今週の説教「平和のために」(ルカによる福音書12章49節から53節)

今週の予定

 

11月8日(火)午前9時から午前10時半 礼拝

11月9日(水)午後7時半から午後8時半 聖書を読む会

11月10日(木)午後1時から2時20分 コンディショニング・ストレッチ

11月11日(金)午前10時から午後2時 コーヒー・ブレイク(聖書を自由に読む試みです)

11月13日(日)午前10時半から12時 礼拝/午後1時から午後2時半 ゴスペル自主練習

 

ルカによる福音書1249-53

49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」

 

 

何だかここのところ、イエス様の厳しいお言葉が続いていますね。

「しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる」。

こんな言葉を聞くと、私自身、心配になります。

昔、ある人がこんなことを言うのを聞いたことがあります。

「この『しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる』という預言は、私の家で実現しています」。

大変なことですね。

まあ、口に出して言うことができるのでしたら、そんなにひどい状態でもないのかなあとも思いますが、「一度関係が崩れてしまうとそれがもう最後」ということもあり得ますから、やっぱり大変なことです。

 

しかも、イエス様はこういうことまでおっしゃっています。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。

これには本当にびっくりしますね。

イエス・キリストは、地上に平和をもたらすために来てくださったはずです。

この福音書の最初の方、214節ですけれども、キリストの誕生にあたって、天使はこんなふうに賛美しました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。

キリストの誕生は、地に平和をもたらす出来事なのです。

そして、キリストご自身、人々に出会ってあいさつをなさるとき、「あなたがたに平和があるように」としばしばおっしゃいますね。

「あなたがたに平和があるように」。

実はこの言葉は、ヘブライ語の普通のあいさつの言葉です。

ですからここのところを、「こんにちは」と書いてもいいはずなのですが、福音書を書いた人々はそうは書かなかった。

このイエス様のあいさつの言葉を原文で見ますと、ギリシャ語でそのまま、「あなたがたに平和があるように」と書かれているんですね。

「こんにちは」という言葉じゃないんです。

福音書を書いた人たちはよくわかっていたんじゃないですか。

「あなたがたに平和があるように」というあいさつの言葉、ただのあいさつの言葉に、イエス様は本当にそうなるように、という気持ちを込めておられる。

ただのあいさつの言葉として、なんとなく言っているんじゃない。

本当にそう願っておられる。

福音書を書いた人たちはそのことを感じて、ここに、「こんにちは」とは書かずに、「あなたがたに平和があるように」とギリシャ語で書いたんだと思います。

それなのにイエス様は今日、このようにおっしゃるんですね。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。

 

今日の最初のところでは、もっとはっきりとこんなことをおっしゃっていますね。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」。

平和なんかじゃないですね。

まったくその正反対のようです。

ただ、それに続いて、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われています。

ですので、その火は、この時点では、まだ燃えていないということです。

そういうことですので、この火は、戦争やなんかのことではないんですね。

平和の反対というと私たちは戦争をイメージしますけれども、そういうことではないんです。

 

では一体イエス様は何をしに来られたのか。

50節で、こんなことをおっしゃっていますね。

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。

つまり、イエス様がこれから洗礼を受けると、地上に火が投げ入れられる、ということのようです。

けれども、イエス様はこの福音書ですと321節で、もうすでに洗礼を受けておられました。

本来イエス様は、罪を洗い清めて、新しくされる、そのために洗礼を受ける必要はないわけなんですが、私たちの側に立つために、私たちと同じように洗礼を受けてくださったんですね。

ですので、今ここでイエス様がおっしゃっておられる洗礼というのは、その、私たちも受ける、いわゆる普通の洗礼のことではありません。

しかも、洗礼とは罪を洗い清めて、新しく生まれなおすことですから、喜ばしいことであるはずなのに、「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われています。

この洗礼、何を指しているのかといいますと、十字架ですね。

苦しみを受けて、十字架にかけられて死ぬという洗礼を、これからイエス様は受けるのです。

イエス様が人々の罪を背負って十字架にかかってくださることによって、私たちの罪が赦される道が開かれたわけですから、これは私たちにとってはありがたいことですけれども、イエス様にとっては苦しみです。

日本語で「洗礼」という言葉を見ますと、何か特別な言葉のように思えますが、原文で見ますと、この言葉は、単に「どっぷり浸かる」という言葉なんですね。

船が沈没するときなんかにもつかわれる言葉なんですが、「どっぷり浸かる」というただそれだけの言葉なんです。

この時代の洗礼は、全身をどっぷり水に沈めて行われたんですが、全身を水に沈めることは、死ぬことを意味します。

ノアの箱舟の大洪水のイメージですね。

罪に対して死ぬわけです。

それをイエス様が私たちに代わってなさってくださったわけですから、私たちにとってはありがたいことですけれども、イエス様にとってはとてつもない苦しみなんですね。

この福音書の2239節からのところですが、十字架にかけられる前の夜、イエス様は祈りました。

ただ祈ったのではありません。

こんなふうに書かれています。

「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」。

とてつもなく苦しんでおられるんですね。

そして、こんな言葉で祈っておられます。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。

「この杯を(…)取りのけてください」と祈っておられる。

この「杯」という言葉も、今日の「火」という言葉も、聖書では同じようにつかわれます。

「杯」も「火」も、どちらも神の裁きを意味する言葉です。

つまり、イエス様は、神の裁きを私たちに代わってご自分が受けるために地上に来られたんですね。

私たちの罪に対する神の裁きを私たちの代わりに受けてくださるために、イエス様は来てくださった。

私たちが自分の罪に滅ぼされてしまうことがないようにです。

罪に対する罰を、私たちに代わって受けてくださったんですね。

 

ですから、イエス様は今日、何か恐ろしいようなことをおっしゃいますけれども、それは、私たちのことではないんです。

「わたしはどんなに苦しむことだろう」とおっしゃいますけれども、その通りなんですね、苦しむのは、私たちではない、イエス様が私たちに代わって苦しんでくださるんです。

イエス様は、高いところ、天の上から私たちが苦しむのを黙って見物しておられるような方ではないんです。

私たちのところにまで降りてきてくださって、私たちに代わって苦しみを負ってくださる方なんですね。

私たちの苦しみを、ご自分の苦しみとしてくださる方なんです。

私たちを、苦しむままにはしておかれない。

それどころか、私たちが苦しまなくていいように、私たちに代わって苦しんでくださる方なんです。

その御心を知っているから、私たちは洗礼を受けたんですね。

キリストの十字架の死にあやかって、自分の罪に対して死ぬぞ、と。

それだけでなく、イエス様がくださる聖霊にもどっぷり浸けられて、新しい命に生かされるようにされたんですね。

この福音書の316節ですが、イエス様に洗礼を授けた洗礼者ヨハネという人は、イエス様のことをこんなふうに言いました。

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。

裁きのその火はイエス様が引き受けてくださった。

私たちには聖霊が与えられた。

本来、裁きをなさる側の方が、私たちに代わって裁きを受けてくださった。

そうでなくては、私たちが本当に新しく生きる、御心にかなう生き方を目指していくということができないと知っておられたからです。

罪という言葉はもともとは「的外れ」という言葉ですが、私たちが自分の力で神の目にもまっすぐに生きることはできないと、知っておられたからです。

そのために、イエス様は十字架にかかってくださった。

裁判官が、被告の刑罰を、代わりに受けてくださった。

この世では考えられないことです。

けれどもそれが、神の真実、神の答えなんです。

神の愛なんです。

 

しかし、それによって、地上には分裂がもたらされるんですね。

イエス様は、家族の中にも分裂がもたらされると言います。

ユダヤ人は家族の絆を重んじます。

ですからこの言葉は、大変な言葉です。

53節の言葉は旧約聖書のミカ書の言葉をイエス様が語っておられるものなんですが、どんな親しい間柄でも、分裂が起こってくる。

十字架によって、親しい人々の間も引き裂かれる。

どうしてでしょうか。

十字架の赦しの愛を受け取るか、受け取らないか。

これは、受け取るか受け取らないかしかありません。

中立ということはありえません。

赦しの愛を受け取るか、受け取らないで拒否するか。

それによって、それまでどんなに親しかったはずの人々も、二つに分けられてしまうんですね。

 

私の両親はクリスチャンではありません。

聖書を開くと一緒に読んではくれるんですが、話も聞いてくれるんですが、なにかこう、良いものは良いと認めながらも、それを自分のこととしてはとらえていないんですね。

なにかこう、中立的な立場で、部分部分で、こういう考え方はいいね、という感じです。

しかし、十字架の前に立つとき、中立ということはないんですね。

十字架は、この私の罪を、裁き主が背負ってくださったということですから。

十字架の赦しを受け取らないというのなら、滅びを選んだことになります。

そのようにして、人々は十字架の前で、分けられてしまうんですね。

 

ただ、その時にも、私たちには希望があります。

私たちは世の人たちとの対立や分裂に苦しむことありますけれども、その苦しみを、イエス様は、私たちに先立って背負ってくださったんですね。

イエス様は、徹底して私たちの側に立ってくださる方です。

だから、受ける必要もないはずなのに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。

だから、裁く側の方であるはずなのに、私たちに代わって十字架にかかってくださった。

イエス様はいつも、私たちと共にいてくださいます。

イエス様ご自身が約束してくださった通りです。

私たちの罪によって、神と人とは分裂してしまったわけですけれども、イエス様は十字架で、その分裂を取りのぞいてくださった。

私たちを罪のない者としてくださった。

私たちを神の側に取り戻してくださった。

だからこそ、分裂や対立はそれで終わりではなくて、その向こうに本当の平和があると信じることができる。

だから預言者ミカは、今日引用された箇所の続きのところ、ミカ書の77節でこう言うんですね。

「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」。

神様は私たちの救いの神です。

神様は、私たちの願いを聞いてくださるんですね。

裁き主でありながら、私たちに代わって苦しんでくださる方。

そのことを通して、まことの平和を実現してくださる方。

この平和の主が、私たちのところに来てくださったことを感謝し、この方と共に歩んでまいりましょう。

必ずしもそれは楽な道ではないでしょう。

しかし、この方が先立って歩んでくださり、先だって私たちの苦しみを担ってくださるのです。

そのためにこの方は、私たちのところに来てくださったのです。