今週の説教「今の時に」(ルカによる福音書12章54節から59節)

今週の教会予定

●11月15日(火)エレベーター点検(13:00-14:00)、クリスマス演劇の劇団稽古(19:00-22:00)

●11月16日(水)監督宣教師と牧師の懇談会(当教会、17:00-18:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30-20:30)

●11月17日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●11月18日(金)クリスマス演劇の劇団稽古(19:00-22:00)

●11月20日(日)礼拝(10:30-12:00)、お茶会、埼玉西部地区運営委員会(上福岡教会、14:30-)、掃除

 

今週の牧師予定

●11月14日(月)東部中会教師会(13:30-17:00)

●11月18日(金)東久留米ミッション事務所訪問(10:00-11:00)

●11月19日(土)牧師休暇(25日〔金〕まで)

ルカによる福音書1254-59

54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

57「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。58あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。59言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

 

週報の、先週の統計をご覧になられて、皆さん気が付いたことはございませんでしょうか。

先週の出席統計なんですが、「おやっ」と思うことはありませんか。

水曜祈祷会です。

出席者……1名。

私です。

私だけだったんです。

一時間、祈りながら待っていました。

しかし、その祈りは聞かれませんでした。

今日の御言葉にありますね。

「仲直りするように努めなさい」。

もしこの中で、私のことが嫌いな方がいらっしゃるなら、仲直りしましょう。

仲直りしないと大変です。

今日の御言葉ですが、こんなふうに言われています。

さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。

そうなる前に、今の時の内に、お願いいたします。

 

冗談はさておき、今日もまた厳しい御言葉ですね。

けれども、今までに聞いてきた厳しい御言葉も、厳しさの裏側にイエス様の大きな愛を感じる御言葉でした。

今日も、イエス様は厳しい言葉をお語りになりますけれども、その子どんな大きな愛が隠されているのか、その大きな愛をもって、イエス様は私たちがどのように在ることを願ってくださっているのか、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

今、イエス様は、ご自分を取り囲んでいる群衆に向かって語りかけておられます。

群衆のことをイエス様は何と呼んでおられるでしょうか。

56節で、なんと、「偽善者よ」と呼びかけておられます。

こう言われた人々は驚いたと思いますね。

群衆はイエス様のことを知りたい、イエス様をこの目で見たいと思ってやってきた人たちです。

その人たちのことをイエス様は「偽善者」であると言うんです。

群衆は、なんでそんなことを言われなければならないのかと驚いたに違いありません。

 

そして、この、「偽善」という言葉はここで初めて出てきた言葉ではありません。

この12章の一番最初のところでも、イエス様は「偽善」という言葉をおつかいになられました。

それは、律法学者やファリサイ派に対して言われた言葉です。

イエス様に言わせれば、律法学者やファリサイ派というのは、表向きは神様を敬っていても、心の中では自分を何よりも大事にしている人たちです。

それが、偽善だ、と言うんです。

原文で見ますと、この「偽善」という言葉は、役者が顔につける仮面から来た言葉です。

要するに、外から見えるところと中身が違うことが偽善です。

イエス様は、そのことを批判なさったんですね。

 

しかもこの時、イエス様は、弟子たちに対して、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」とおっしゃっています。

弟子たちに対しても、偽善に気を付けるようにおっしゃっているんですね。

ということは、この偽善というもの、これはもう、人間みんなの問題であるということですね。

群衆だけの問題ではありません。

律法学者やファリサイ派だけの問題でもない。

弟子たちも含めた、人間みんなの問題なんです。

私たちも、外から見えるところと中身が違うということはあるでしょう。

外側は良いように見せても、本当のところ、心の中には何があるのか。

これは、人間みんなの問題なんです。

 

ただ、今日イエス様が群衆に対して「偽善者よ」と言っておられるのは、もう一歩突っ込んだ意味でなんですね。

群衆は、自然の模様を見て、天気がどうなるかを見分けることができる。

それなのに、今の時を見分けることができない。

要するに、あなたがたは偽善者で、自分の外側ばかり気にして、自分の内側の本当のところは気にしない。

そんなだから、周りを見る時も、目につくところだけ見て、本当のところどうなのかということを考えようともしない。

今の時が本当のところどういう時であるのか、それを見分けなさい。

そんなふうにイエス様は言うんですね。

ここで、「空や地の模様」と訳されている、この「模様」という言葉は、もともと「顔」という意味の言葉です。

あなたがたは空や地の表情を読み取るのに、なぜ神の顔を見ようとしないのか。

その表情を読み取ろうとしないのか。

あなたがたは今、神の顔の前を歩いている。

その今の時を見分けなさい。

この「時」という言葉は、単に時間という意味の言葉ではなくて、チャンスというふうにも訳せる言葉です。

つまり、神の顔の前を歩いている今のチャンスを生かしなさい。

 

どうして今の時がチャンスなのか。

それは、今の時の私たちの歩みは、自分を訴える人と一緒に役人のところに行くような歩みであるからです。

つまり、今の時には、まだ判決は出ていないんですね。

だから、チャンスなんです。

ここのところ、読んでみますと、借金したお金を返さないことで訴えられて、役人の所に連れて行かれる場面ですよね。

その時、役人のところに到着する前に、自分を訴える人と仲直りをしなさい、和解しなさいと言われています。

和解できれば、裁かれないで済むんです。

それがチャンスなんです。

57節では、「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われていますね。

これは、自分で判断して和解しろ、ということです。

判断を裁判官にゆだねるな、ということです。

今の時は、まだ判決は出ていないんです。

だから、今がチャンスです。

今が最後のチャンスです。

死んでしまったらもうチャンスはなくなります。

神の前に立つことになります。

ですから、今の時、私たちがまだ生きている今の時がチャンスです。

今の内に、和解しなさい。

 

時は迫っています。

私たちがこの地上に生きていることを許されている時は、毎日毎日一日ずつ減っていきます。

手遅れにならない内に和解しなければなりません。

私たちの毎日は、裁きに向かって引っ張られていく歩みなんですね。

この話に出てくる「あなたを訴える人」というのも、「裁判官」というのも、「看守」というのも全部神様のことです。

神様が私たちを裁きの場に引き出して、裁いて、牢に投げ込むのです。

このままでは、必ずそうなります。

最後の1レプトンを返すまで、そこから出ることはできません。

このレプトンというのは、一番金額が小さいコインです。

きっちり全額返し終わるまで、そこから出ることはできないのです。

 

しかし、私たちにそのお金を返すことができるのでしょうか。

聖書では、人間の罪が借金に例えられることがよくありますが、そもそも、私たちの借金はいくらくらいなんでしょうか。

イエス様は、あるたとえ話の中で、その金額を1万タラントンだと言いました。

この、1万タラントンという金額は、現在の日本円に直すと6000億円です。

6000億円を、最後の1円まで返し切らなくてはならない。

そんなことできるはずがありません。

私たちは、どうしたって神様と和解することはできないんです。

 

だから、イエス様は十字架にかかってくださいました。

私たちの罪を背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださいました。

私たちに代わって私たちの借金を返してくださった。

イエス様が十字架にかかった時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと聖書は伝えています。

神殿の垂れ幕というのは、私たちと神様を隔てていたものです。

それが、真っ二つに裂けた。

つまり、私たちは、神様と和解したのです。

十字架によって、神様と和解させていただいたんです。

 

今日の御言葉は、大変に厳しい言葉です。

言われれば理解はできる話なんですが、誰もそれを実行することはできません。

ただ、イエス様は神様でありながら、私たちを訴える人でありながら、裁判官でありながら、看守でありながら、口で言うだけの方ではないんですね。

私たちが罰を受けることを何としてでも避けたいとお思いになられて、そのためには何でもしてくださる、そういう方なんです。

その思いがあまりにも強くて、地上に降りてこられ、十字架で命を投げ出してくださった、そういう方なんです。

命がけで、和解の手を差し伸べてくださった、そういう方なんです。

 

どうぞ今一度しっかりと、その手を握ってください。

その手を離さないでください。

私たちの罪が、私たちと神様との間を隔てています。

けれどもその罪を、イエス様は十字架につけてくださった。

私たちの罪を裁く権限を持っておられる方が、私たちに代わって罰を受けてくださり、和解の手を差し伸べてくださった。

和解できるはずがなかったのに、ご自分の命を捨てて、私たちと和解してくださった。

どうかその手を、離さないでください。

その手を握りしめて、その方と共に歩んでください。

そうする時、その方はもう、私たちにとって、わたしたちを訴える方ではありません。

裁判官でもありません。

看守でもありません。

その方の手を握って歩む時、その方は、私たちのための救い主であるのです。

 

そして、そのようにして生きる時、神様との和解を生きる時、私たちは、周りの人たちとも和解させられていくんだと思いますね。

私たちの周りに、和解できていない人って一人や二人は必ずいるんだと思いますね。

もしかしたら、その人とは距離を取るのが一番いい付き合い方なのかもしれない。

そういう人だっていないとは限らないですね。

けれども、私たちは、神様との和解を生きているんです。

私たちは、赦しの中に生きている、生かされているんですね。

ですから、付き合いが難しい人に対しても、もう、その人を裁判官のところに連れて行って、看守に引き渡して、なんていうこことはないはずなんですね。

それが、神様の下さる和解を生きるということ、神様の赦しの中に生かされているということなんだと思います。

私たちは丸ごと赦されている。

丸ごと愛されている。

神様の目に、私たちは何よりも尊い。

その思いで、神の御顔の前に、生きていきましょう。

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コメント: 2
  • #1

    山田 収 (水曜日, 16 11月 2016 10:50)

    メールでお伝えした柏木教会の私の教友(85歳の元長老)の方は、NHKの記者だった方で、当教会随一の知性派です。教会の春や秋の行事のときに、全員の前で講演などされます。その方でも牧師の説教が律法的だと言っても、よくわからないと言われます。福音的、律法的の区別が明確になっていないようです。それでも私を結構尊重してくださって、私が、柏木教会図書にあるマルテイン・ルターのガラテヤ書大講解を読んでみてくださいと言いますと、読んでみると言っておられました。
    尾崎先生のような説教をされる牧師は、まことに稀有な存在です(私の経験的に)。救われた喜びの確認、来週また聞きたいと思う説教です。

  • #2

    尾崎純 (木曜日, 17 11月 2016 09:02)

    お話をお伺いして、考えさせられました。
    きっと、福音ということが良く分かっていなければ、律法ということも良く分からないんでしょうね。
    何しろ、この世は律法主義でできています。
    そして、私たちは多かれ少なかれ、それになじむように教育されてきました。
    ですので、「それが律法主義であることを見抜く」ことが、私たちは皆、苦手なのでしょうね。
    どれほど知的に優れた人であっても……。
    だからこそ、福音をこそ語りたい、との決意を新たにされますね。
    福音こそは、キリスト教会でしか聞けないものですから。
    教会の命は福音にあります。
    いつもまず第一にそのことを考えたいです。
    示唆をいただいたことに、感謝いたします。