今週の説教「クリスマスの前に」(マタイによる福音書1章18節から25節)

今週の予定

●11月27日(日)クリスマス演劇の劇団の練習

●11月28日(月)埼玉西部地区教師会(18:30‐22:00)

●11月30日(水)牧会事例研究会(16:00‐17:00)、責任宣教師と牧師の懇談会(17:00‐19:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30-20:30)

●12月1日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

 

●12月2日(金)コーヒー・ブレイク(聖書を読んで自由に意見を出し合う超教派の集会、10:00‐14:00)、信仰告白準備会(16:00‐)、クリスマス演劇の劇団稽古(19:00-22:00)

●12月3日(土)信仰告白準備会(14:00‐16:00)

 

●12月4日(日)礼拝(転入式、10:30-12:00)、臨時会員総会(礼拝後すぐ)、食事会、掃除

■12月4日(日)の説教

説教:ローレンス・スパーリンク宣教師

聖書箇所:ペトロの手紙第一1章1節から12節

説教題:「実現する神様の約束」

 

マタイによる福音書118節から25

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

 

アドベントに入りました。

アドベントは漢字で書くときには「待降節」と書きます。

「たい」は「待つ」という字です。

「こう」は「降る」という字です。

「せつ」は「季節」の「節」。

待降節。

キリストが来られるのを待ち望む季節です。

キリストが来られたクリスマスを待ち望む時期です。

それを英語ではアドベントというのですが、このアドベントという言葉、よく似た言葉を私たちは知っていますね。

冒険という意味の、アドベンチャーという言葉です。

実は、アドベントもアドベンチャーも、どちらも、ラテン語の同じ単語が元になってできた言葉です。

来るという意味のラテン語の単語があって、その完了形がアドベントという言葉になっていくんですね。

そして、その未来形がアドベンチャーという言葉になっていくんです。

ですので、私たちが今過ごしているアドベント、これは、来るか来ないかわからないものを待っているんじゃないんですね。

もう来たんだということなんです。

これは完了形なんです。

キリストは既に来られた。

旧約聖書で来ることが約束されていた救い主は、もう既に来られた。

そして、今も共にいてくださっている。

そのことを記念するのがアドベントです。

けれども、アドベンチャーという面もありますよね。

アドベンチャーは未来形なんですが、キリストはこの地上を去る時に、いつか再び来られるということを約束していってくださいましたから、いつかやってくる未来のその日を私たちは待ち望むんですね。

こちらは未来のことですから、どうなるか分からない部分もあります。

冒険ですから。

何が起こるか、ドキドキする部分もあるわけです。

しかし私たちは、キリストが約束を果たしてくださることを信じて、待ち望むんですね。

 

私たちはそのようにして、今のこの時期を過ごしているわけなんですが、では、最初のアドベントはどのようなものであったのか、というのが今日の場面ですね。

主人公はヨセフです。

イエス様の父親にあたる人です。

この福音書を書いたマタイは、ヨセフを中心にして、この場面を描くんですね。

そして、この場面が、まさにアドベンチャーなんです。

信仰のアドベンチャーなんです。

読んでみましょう。

18節の後半にこう書かれていますね。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。

こんなシリアスなことがあるでしょうか。

ヨセフにとってこれほど大変なことはありません。

自分の婚約者が、自分以外の何者かによって妊娠したんですね。

皆さんがヨセフだったとしたら、どうしますか。

しかもこれは、当時のイスラエルでは、本当に大変なことだったんです。

このことが起こったのはヨセフとマリアが婚約していた時だったんですが、当時のイスラエルでは、婚約というのはほとんど結婚と同じことだったんです。

婚約と結婚の違いは、一緒に住んでいるか、まだ一緒に住んでいないかの違いだけで、法律的には同じように扱われました。

それは、今日の箇所を読んでも分かります。

ヨセフのことが夫と言われていて、マリアのことが妻だと言われています。

婚約と結婚は同じことだったんですね。

ですので、こういうことが起こると、裁きを受けることになります。

そして、このような罪の場合、判決は死刑になります。

マリアは、石打ちの刑で殺されることになります。

皆さんがヨセフだったとしたら、どうなさるでしょうか。

マリアの側に立って考えてみると、「自分は聖霊によって身ごもったんだ、神の力によって自分のおなかに子どもが宿ったんだ」と言うこともできます。

ルカによる福音書の1章には、マリアの前に天使が現れて、聖霊によって身ごもるということが予告される場面があります。

ですからこれは、マリアにとっては最初から分かっていたことです。

それを正直にヨセフに伝えることもできます。

けれども、そう言ったところで信じてもらえるでしょうか。

現実的に考えれば、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。

ヨセフという人の性格を考えれば、もし仮にマリアが「わたしは罪を犯しました。ゆるしてください」と言えば、ヨセフはマリアをゆるしたかもしれません。

しかし、それは事実ではありません。

マリアは罪を犯してはいません。

ですので、「わたしは罪を犯しました。ゆるしてください」、そんなことを言ってしまえば、それこそ、神の御心に背いたことになります。

ですから、マリアとしては何も言えません。

こういうことですから、事情が分からないヨセフは本当に苦しんだと思いますね。

 

そして、ヨセフは一つの決断をします。

19節です。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。

ヨセフは正しい人だったんですね。

だから、間違ったことを見過ごすことはできない。

けれども、そこですべてを表ざたにして、マリアを訴えるということはしなかったんですね。

マリアを訴えれば、ヨセフとしては、自分の名誉を守ることができます。

自分中心に考えれば、それだって正しいことです。

けれども、そうはしなかった。

ヨセフは、マリアの命とお腹の子どもの命を守ろうとしたんです。

自分の名誉を犠牲にして、命を守ろうとした。

ヨセフは正しい人でしたが、正しさだけを前面に押し出してくるような、律法学者のような人ではなかったんですね。

しかし、そこに至るまでに、ヨセフはどれくらい苦しんだでしょうか。

 

これがヨセフのアドベントでした。

私たちにとってアドベントというのは喜びの季節ですが、ヨセフにとっては喜びなんかではないんですね。

最後の決断をするまでに、ヨセフは想像もできないほど苦しんだと思います。

そして、耐えられないようなことを決断しなければならなかったんですね。

キリストの誕生の裏側には、実はこのような苦しみがあったのです。

つまり最初のアドベントは、苦しみで始まったんですね。

 

ところが、それで話は終わりません。

ヨセフの夢の中に天使が表れます。

そして、ヨセフにとって到底受け入れられないようなことが言われます。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。

夢の中でこれを聞いた時、ヨセフは最初、どんなふうに反応したでしょうか。

自分を裏切ったとしか思えないマリアを迎え入れる、そんなことはできません。

しかも、その子をイエスと名付けなさいと言われています。

名前を付けるというのは自分の子どもであると認めるということです。

それは事実ではありません。

その子はヨセフの子どもではない。

ヨセフは正しい人です。

そんなことはできません。

普通に考えれば、こんな話を受け入れる必要はありません。

けれども、ヨセフは、すべて、言われたとおりにするんですね。

苦しみぬいた上で自分の決断をひっくり返して、すべて、言われたとおりにしたんです。

この人は自分の考えにこだわらなかった。

夢なんだということで無視してもいいのに、そうはしなかった。

それが神の御心だと受け止めて、自分の考えを捨てて、神の御心を受け入れた。

 

ヨセフがそのような人だったからこそ、イエス様はヨセフの子どもとして生まれてくることができました。

それによって一つのことが実現しました。

この福音書の一番最初のところにはキリストの系図が記されています。

たくさんの名前だけがここに並んでいますが、この系図、これはヨセフの系図なんです。

つまり、ヨセフがイエス様を自分の子どもであると認めてくれたから、イエス様はそこに名前を連ねることができたのです。

これは意味のあることなんですね。

救い主はダビデという王様の家系に生まれると旧約聖書に預言されていたからです。

だからこの系図の1章の6節に、ダビデの名前が出てきていますね。

夢の中で天使がヨセフに「ダビデの子」と呼びかけておりますとおり、ヨセフ自身は普通の町の人で、仕事は大工さんなんですが、ダビデの子孫の一人なんですね。

イエス様からすれば、ダビデの子孫であれば誰でも良いわけですが、ここでヨセフが選ばれたのは良く分かります。

誰か他に、このようなことを受け入れることができる人がいるでしょうか。

このヨセフという人が「正しい人であった」と言われるのは、そういうことでしょうね。

だからこそ、神様はヨセフを選んで、神の子イエス様をこの人にゆだねたんです。

これがアドベントの出来事なんです。

神様が人間にゆだねたんです。

神の独り子を託したんです。

イエスという名前は「神は救い」という意味の言葉ですが、神様は、人々を罪から救う働きを人間にゆだねたということです。

その時、ゆだねられたその人は大きな苦しみに突き落とされました。

どう考えても良い解決は有り得ないような状況に突き落とされました。

けれどもそこでその人は自分の思いを捨てて、御心を受け入れた。

そして、そこから、神様の救いの業が始まっていったということなんです。

 

そうして、今日の23節の言葉、これは旧約聖書のイザヤ書714節の言葉ですが、旧約聖書の預言が実現していくんですね。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。

インマヌエルというのは、「神は我々と共におられる」という意味です。

神様が私たちと共にいて下さるということが実現したのです。

ヨセフが自分の考えを捨てて、御心を受け入れたことによってです。

苦しみの向こうに、信仰のアドベンチャーを乗り越えたところに、アドベントはあるんですね。

 

「神は我々と共におられる」。

この言葉の意味は、単に、神様が共にいて私たちを守ってくださる、助けてくださるというだけのことではありません。

神様は私たちに、ご自分の業をゆだねてくださるんです。

そうして、私たちが信仰のアドベンチャーを乗り越えて、御心を受け入れるのを待っておられるんですね。

そのようにして、「神は我々と共におられる」ということになっていくんですね。

神様は私たちに賭けているんです。

私たちが信仰のアドベンチャーの末に御心を受け入れる決断をするはずだと、私たちに賭けておられるんです。

ご自分の業を、ご自分の命までも、私たちに託しているんです。

 

私たちは、御心を受け入れることができるでしょうか。

信仰のアドベンチャーを乗り越えることができるでしょうか。

私たちには皆それぞれに思い悩み、苦しみがあります。

そういう時ほど、私たちは自分の考えにこだわります。

そういう時ほど、私たちはわがままになります。

けれどもその時、自分の考えを捨てて、自分の側ではなく神様の側につくことができるでしょうか。

神様はそのことを私たちに願っておられるんです。

私たちが思い悩む時、苦しむ時、神様は、私たちに、神様の業を共に担ってほしいと願っておられるんですね。

 

それは何も、口先だけのことではないんですね。

今日見たとおり、神様は実際に、ご自分の業を、ご自分の命を、つまりご自分のすべてを一人の人に託したんです。

そして、そこから、今日の21節に言われている通り、「自分の民を罪から救う」業が始まっていった。

そしてその救いの御業の中に私たちは入れられているんです。

その私たちに、今日、言われているんです。

救われた私たちに、言われているんです。

神様の側に引き取られた私たちに、言われているんです。

神の業を共に担ってほしい。

一緒に働いてほしい。

その御心を受け入れる時、今日見た通り、本当の意味でインマヌエル、「神は我々と共におられる」ということが実現するんだと思います。

 

信仰の旅路というのは時として楽なものではありません。

時としてアドベンチャー、冒険の旅にもなります。

けれどもその時、神様はご自分の救いの業を、ご自分の命を、私たちに賭けておられる。

神様の側に付きましょう。

実際、もう、私たちは神様の側に付いているじゃないですか。

ここに集まって、アドベントを祝っているじゃないですか。

私たちは、もうすでに神様の側にいる。

どんなアドベンチャーが私たちを待ち受けているかわかりません。

けれども、今日、天使がヨセフに言っていました。

私たちは恐れることはないんですね。

私たちがどんなアドベンチャーを経験するにしても、インマヌエルの神様が私たちと共におられる。

そのために、神様ご自身が命がけの大変なアドベンチャーをして、私たちのところに来てくださったんです。

だから私たちは、信じることができる。

アドベンチャーの時こそ、私たちのすぐそばにおられる。

恐れずに、未来に向かって、歩み出しましょう。

その私たちを、神様は必ず守り、助けてくださいます。