今週の説教「キリストの体」(コリントの信徒への手紙一12章27節)

今週の予定

 

11月8日(火)午前9時から午前10時半 礼拝

11月9日(水)午後7時半から午後8時半 聖書を読む会

11月10日(木)午後1時から2時20分 コンディショニング・ストレッチ

11月11日(金)午前10時から午後2時 コーヒー・ブレイク(聖書を自由に読む試みです)

11月13日(日)午前10時半から12時 礼拝/午後1時から午後2時半 ゴスペル自主練習

コリントの信徒への手紙1227

27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

 

 

今日の御言葉はとてもインパクトの強い言葉ですね。

ですがこの言葉は、聞く人の気を引くためのスローガンではありません。

この一言を語るために、パウロはこの12章の12節から26節まで、一生懸命に語ってきたんです。

12節から26節までのまとめがこの27節です。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」。

そうです。

私たちはたまたま一緒に集まって、たまたま一緒に同じことをしているのではありません。

私たちはこの場所でキリストの体を形作っているんですね。

私たちは一人一人が別々にここにいるわけではありません。

私たちはキリストにあって一つなんですね。

 

確かに信仰というものは心の中のものです。

一人一人の心の中にあるものです。

ですが、それは言ってみれば出発点ですね。

信仰は一人一人が心の中の出来事から出発すると言うことはできます。

けれども、完成するのは交わりにおいてです。

これは、一人でいるよりたくさんの仲間がいたほうが心強いというようなことではありません。

信仰を生きるということは、キリストにあって生きるということです。

そして、キリストはお一人です。

ですから、信仰を生きるということは、ただお一人のキリストに結ばれているもの同士の交わりにおいて生きるということです。

 

ここに世の中のグループとの根本的な違いがあります。

一つになるということがグループであるということですが、世の中のグループが「ひとつの体」と言えるほどの親しい交わりができるようになるにはよほど気の合う仲間が集まっていなくてはなりません。

意見が一致して、考えが同じになっていなければなりません。

それに対して教会では、洗礼を受けて教会に加えられた人々は、それだけでもう、ひとつのキリストの体なんですね。

これは、お互いに気が合うとか考えが同じだとかいうことではありません。

そういう条件はつかないんですね。

教会につながっている人たちというのは、そのままひとつのキリストの体なんですね。

お互いのことを良いように思っているから一緒になっているということではありません。

13節をご覧ください。

「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと」と書かれています。

「奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」と書かれています。

ユダヤ人とギリシャ人、奴隷と自由な身分の者というのは、いわゆる水と油です。

決して交じり合うことがない者同士です。

最初から、まったく違っている人たち同士です。

その人たちに、あなたがたはひとつのキリストの体なんだということが言われているんですね。

ですからこれは、気が合うとか親しいとかいう話ではありません。

 

となりますと、これは大変なことが言われているということになります。

普通に考えれば不可能なことです。

水と油なのに一つなんだとうことですから。

実際のところ、このコリントの教会もそうでした。

15節からのところを見ますとわかりますが、やっぱり、「私は教会の一部ではない」という人たちがいたんですね。

そしてこれはコリントの教会だけの問題ではありません。

どの教会にとっても難しいことです。

この問題を簡単にクリアできる教会はありません。

世の中のグループのことを考えてみますとわかりますが、世の中のグループは一つになっていればいるほど、そこに入れない人たちが出てきます。

それぞれのグループにはそれぞれのカラーがありますから、それに合わない人は入ることができませんし、そのグループの側からしても、こういう人に入って欲しい、こういう人には入って欲しくないということがあるはずです。

そうなりますと、26節のように、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」ということになっているとしても、グループの外側の人に対しては、21節のように「お前は要らない」ということになってしまいます。

けれども、キリストの体というのはそうではないんですね。

キリストの体というのは世の中のグループとは違うわけです。

人間的な違い、意見の違いを乗り越えて、キリストの体の部分として交わりを持つことが、キリストの体を作り上げることなんです。

 

けれども、これは人間の力でできることなんでしょうか。

どう考えてもとてもとても困難なことです。

この27節は、最初にも申し上げたことですが、スローガンではありません。

こういうふうになることを目標にしていこうという言葉ではありません。

パウロが言っているのは、事実、あなたがたはそうであるということです。

これは不思議です。

誰にもできそうにないことを、あなたがたはそうなんだと言っているわけですから。

けれどもこれには十分に確かな根拠があって、パウロはこのように言っているんですね。

それが13節です。

私たちはみんな、一つの霊を飲ませてもらったんですね。

私たちはみんな、同じ一つの霊を分け与えられているからこそ、一つなんです。

私たちに交わりがあるからではありません。

私たちにただお一人の同じ神さまが働いておられるからです。

このことに心を留めたいと思います。

私たちは人間的に気が合うグループとしてここに集まっているわけではありません。

霊の目を開いてみれば分かります。

私たちには同じ神さまが働いておられます。

だから、一つなんです。

 

私たちはひとつのキリストの体です。

そして、キリストはその体の主人です。

あるいは、また別の箇所でパウロが言っていることを引き合いに出しますなら、キリストはこの体の頭です。

そして、そこに結び合わされている部分部分が私たちです。

ここで大事なのは、キリストが体の主人なのであれ、頭なのであれ、いずれにしても、私たちはキリストに従う者として、一つに結び付けられているということです。

大事なのは主であるキリストに従うということですね。

キリストだけが私たちの主です。

そのキリストに従うことこそが、キリストの体である教会における私たちの交わりの絆なんです。

 

ですから私たちはこの場所で、人間的な交わりや親しさを深めることを目指しているのではありません。

私たちはキリストに従うことにおいて一つなんです。

人間的な違いがあっても一つのキリストの体なんです。

キリストに従うことにおいて、一人一人はひとつの体のそれぞれの部分なんですね。

 

ただ、パウロが今、こんな当たり前のことを一生懸命語っているとおり、私たちにとってこれほど難しいことはないんですね。

私たちは一つの神の霊を与えられていますけれども、私たちは肉において存在しているからです。

自分の思いがあります。

自分の考えがあります。

私たちには皆、自分を中心に生きていこうとする傾向があります。

世の中ではそれをエゴイズムというのかもしれませんが、聖書はそれを罪であると言っています。

神の霊を与えられているとは言っても、私たちだって神の前に罪人なんです。

 

だからこそ、神の前に罪人である私たちに神の霊が与えられているということをよく考えてみたいと思います。

私たちはいつも神さまに背こうとしているのに、神さまはその私たちにご自分の霊を与えてくださっているんですね。

そして、そのお一人の神さまにあって、私たちは一つなんです。

ですから私たちは、自分たちの人間的な努力で一つになっていかなければならないわけではないんです。

私たちは今ここで、現に一つなんです。

一つになって、御言葉に聞いているんです。

主であるキリストに従っているんです。

礼拝というのはそういうことです。

一人一人には違いがありますが、私たちは、今ここに、確かに一つのキリストの体なんです。

その思いをもって、教会での時を過ごしていきたいと思います。

この教会が皆さんの人生においてかけがえのない場所になるように願って、一言、お祈りをおささげいたします。