
ルカによる福音書12章13節から21節
13群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
今日のところでは、最初にちょっとびっくりするような人が出てきますね。
こんなことを言う人が出てきました。
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
私たちがもし、イエス様に会ったとしたら、こんなことを言うでしょうか。
少なくともこういうことは言わないのではないかと思います。
けれども、これは、この時代の人にとっては当たり前のことだったんですね。
この人はイエス様のことを「先生」と呼んでいますけれども、ユダヤ教の先生はこういったことについても、聖書に基づいて、法律家のような感じで指導をしていたんですね。
ユダヤ教の先生は、人々の生活の具体的な事柄についても教えていたわけです。
そこで、イエス様のことを先生として尊敬していたこの人は、イエス様に相談しに来たんでした。
ですからこれは、この人にとっては当たり前のことなんです。
けれども、それに対してイエス様はどう答えたか。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」。
厳しい言葉です。
イエス様は人々の生活の具体的な事柄については答えてくださらないんでしょうか。
それどころか、群衆の一同に向かってこうおっしゃいます。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」。
自分のことがこんなふうに周り中の人たちに言われるのを聞いて、イエス様に相談しに来たこの人はどんな気持ちだったでしょうか。
「自分の兄弟が自分に遺産を分けてくれない」というのがこの人の抱えていた問題です。
この時代のイスラエルでは、財産は長男が一度全部受け継いで、弟たちは一番上のお兄さんから自分の取り分をもらう、というかたちだったようです。
ですから、この人が自分の取り分を求めるのは当然の権利です。
それなのに、貪欲だと言われてしまったんですね。
むしろ、この人に財産を分け与えようとしないこの人のお兄さんが貪欲だという話なのに、自分が貪欲だと言われてしまったんです。
これではこの人がかわいそうです。
ここでイエス様が言いたいことは、財産の話や権利の話ではありません。
イエス様は、自分は裁判官や調停人ではないと最初に言っていましたよね。
イエス様は、そんな話をしたいんじゃないんです。
ユダヤ教の先生たちがしているような話をしたいわけではないんです。
財産とか権利とか、世の中で生きていく中での具体的な事柄を取り扱って、人々を豊かにしたいとか、そういうことではないんですね。
ですから、イエス様がここで言っていることは、自分の取り分を求めるという当たり前のことでも貪欲ということになるとか、そういうことではないんですね。
イエス様は私たちに、本当の意味で豊かになってもらいたい。
私たちにも、自分の財産を守りたい、自分の権利を守りたいという思いがありますけれども、イエス様はそれを否定しておられるのではなくて、本当に大切なものは財産ではないんだよということなんです。
だから、15節後半でイエス様はこうおっしゃいますね。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。
ここでイエス様がおっしゃっておられること、分かりますよね。
イエス様は、財産に目を向けるよりも、命に目を向けろと言ってるんです。
命があるから財産を持っていることに意味があるのであって、命がなくなってしまえば、どれだけ財産を持っていても意味はありません。
そして、命に目を向けないから、私たちは貪欲になってしまうんですね。
貪欲というのは、必要でないものまで欲しがることですが、もし私たちが命にしっかりと目を向けていれば、命に必要ないものまで欲しがることはないでしょう。
これについて考えているとき、トルストイという作家が書いた『人にはどれだけの土地がいるか』という物語を思い出しました。
ある農民がいて、最初は土地を持たずに人の土地で農業をしていたんですが、小さい土地を買ってしまうと、もっと大きい土地が欲しくなって、もっと大きい土地を手に入れるとさらに大きい土地が欲しくなって、とうとう最後に、こういう条件で土地を売ってあげようという人が現れるんですね。
「日が昇ってから日が暮れるまで、一日かけて歩き回った土地を、その土地の広さにかかわらず、決まった値段で売ってあげよう」。
こうなるとなるべく長い距離を歩いた方が得ですから、どれだけ疲れても彼は一生懸命歩くんですね。
ただし、一日歩いて、スタート地点に戻ってこなくてはならない。
なるべく遠くまで行ったほうが得ですから、遠くまで歩くんですけれども、そうなると戻ってくるのが大変です。
最後なんかもう、日が暮れるのに間に合うかどうかギリギリになってしまって、一生懸命走るんです。
そして、そのために、命を落としてしまう。
この人のお墓を掘った人は言いました。
「人にはどれだけの土地が必要なんだろうか」。
結局のところ、本当に必要だった土地は広い土地ではなくて、自分のお墓にする小さな土地だった、という話です。
この物語は多分、聖書の今日の個所を読んで、トルストイが考えた物語ではないかと思うんですね。
この物語に出てくる農民は、命に目を向けていなかった。
土地という財産にだけ目を向けていた。
だから命に必要ないものまで欲しがった。
そこまでは必要ないような広い土地まで欲しがった。
最初は、土地を持たずに人の土地で働くことに満足していたのに。
貪欲の結果というのはそのように、愚かな結末に至るんですね。
命に目を向けていない時には、人は、必要のないものまで欲しがってしまう。
本人がいくら真剣でも、客観的にはそれは愚かなものなんですね。
神の目で見て愚かであるどころか、人の目で見ても愚かなんですね。
けれども、考えてみると、命に必要のないものまで欲しがってしまうということは、多かれ少なかれ人間みんなに当てはまることではないかと思います。
私も、つい最近、そういうことがありました。
私は基本的に生活にお金をかけるということを考えないんですけれども、考えてしまったんですね。
これからは、もうあんまり自由に買い物をしたりできなくなってしまうかもしれない。
そこで、今の内に、欲しいものを買ってしまおうと考えたんです。
そこで、インターネットで靴を買ったんですね。
本当に必要だったわけではないんです。
ただ、これからは自由でなくなるかもしれない、と考えて、それで買ってしまった。
そしてそれで、失敗しました。
インターネットの画面で見てみると、とてもいい色の靴があったんですね。
明るい茶色の靴。
革靴なんですけれども、黒っぽい茶色じゃなくて、薄茶色というか、明るい茶色なんですね。
以前、そのような明るい茶色の革靴を持っていて、その靴をとても気に入っていたので、すぐに買いました。
そうすると、こんな色の靴が届きました。
これ、明るい茶色じゃないですよね。
オレンジ色ですね。
本当にどうしようかと思いました。
必要がないものを欲しがると、こういうことになるんですね。
そして、そういうことは、命に目を向けていないから、財産のことばかり考えているから起こってくるんだとイエス様は言っているんです。
だからイエス様は言うんですね。
「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」。
人の命は、その人が持っているものによって決定されるのではない。
そして、イエス様がおっしゃっておられるのは、物とか財産とか、形あるもののことだけではありません。
ここのところを原文で見ますと、「何かが有り余るほどあっても、人の命は持っているものによってどうすることもできない」という言葉になっています。
ですから、物とかお金とか、そういうことに限定されていないんですね。
才能が有り余るほどあっても、体力が有り余るほどあっても、見た目の美しさが有り余るほどあっても、何がどれだけたくさんあっても、人の命はどうすることもできない、と言っているんです。
私たちは才能や体力や美しさが有り余るほどあったらどれくらいいいだろうかと思いますし、だからこそ、才能や体力や美しさで人を見たりもするわけなんですが、イエス様は、こう言うんですね。
才能も体力も美しさも、持ち物も財産も、命あってのものだ。
そういうものを見るよりも、命を見すえなさい。
命を見すえないなら、貪欲になる。
必要のないものまで欲しがるようになる。
そして、愚かなことに、人生を誤ってしまう。
命を見すえて賢く生きていきなさい。
そして、そのことをたとえ話でお話になるんですね。
「愚かな金持ち」のたとえです。
20節で、このたとえ話の中で、神様はこの金持ちのことを「愚かな者よ」と言っています。
この金持ちは愚かだったんですね。
自分の命のことを何も考えていないという点で愚かだった。
この人が一生懸命働いたのは良いことです。
そして、財産を増やしたことも良いことです。
ただ、命のことを考えていない。
そして、自分の命を支配しておられる方のことを考えていない。
この人は命を失うのではないんですね。
20節に、「お前の命は取り上げられる」と書かれています。
取り上げるのは神様です。
つまり、私たちの命は、神様の主権のもとにあるということなんですね。
命の主権は、私たちにあるのではない。
命の主権が私たちにあるのなら、この金持ちだって、死ぬことはなかったでしょう。
けれども、そうではない。
人は、自分がいつ命を失うのかを知ることができません。
命の主権は私たちにはない。
神様にあるのです。
逆に言って、私たちが今生きているというのは、神様に生かされているということなんですね。
私たちは自分の意志で、生きようと思って生きているのではない。
生かされているんです。
命を与えられて、存在することを許されている。
丸ごとゆるされている。
生きているというのはそういうことなんですね。
そのことを見すえないから、この人はこんな愚かなことになってしまうんですね。
この人は、自分のことしか考えていませんよね。
自分の財産を増やして、それを自分だけで楽しむ。
そして、原文で見ますと、この人のセリフに出てくる「作物」とか「倉」とか「財産」という言葉にはすべて、「わたしの」という言葉がくっついているんですね。
「わたしの作物」、「わたしの倉」、「わたしの財産」。
自分のことしか考えていないんです。
命のことを考えないから、神様のことを考えない。
神様のことを考えないから、神様が愛しておられる他の人たちのことも考えない。
自分の財産を増やして、それを自分だけで楽しむ。
自分のことしか考えなくなってしまうんです。
イエス様は今日、私たちの命の主権を持っておられる神様について教えてくださっています。
このたとえ話の中での神様は、なんだか恐ろしい方のように描かれていますけれども、そうではありません。
私たちに命を与え、私たちを生かしてくださる方です。
私たちは生きることをゆるされている。
存在することをゆるされている。
神に愛されている。
その私たちは何を目指すべきでしょうか。
最後の、21節です。
「神の前に豊かになる」ということですね。
これは、善い行いをしろと言われているのではありません。
「神の前に」という言葉は、「神の中へ」とか「神に向かって」という言葉です。
つまり、神様との関係を豊かにすることなんですね。
自分のために富を積むこと自体は悪いこととは言われていません。
大事なのは、神様との関係なんです。
神様との関係が豊かになれば、命に必要のないものを欲しがるようなことはなくなるはずです。
そうして、愚かな者ではなく、賢い者になります。
愚かな金持ちのように、根拠もないのに安心することもなければ、不安におびえながら生きることもなくなるでしょう。
財産があろうがなかろうが、才能があろうがなかろうが、神の前に生きる。
たとえ、今夜命が取り去られようとも、私たちをご自分のもとに招いてくださる神の前に生きる。
そのように、平安の中を生きていくことができるようにされるはずです。
私たちがそうなるように、イエス様は私たちのもとに来てくださったんですね。
イエス様は裁判官や調停人ではないんです。
私たち、罪びとの救い主です。
聖書で言う罪びとというのはエゴイストということですが、自分中心の、救われないはずの罪びとである私たちが、救われる道になってくださった。
ご自分の命が取り去られても、私たちを救いたいと、そこまで私たちを愛してくださった。
私たちの命のために、ご自分の命を投げ出してくださった。
その永遠の愛の中を、生きていきましょう。
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