
ルカによる福音書12章22節から34節
22それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。23命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。24烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。25あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。26こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。27野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。28今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。29あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。32小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。33自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。34あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
「思い悩むな」と言われています。
「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。
しかしこれは、思い悩むなと言われても、考えないわけにもいかないことではないでしょうか。
今度、11月19日に、私が主催のパーティーに皆さんにいらしていただいて、皆さんに食事をお出しするのですが、どういうものを食べていただこうかと私の方でもあれこれ考えますし、皆さんの方でも、どういうものが出てくるだろうかという思いもおありだと思うんですね。
何を着ようかというのもそうです。
どんな衣装がふさわしいのかと私の方でもいろいろ試してみました。
私はそんなに思い悩むということはなかったのですが、女性は本当にこういうことで思い悩みますよね。
今、もしかすると皆さん、本当に思い悩んでおられるのではないかと思います。
私も選ぶのに付き合わされて、ずいぶん長い時間待たされました。
でも、どれもこれも違いなんてほとんどないんですね。
はっきり言って私の目には全部ほとんど同じです。
ところが、「さっきのと今のと、どちらがいいか」と聞かれるわけなんですね。
けれども、さっきのものと今のものの違いがよくわからないんですね。
でもそこで「どちらでもいいよ」と言ってしまうと怒られそうですから、「どちらもよく似合っておられますよ」と言うわけなんですが、そういうことを言っても相手の思い悩みは収まりません。
そこで、次に、「さっきのと今のと、どちらがいいか」と聞かれた時に、「こっちがいい」と答えました。
けれども、それで決定ではないんですね。
最初から私の意見なんて聞いてもいないかのように、「でもさっきのも良かったし」とか言って、また悩み始めるんですね。
そこから私はもう何も言わないと心に決めて、人形のように黙ってじっと座って待っていました。
まあそれは現代の話でして、イエス様の時代に、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言ったらこれはもっと大変な問題で、食べるものがない、着るものがない、という問題なんですね。
私たちは、今では、そういうことを思い悩むことはあまりないのではないかと思うんですね。
けれども、食べることについて、着ることについて、思い悩むことはなくなっていないですね。
豊かになったら豊かになったで思い悩むんですね。
選択肢がいろいろありますから、なかなか決めることができない。
そして、豊かになったとは言っても、それをいつ失ってしまうかは分かりません。
会社をクビになってしまうことだってあるかもしれませんし、会社が倒産するかもしれません。
私たちの寿命は長くなりましたが、いつ病気になるかわかりませんし、寿命が長くなった分、どのようにして親の介護をするか、どのようにして自分が介護してもらうかという心配もあります。
もしかすると、どのようにして若さを保つか、どのようにして美しさを保つか、ということで思い悩んでおられる方もいらっしゃるかもしれません。
そのように、人間は、どんな時代にどんな文明のもとに生まれても、命のことと体のことで思い悩むものなんですね。
そのような私たちに、イエス様は今日、おっしゃいます。
「思い悩むな」ということですね。
これ、「悩まなくていいよ」っていうような言い方じゃないですね。
「思い悩むな」、命令です。
人間は命のことと体のことで思い悩むものなのに、それが普通なのに、その私たちにこう言うんですね。
これは私たちとしては困ったことです。
そんなこと言われてもどうすることもできません。
続けてイエス様はおっしゃいます。
「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。
もちろんそれはそうです。
けれども私たちは、命が大切だから食べ物のことで思い悩むんですし、体が大切だから衣服のことで思い悩むんです。
仕方ないじゃないですか。
私たちは命のことと体のことで思い悩むものなんです。
そこで、イエス様は私たちの目を他の生き物に向けさせます。
烏と野原の花ですね。
烏は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないが、神様が養ってくださっている。
野原の花は、働きもせず紡ぎもせず、燃料にされてしまうような草花を、神様が美しく装ってくださっている。
「まして、あなたがたにはなおさらのことである」。
命と体は神様が養ってくださるということなんです。
どの命もどの体も、神様は大切に思っておられて、養ってくださるんです。
だから、イエス様はさっき、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」とおっしゃったんですね。
イエス様は、食べ物や着る物で頭がいっぱいの私たちに、もっと大切なこと、命と体のことを考えさせようとしておられる。
そして、その命と体を神様が大切に養ってくださることに気づかせようとしておられるんです。
そういうことですから、イエス様がここでなさっておられるのは、信仰の話ですね。
「命と体のことで思い悩むな」という命令は、「命と体を養ってくださる神様を信頼しなさい」ということなんです。
だから、28節で、「信仰の薄い者たちよ」と言っているんですね。
そして、30節に入ると、「異邦人」という言葉が出てきます。
異邦人というのは外国人ということですが、要するに、神様を知らない人たち、神様を信頼していない人たちのことです。
その人たちのことを取り上げて、何を食べようか、何を飲もうかというのは、神様を信頼していない人たちの思い悩むことだ、と言うんですね。
人間は、どんな時代にどんな文明のもとに生まれても、命のことと体のことで思い悩むものなんですけれども、それは、イエス様の目には、神様に信頼していないということなんだということなんです。
神の民であるのなら、そうであってはいけない、と言うんです。
神様を信頼していないのなら、自分で自分を養わなくてはなりませんから、食べ物や着る物を切実に求めなくては仕方ありません。
しかし、神の民はそうする必要がない。
なぜかというと、30節の後半です。
「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」。
食べ物や着る物が大事じゃないんだということではないんですね。
それらは必要なものです。
だから私たちは思い悩むんです。
だけれども、思い悩まなくていい。
私たちの必要を神様はちゃんと知っていてくださっていて、神様が必要な時に必要なだけ、ちゃんと与えてくださるんです。
その神様に信頼しなさい。
思い悩みを生きるのではなく、思い悩みから解放されて、神様に養われて生きていきなさい。
これがイエス様のお考えなんです。
そのように生きるときに、私たちは、栄華を極めた王様も及ばないほどに、神様が私たちの人生を美しく装ってくださることを体験していくんだと思います。
ですから、私たちが求めるべきは食べ物や飲み物ではありません。
31節で、「神の国を求めなさい」と言われています。
「神の国」という言葉は、「神の支配」とも訳すことができる言葉です。
神様が私たちを養ってくださり、装わせてくださることを知っているからこそ、その神様の支配を求めていくんですね。
そうして、思い悩みを生きるのをやめて、神様の養いの内に生きるようになっていく。
これが神の答えです。
そうすると私たちは、33節のようになります。
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。
これを読むとちょっとびっくりしてしまいますね。
そうしなければいけないのかという気持ちになってしまいます。
けれども、そういうことではありません。
神様の支配に入ると、私たちは思い悩みから解放されます。
自由にされます。
ですので、こういうこともできるようになる、ということなのです。
私たちはもう、物にしがみつくことがなくなる。
物に振り回されることがなくなる。
だから、それらを自由に用いることができるようになる。
自分のためではなく、人のために、神様のために、それをささげることができるようになっていく。
そうして、神の国が、神様の支配が、そこからまた少し広がっていく。
そういうことなんです。
それをすでに私たちは始めているじゃないですか。
私たちはこの場所で、神様の支配のためにささげものをしています。
奉仕もしています。
私たちのためじゃないですよね。
神様のご支配のためにです。
自分で自分を養おうとするなら、物でもお金でも、自分の手元に置いておかなければなりません。
自分の時間も自分のためにつかいます。
けれども、私たちは神様に養われて、神様に装わせていただいている。
そのことが分かっているから、自分のものや自分のお金や自分の時間を人のために、神様のために用いていくことができているんですね。
私たちはそんなふうにして、思い悩みから解放された本当の自由を、生きはじめているんです。
私たちはそのようにして、今、富を天に積んでいっているんですね。
イエス様が最後のところで、「富」という言葉をつかっておられるのが興味深いですね。
「富なんてことを考えるな」って言ったんじゃないんですね。
「富をどこに積むか」という話をなさった。
イエス様は私たちのことをよくご存じなんですね。
私たちが「富」というものをどれほど大切にしているのかを良く分かっておられるんです。
だからわざわざこの言葉をおつかいになられるんですね。
何を食べようか、何を着ようかと思い悩むなという言葉で、今日の話は始まりましたが、それも突き詰めると結局は、私たちが富を頼りにしているということですよね。
異邦人なら、神様よりも富を信頼している。
確かに、富には力があります。
しかし、考えてみると、富というのは過剰というか、余分なもののことですよね。
必要以上のもの、余分なもの。
余分ということは、本来なくてもいいものだということです。
ではどうして余分なものを人が追い求めるようになってしまったのかというと、それはある学者に言わせると、人類が農業を始めたからだということなんですね。
もともと狩りをして、必要なだけ獲物を取っていたのが、農業を始めて、収穫をためこんでおくようになった。
動物を獲物として取っても一週間も置いておけないけれども、農作物なら何か月も置いておくことができる。
だから、ためこむことができる。
その時、どうせためるならたくさんためておいた方が将来も安心だということで、余分にためこむようになって、富という考え方が生まれた、ということなんだそうです。
この富によって人類は将来のことを安心することができるようになったけれども、将来のことで悩むようになった。
そう考えますと、今日のイエス様のお話、面白いですね。
烏について、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない」とおっしゃっていますけれども、これ、農業のことを言っているんですよね。
私たちが「富」ということを考えるようになった、その根っこのことを言っているんです。
けれども残念なことに私たちはもう「富」という考えに慣れきってしまっていますから、そこから頭が離れない。
最後のところで、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」と言われているとおりです。
心が奪われてしまっている。
余分なもので、本来いらないはずのものなんだけれど、そうは思えない。
そして、だからこそそれに振り回されてしまう。
最初から余分なものを求めることがなければ、「何も持っていなくても、今、神様に生かされているから幸いだ」、「すべて神様にお返ししても、何の文句もありません」と考えて、思い悩むことなんてないわけです。
けれども、人間なかなかそうはいかない。
イエス様は人間のそんな様子をよくご覧になって、「富」という言葉をわざわざつかってくださったんだと思うんですね。
私たちは「富」という余分なものに頼るけれども、それは天に積みなさい。
頼るべきものを、天に置いておきなさい。
つまり、やっぱり、神様に信頼しなさい。
頼るべきものをどれだけ余分に地上に置いても、人間はいつまでたっても本当には安心できない。
盗まれるかもしれないと心配をしなくてはいけないし、虫が食い荒らしたり古びたりしてしまう心配をしなくてはならない。
そんな地上のものに頼るのではなく、天の父に頼りなさい。
神様が養ってくださり、装わせてくださることに気づきなさい。
その時、私たちは、「何も持っていなくても、今、神様に生かされているから幸いだ」と心から思えるようになるんだと思うんですね。
そのような生き方は、世の人の目には映らないのかもしれませんが、そのような生き方を、イエス様は、栄華を極めた王様よりもはるかに素晴らしい、と言ってくださるのだと思います。
そのような生き方をしていきましょう。
神様の目に美しい生き方をしていきたいと思います。
私たちはすでに、そのような生き方を始めているのです。
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みんと (土曜日, 11 9月 2021 16:27)
とても納得のいく説教でした。
神様に生かされているということを忘れてはいけませんね。勉強になりました!