受け入れた。

 

でもこれ、私たちも同じです。

 

私たちも、受け入れられないはずのものを、受け入れている。

 

目に見えない神様が私たちを愛しているって、どうやって信じられますか。

 

私たちはそもそも、目に見えるものしか信じられないのに。

 

それなのに、愛されていると信じている。

 

それは、私たち一人ひとりに、神様が働いてくださっているからなんですね。

 

そして、この場所に神様に集められて、この場所で神様の愛を受けているんです。

 

そのことを私は、神戸の実家に帰ると実感するんですね。

 

実家に帰ると私は実家から自転車ですぐのところにある自分の出身教会に行くんですが、そうすると、自分が愛されていて、救われているということを実感します。

 

当たり前のように教会に入って行って、当たり前のように受け入れられるんですね。

 

それは、私が聖霊の神殿であり、そこにいる人たちも聖霊の神殿であり、教会という場所が神の家だからなんですね。

 

だから自分も、どんな時でも安心してそこにいることができる。

 

こういう場所ってなかなかないと思うんです。

 

たいてい、人が集まる場所というのはしんどい場所ですよね。

 

世の中で人が集まる場所というのは競争させられる場所です。

 

でも、教会はそうじゃない。

 

神様が私たちを招いてくださって、受け入れてくださる場所です。

 

その神様を主人として、これからも、神の言葉に従っていきましょう。

 

神の言葉を聞き、それを守って、幸いになりましょう。