今週の説教「体のともし火は目」(ルカによる福音書11章33節から36節)

ルカによる福音書1133節から36

 

33「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。34あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。35だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。36あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 

 

 

 

 

今日の個所を読みますと、「あれっ、これってどういう意味なんだろう」という気持ちになる言葉があるのではないかと思います。

 

34節ですね。

 

「あなたの体のともし火は目である」という言葉ですね。

 

これは不思議な言葉ですよね。

 

目というのは、光を受け入れるものです。

 

光を出すものではありません。

 

なのに、「目はともし火だ」と言われているんですね。

 

 

 

ではともし火とはどういうものなのかと考えてみますと、光を出すものですよね。

 

それも、単に光っているというだけではなくて、暗い中で光っていて、あたりを照らしてくれるもの、それがともし火ですね。

 

33節で、ともし火は、「入ってくる人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われていますけれども、これはそういうことですよね。

 

要するに、ともし火があるからこそ、私たちは安心してそこにいることができますし、もし自分がともし火を持っていれば、暗い中でも歩くことができるわけです。

 

ともし火がなければ何も見えませんから、怖くなってしまうかもしれませんが、ともし火があれば見ることができますから、安心していられます。

 

 

 

その意味で、目はともし火のようなものですね。

 

目が見えるなら、触ってみなくても、そこに何があるか分かりますから、安心していられます。

 

けれども、突然目が見えなくなったとしたらどうでしょうか。

 

私たちは暗闇の中に置かれてしまうわけです。

 

その意味で目はともし火と同じです。

 

 

 

ただ、ここでイエス様が言いたいことは、肉体の目のことではありません。

 

霊的な目のことを言っているんですね。

 

次のところで、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と言われていますよね。

 

体が実際に光を放ったり、暗くなったりするわけではありませんから、これは肉体の話ではなく、霊的な話なんです。

 

ではこの部分、「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」というのは、何を言っているんでしょうか。

 

私たちは普段、「目が澄んでいる」とか「濁っている」という言葉をつかいますけれども、原文で見ますとこれはそういう言葉ではありませんでして、「澄んでいる」という言葉は「単純である」という言葉です。

 

そして、「濁っている」というのは「悪い」という言葉です。

 

つまり、私たちの目が単純なら、私たちの全身は明るいわけです。

 

けれども、私たちの目が悪いのなら、私たちの体も暗いということです。

 

 

 

では、私たちの目が単純であるとは、どういう状態のことなのでしょうか。

 

一つのものを真っすぐに見つめているということでしょうね。

 

あれこれ目移りしたりしないで、一つのものをじっと見ているということでしょう。

 

そして、そうしているなら、私たちの全身は明るいと言われています。

 

それに対して、目が悪いなら、そういうことはできないわけですよね。

 

見ようとしたとしてもぼやけてしまう。

 

そうすると、私たちの体も暗くなってしまうと言うんですね。

 

つまり、私たちの霊的な目がどうであるかによって、私たちの全身が明るくなったり暗くなったりするんですね。

 

目というのはそもそも光を受け入れるものですが、目がきちんと光の方を向いて、しっかりと開かれているかどうか、それが、私たちの全身に影響を及ぼすんですね。

 

 

 

そういうことですから、これは、私たちが光を出さなければならないということではないんですね。

 

「あなたの体のともし火は目である」と聞きますと、何だかそういう気持ちになってしまいますけれども、そうではないんですね。

 

私たちの目を、しっかりと光に向けることが大事なんです。

 

そうすると、私たちの全身は、自然に明るくなるんですね。

 

その明るさというのは、太陽の明るさではなく、月の明るさですね。

 

私たちは、自分から光を出すのではなく、光を受けて輝くんです。

 

 

 

自分自身が輝いて生きていきたいと私たちは考えますけれども、その輝きというのは、私たちの自身から出てくるのではなく、光を受けての輝きなんですね。

 

ごくまれに、本当に幸せな時に、自分自身が輝いているように感じることもありますけれども、状況が変わって苦しみ悲しみが襲ってくると、私たちは真っ暗闇の中に突き落とされます。

 

私たちは、自分の力でいつも輝いていることはできないんですね。

 

考えてみれば、輝いている人というのは、どの人も、自分で光を起こしてそれを大きくしてきたのではなくて、光を受けてきた人じゃないですか。

 

私たちを輝かせる光は、私たちの外にあるんですね。

 

私たちはその光に、しっかりと目を向けることによって、明るくされていくんです。

 

 

 

では、その光とは何でしょうか。

 

聖書のこのページの最初のところからの話の流れで言いますと、それは神の言葉ですね。

 

世の中の言葉はすべて、多かれ少なかれ、人を不自由にする言葉ですが、神の言葉は人を自由にする言葉です。

 

神様が私たちを無条件に愛してくださっているという事実がいつも奥底にある言葉です。

 

暗闇の中で不自由にされていた私たちは、その光のような言葉を聞くことで、自由にされていくんですね。

 

愛されていることを実感して、自分でも愛を現すようになっていく。

 

光を受けて、光を放つようになっていく。

 

 

 

大事なのは、神の言葉にしっかりと向き合うことです。

 

それをせずに、証拠としてしるしを求めてしまった人たちのことを、イエス様は、29節で、「今の時代の者たちはよこしまだ」とおっしゃいました。

 

この「よこしま」という言葉は「悪い」という言葉です。

 

今日の34節の目が「濁っている」という言葉も「悪い」という言葉だと申し上げましたが、これと同じ言葉です。

 

証拠としてしるしを求めるというのは、神の言葉に向き合う態度ではないんですね。

 

私たちは、神の言葉が本物かどうかをチェックする立場にあるのではないんです。

 

そもそも、チェックなんてしなくていいんです。

 

神の言葉というのは、神様が私たちを無条件に愛してくださっているという事実がいつも奥底にある言葉なんですから。

 

むしろ私たちは、自分自身の目をチェックしたいですね。

 

御言葉の光を受け入れる目が悪くなっていないかどうか。

 

しっかりとその言葉に向き合って、その言葉を光として受け止めることができているかどうか。

 

チェックしたいと思います。

 

 

 

今日の話はこういうことですから、35節で、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」というのも、もともと私たちが自分の中に持っている光のことではないんですね。

 

御言葉を光として受け入れて、それによって、あなた自身も輝いていますか、ということなんです。

 

大事なのは、単純なまなざしを御言葉に向けることができるかどうかです。

 

しるしを求めるなんていうのはもう、単純じゃないんですよね。

 

いろいろな余計なことを考えて、それでも答えが出ない。

 

だから証拠を出せ、という話になるんです。

 

そうじゃないんですね。

 

私たちは子どものような単純なまなざしで、御言葉の光を見つめるんです。

 

 

 

大人の方々はもう、単純なまなざしというのを忘れてしまっているかもしれません。

 

もしかしたら子どもでも、そういうのが良く分からないかもしれません。

 

でも、私は昔、この、単純なまなざしというのを見たことがあるんですね。

 

もちろんそれは私自身のことではなく、人のことなんですけれども、私が高校生だったころ、これは有名な映画なのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけれども、『アポロ13』という映画を観に行ったんですね。

 

「アポロ13」というのはスペースシャトルですね。

 

それが、宇宙空間で事故を起こしてしまう。

 

もう地球に帰ってこれないかもしれない。

 

そんな中で、地上のスタッフたちが一生懸命知恵を絞って、アイディアを出して、宇宙飛行士たちも頑張って、それだけじゃなくて、宇宙船で事故が起きたというニュースは世界中に伝えられましたから、世界中の人たちが祈って、……ローマ教皇が「彼らのために祈りましょう」と呼びかけて、みんな祈って、そうして、地球に戻るために大気圏に再突入するんですね。

 

大気圏に入りますと摩擦がありますから、燃え尽きてしまうかもしれないんですね。

 

もし、事故で爆発を起こしたときに壁に穴が開いていたらおしまいです。

 

そして、大気圏に突入しているその時間というのは、地上とも連絡が取れないんですね。

 

宇宙飛行士たちも地上の人たちも、祈るしかありません。

 

映画では、ここに落ちてくるぞっていう予定の地点で、みんなでずっと空を見上げてるんですね。

 

そうすると、雲の間から宇宙飛行士たちが乗ったカプセルが落ちてくるんです。

 

その時、映画館にいた人たちはみんな、「ワッ!」ってどよめいたんですね。

 

日本の映画館であんまりそういうことってないじゃないですか。

 

でもみんな、「ワッ!」って声を上げたんです。

 

で、僕は、その声を聞いて目が覚めたんですね。

 

寝てたんです。

 

せっかく映画館に行ったのに、映画、ほとんど見てなかったんです。

 

今お話ししたストーリーは、後からビデオを借りてきて観たから知っているんですね。

 

その時には何も分かりません。

 

何しろ、大きな声で起こされて、スクリーンを見ると、パラシュートが開いてて、その先にカプセルが付いてて、それが空から落ちてくるだけですからね。

 

何のことか分かりません。

 

ですので、隣に座っていた人の顔を見てみました。

 

そうするとそれが、まさに単純なまなざしをスクリーンに向けていたんですね。

 

横顔なんですが、はっきり分かるんですね。

 

しっかりと向き合って、満たされている。

 

ちょっと感動したとか、その程度じゃないんですよ。

 

満たされているんです。

 

マイナスのものがまったくない。

 

プラスしかない。

 

心がすべてそこに向かっていて、一つになって、満たされている。

 

単純なまなざしって、そういうことじゃないかと思うんです。

 

 

 

私たちもそんなまなざしを持つべきですよね。

 

『アポロ13』では、死ぬかもしれない宇宙飛行士たちが救われた。

 

それは確かにすごいことです。

 

でもそれって、自分自身のことじゃないですね。

 

でも、神の言葉は私たちみんなに向けられている言葉じゃないですか。

 

その言葉が語るんですね。

 

私たちは、見捨てられて当然のはずなのに、命がけで愛されている。

 

私たちは、滅ぼされて当然のはずなのに、救われている。

 

『アポロ13』よりよっぽど感動しますよ。

 

これ以上感動する話って、ありえないんですから。

 

そんなまなざしで、御言葉に向かい合ってください。

 

 

 

病気で休んでいる間に、私は、御言葉に向かい合うという体験をいたしました。

 

去年の末に、今年のモットーにする聖書の言葉を選ぶときに、スパーリンク先生が候補を三つ挙げてくださって、どれがいいと思うか、と聞いてきてくださったんですね。

 

その時私は、これがいいという答え方はしませんでした。

 

三つとも、全部、本当に素晴らしい御言葉だと感じたからです。

 

何しろ聖書って、普通の本とは違うんですよね。

 

聖書の中には物語もあれば、詩歌もあれば、歴史書もあれば、伝記もあれば、手紙もある、本当にいろいろな書き方をされたいろいろな書物が収められているわけですけれども、それらは全部、神様の約束なんですよね。

 

私はあなたたちをいつまでも愛し続けるよ。

 

どんなことになっても、私はあなたと一緒にいるよ。

 

そうして、いつか必ずあなたを救い出すよっていう、約束なんですよね。

 

いろいろな書かれ方をしていますけれども。

 

その約束の御声が聞こえてくるんですよね。

 

今年の御言葉だってそうじゃないですか。

 

「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。

 

この言葉なんてすごいじゃないですか。

 

私たちはいつも教会の成長を祈っています。

 

もっと多くの人に救いを伝えたい。

 

もっと多くの人に喜んでもらいたいと願っています。

 

そして、その喜びで一つになりたいと願っています。

 

でもこの御言葉、「私たち」が主語ではないですね。

 

「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。

 

神様がなしてくださるんですね。

 

これは、そういう約束なんです。

 

そう感じた時の私の横顔は、きっと、映画館で隣に座っていた人の横顔と、同じだったんじゃないかと思うんですね。

 

皆さんも、そういう横顔になっている時が、きっとあると思うんです。

 

ご自分では気づかないだけで。

 

 

 

そして、そうしているなら、36節にありますね。

 

「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。

 

私たちはそういうふうになるわけです。

 

私たち自身がともし火になっていくんですね。

 

33節にありますが、ともし火である私たちは、「入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置」かれるんです。

 

私たちが、暗闇の中にあって、周りを照らし出していくんですね。

 

人を不自由にさせる暗闇の中で、私たちは輝いて、出会う人で会う人に、光を与えていく。

 

そういうことが私たちもできるようになっていくんですね。

 

そのような、ともし火になりましょう。

 

そのために、まず、単純なまなざしを御言葉に向けましょう。

 

その時、皆さんの横顔は、隣にいる人が見てもわかるくらい、満たされているはずです。