今週の説教「恐れはどこから来るか」(ルカによる福音書12章1節から7節)

ルカによる福音書121節から7

1とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。2覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。3だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」

4「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。5だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。6五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。7それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 

 

この前の個所で、イエス様は、ファリサイ派の人たちと律法学者を批判しました。

ファリサイ派の人たちや律法学者というのはユダヤ教の中心にいた人たちですから、この人たちを批判すると大変です。

今日の個所の直前になりますが、この人たちは、イエス様に対して激しい敵意を抱くようになったんですね。

 

けれども、群衆がイエス様のもとに集まってきます。

人々は、イエス様のことを新しいリーダーだ、それまでのリーダーたちと議論して勝った偉い人だと思っていたのかもしれません。

イエス様は大変な人気を獲得したようで、数え切れないほどの群衆が集まってきました。

 

そこで、イエス様は話しはじめるんですが、この話は、集まってきた群衆に対してなされたものではありません。

イエス様はまず弟子たちに話をしたんですね。

大勢の人がイエス様と弟子たちを取り囲んでいます。

きっと、群衆は、イエス様だけではなく弟子たちにも注目していたことでしょう。

この立派な先生のお弟子さんというのはどういう感じの人たちだろうか、と、群衆は思っていたに違いありません。

その状況で、イエス様は、弟子たちにお話になるんですね。

 

イエス様は弟子たちに、「ファリサイ派の人たちのパン種に注意しなさい」とおっしゃいます。

「パン種」というのはパン生地に入れるイースト菌のことです。

パン生地の塊があって、それにパン種をほんの少し入れただけで、全体が大きく膨らむんですね。

ほんの少しのものなのに、全体に大きく影響するもの。

それがパン種です。

 

こういうものというのは、私たちの身の回りにたくさんあると思うんですね。

私はこの春、夏ではなく春なんですが、高校野球の試合をよく見ていました。

春の甲子園ですね。

実は私の母校が初めて甲子園に出たので、久しぶりに甲子園に注目したんですね。

いろいろな試合を見ましたが、高校野球というのは面白いですね。

ほんの少しのエラーで試合の流れが変わってしまうということが良くあるんですね。

一つのミスに過ぎないことが全体に大きく影響してしまう。

結果まで左右してしまう。

そういうこと、まさにパン種のようなこと、ほんの少しのものなのに、全体に大きく影響するものというのは、私たちの身の回りにもたくさんあると思うんですね。

 

イエス様は、「パン種に注意しなさい」とおっしゃいましたが、それは何かと言うと、「偽善」なんですね。

原文で見ますと、この「偽善」という言葉は、役者が顔につける仮面から来た言葉です。

要するに、外から見えるところと中身が違うことが偽善です。

これについてはイエス様は前のページですでにおっしゃっていましたよね。

1139節ですが、「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。

外から見えるところと中身が違うわけです。

人に見えるところはちゃんとしているけれども、心の中はきれいにしようとしていない。

それがパン種なんですね。

小さなことに思えても、全体をダメにするものなんだとイエス様はおっしゃいます。

 

これも私たちも気を付けたいところですね。

人に見えるところは嫌でもちゃんとしなければ仕方ありませんけれども、そういう外側のことにばかり気を取られてしまって、心の中のことを後回しにしてしまう、もしかすると忘れてしまうということは、誰にでもあることなんだと思います。

そもそも、世の中では、人に見えるところはちゃんとしなさいということが厳しく言われますけれども、心の中のことはまず何も言われないんですね。

だからますます私たちは、心の中のことはパン種のように小さなものなんだと思ってしまいます。

けれども、それは、当然、全体に大きく影響するものなんです。

 

イエス様は、心の中のものが外側にも現れ出るんだとおっしゃいます。

自分では自分の心の中は誰にも見られていないように思っていますけれども、見られているものなんですね。

だいたいイエス様は、ファリサイ派の人たちの心の中が見えていて、1139節で、こうおっしゃったじゃないですか。

「あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」。

これが見えていたのはイエス様だけではないと思うんですね。

他の人たちも分かっていたんじゃないですかね。

私たちって、結構、他の人のちょっとした表情とかちょっとした一言で、その人の心の中を覗き見ることがあるじゃないですか。

ファリサイ派の人たちの心の中のことも、多くの人は分かったいたんだと思うんです。

だから、ファリサイ派の人たちを言い負かしたイエス様のところに、数え切れないほどの群衆が集まってきたんじゃないですか。

もし人々が、ファリサイ派の人たちは心の中まで立派だと思っていたら、イエス様のところには誰も来ないはずです。

みんな、分かっているんですね。

本人は気づかないのかもしれませんが、心の中にあるものは外側にも現れ出るんです。

それは、普通の人が普通に見ても分かることなんです。

 

そして、その話の続きが4節からのところですね。

人に対してすら、心の中というのは隠すことができないものなのだから、まして神様には、なおさら隠すことができないという話ですね。

そしてここでイエス様は、誰を恐れるべきかということをおっしゃっておられます。

「恐れる」という言葉をつかっておられるんですね。

それは、私たちが、人を恐れているからですね。

私たちは、人に見えるところはちゃんとしようとしますけれども、それは、人を恐れているからですね。

怒られるかもしれない。

見下されるかもしれない。

嫌がられるかもしれない。

だから、人に見えるところはちゃんとしなさい。

世の中で私たちは小さいころからそういうふうに教わってきました。

それは、人を恐れることを教わってきたということです。

その私たちに対して、本当に恐れるべき方は神様なんだよとイエス様は言います。

 

これで、どうしてファリサイ派の人たちの偽善が良くないことなのか分かりますね。

彼らは、神を恐れず人を恐れているんです。

それなのに、自分は立派に神様に従っているように見せようとしているんですね。

まさに偽善です。

偽善というのは外側と中身が違うということでしたが、まさにそれですね。

外側はちゃんとして、神様に従っているように見せておいて、でも、心の中では人を恐れているんです。

神様のことは考えてないんです。

そしてこれが、まさにパン種ですよね。

小さなことに思えても、世の中で生きている私たちにとって当たり前のことに思えても、それは全体をダメにするものなんですね。

 

ここで、イエス様は恐ろしいようなことをおっしゃいますね。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。

こんな言葉を聞くと、自分は大丈夫だろうかと思ってしまいます。

地獄に投げ込まれることはないだろうかと心配してしまいます。

何しろ、私たちはみんな、世の中で、偽善を教育されてきているんですから、神様が私たちをどうご覧になっているのか、分かりません。

けれども、そういう恐れは必要ありません。

ここで言われているのは、人は誰も私たちを完全には支配できないということです。

私たちを完全に支配しておられるのは神様なんですね。

人は人の命を奪うことがあります。

でもそれは、人を完全に支配したことにはならない。

神様は、私たちの命を超えて私たちを支配しておられるんですね。

神様こそが、私たちが生きている間も、それだけでなく死んでからも、私たちを支配しておられる。

その神様を恐れなさい。

人を恐れてはならない。

そういうふうにイエス様は、私たちの信仰を励ましてくださっているんですね。

 

私たちは人を恐れることを教わってきましたから、人を恐れます。

けれどもそれは、本当に恐れるべき方を恐れていないからです。

神を恐れていないから、人を恐れるんです。

神を恐れることによって、私たちは、人を恐れることから解放されます。

神様こそが、私たちを、完全に支配しておられる。

人の支配は、絶対的なものではなく、恐れる必要はない。

イエス様はそういうふうに、私たちを励ましてくださっているんです。

 

そういうことですから、イエス様がおっしゃる、「神を恐れなさい」という言葉は、「神を信頼しなさい」ということですね。

最後のところで、こういうことをおっしゃってくださっているじゃないですか。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

二アサリオンというのは千円くらいです。

一匹200円の雀でも、神様はちゃんと見ておられる。

まして、私たちのことを神様が見てくださらないことがあるだろうか。

神様は、私たちのことをすべてご存じで、私たちを支えて、導いてくださっているんだ。

だからここでイエス様は、「恐れるな」とおっしゃるんですね。

私たちは、何も恐れないでいいんです。

神様が私たちと共におられるんですから。

神様が私たちを御手の内に置いていてくださっているんですから。

何も恐れる必要はないんです。

 

そして、もしそのような信仰を私たちが持つなら、それは逆の意味でのパン種ですよね。

その信仰は、私たちをまるっきり変えてくれます。

恐れながら生きていた人生を、安らぎの中を生きる人生に、変えてくれるはずです。

私が私であるということは変わらなくても、私の職業や住んでいる場所は変わらなくても、私たちの人生の中身が変わります。

神様を信頼する、という小さなパン種を心の内に収めるだけで、私たちは丸ごと新しくなるんですね。

 

そしてそれは、周りの人も気づきます。

内側のことは必ず外側にも現れるんですね。

だからイエス様は今日、まず、弟子たちにお話になったんです。

数え切れないほどの群衆が詰めかけてきています。

群衆は、イエス様だけでなく、弟子たちも見ています。

弟子たちは見られているんですね。

イエス様の弟子って、どんな人たちだろう。

弟子たちは見られているんです。

その弟子たちに、イエス様は、今日の話をなさいました。

あなたがたが、世の人とは違うことを見せてやりなさい。

あなたがたが、恐れを生きているのではなく、安らぎを生きていることを見せてやりなさい。

そういうことじゃないですか。

 

同じことが、イエス様の弟子である私たちにも言われています。

私たちは、自分が新しい人生を生きていることを見せることができると思います。

ましてイエス様は今日、弟子たちのことを、4節で、「友人」というふうに呼んでくださっているじゃないですか。

私たちは神の子の友人なんですね。

無関係の人間じゃないんですね。

ただの顔見知りでもない。

友人なんです。

神様にとって私たちは、息子の友達なんですね。

神様は私たちをそのように見てくださるんです。

私たちに、何か恐れることがあるでしょうか。

神様は、私たちを、世の人とは違う人として見てくださっているんです。