

今週の予定
●12月12日(月)エレベーター点検(13:00~14:00)、クリスマス演劇の劇団稽古(19:00~22:00)
●12月13日(火)牧師週休日
●12月14日(水)牧師と監督宣教師の懇談会(17:00~18:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●12月15日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)、クリスマス演劇の劇団稽古(19:00~22:00)
●12月16日(金)信仰告白準備会(16:00~18:00)、クリスマス演劇の劇団稽古(19:00~22:00)
●12月17日(土)信仰告白準備会(11:00~12:30)、クリスマス演劇(14:00~15:00)
●12月18日(日)礼拝(10:30~12:00)、食事会、クリスマス演劇(14:00~15:00)、掃除
★12月18日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章8節から14節
説教題:「天に栄光、地に平和」

ルカによる福音書2章1—7節
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
今日の場面はキリストが生まれる場面ですね。
キリストはローマ帝国の皇帝アウグストゥスの時代にお生まれになりました。
わざわざここに、皇帝アウグストゥスの名前まで書かれています。
この福音書を描いたルカは、この名前も書いておきたかったんですね。
この皇帝は世界史の教科書にも名前を残した人で、とても強いリーダーでした。
強い軍隊を率いて、地中海世界の全体を支配したんですね。
そして、一つの大きな帝国が地中海世界の全体を支配したことによって、平和がもたらされました。
これを歴史の教科書では「ローマの平和」と言います。
皇帝アウグストゥスは平和を実現した人なんですね。
実はこのアウグストゥスという呼び名はこの人の本当の名前ではありませんでして、本当の名前はオクタビアヌスと言いました。
ではこのアウグストゥスという呼び名は何なのかと言いますと、アウグストゥスというのは「尊厳ある者」という意味の言葉なんですね。
強い軍隊を率いて戦争を終わらせて、平和を実現した。
そのことで、この人は非常に尊敬されていたんですね。
ですので、この時代には、「救い主」と言えばこの人、皇帝アウグストゥスのことだったんです。
それだけでなく、この人は、「神の子」というふうにも呼ばれました。
この時代のローマ帝国のコインには、「神の子アウグストゥス」と記されていたんですね。
アウグストゥスの誕生日は8月なんですが、アウグストゥスの生まれた月を「アウグストゥス」と呼ぶことになりました。
この呼び方が今でも残っていますね。
8月のことを英語でオーガストと言いますが、これはアウグストゥスから来ているんです。
人々は8月の皇帝の誕生日を福音の日としてお祝いしていました。
良い知らせ、福音と言ったらこの時代にはそれは、アウグストゥスの誕生日のことだったんです。
イエス様がお生まれになられたのはそんな時代、そんな地域でのことでした。
けれどもこのローマの平和が、人々にとって本当に喜ばしいものだったのかということですね。
ユダヤ人からすると、自分の国をローマ帝国という大きい国に支配されているという状態です。
しかも、今日の場面を読むと、住民登録をしなければならなかった。
この住民登録、何のためかといいますと、ローマ帝国が人々から税金を取ったり、人々を兵隊にしたりするためです。
決していいことばかりではなかったんですね。
戦争はなくなりましたが、ローマの平和というのは力で実現した平和です。
力で実現した平和ですから、その力で人々を支配するようになっていくんですね。
住民登録は自分の先祖の町ですることになっていましたから、ヨセフとマリアは、ナザレからベツレヘムまで、直線距離で100キロ以上の旅をしなければなりませんでした。
マリアはすでに身ごもっていましたから、というか、赤ちゃんが生まれる直前のことでしたから、この旅は本当に苦しかっただろうと思います。
ヨセフにとっても一歩一歩が本当に心配でしかたなかっただろうと思うんですね。
けれども、この住民登録、実は、家族を代表して一人の人が行けばそれでいいということになっていました。
ですので、ヨセフ一人が行けばそれでよかったんです。
マリアまで行く必要はありません。
それなのにどうして、ヨセフはわざわざお腹の大きいマリアを連れて行ったんでしょうか。
これは、マリアが周りからどういうふうに見られていたのかということを考えるとわかるような気がします。
マリアは聖霊によって結婚前に身ごもりました。
けれども、そのことを信じてくれた人がヨセフ以外にいたでしょうか。
マリアのお腹はどんどん大きくなっていきます。
ずっと隠していることはできません。
聖霊によって身ごもったという話をしたとしても、それを信じる人がいるでしょうか。
いそうにありません。
きっと、マリアは、親兄弟や近所の人から冷たい目で見られていたと思うのです。
だからヨセフはマリアを残していくことができなかったのではないかと思います。
ヨセフとしては、もし自分がいない時にマリアが出産しなければならなくなった時、マリアのこと、生まれてくる赤ちゃんのことを親戚や近所の人たちに任せることはできなかった。
だから、ヨセフはマリアを連れて行ったのだろうと思うのです。
つまり、この二人には、地元に居場所がなかったんです。
そして、居場所がなかったのは地元だけではありませんでした。
ベツレヘムでも居場所がないんですね。
ベツレヘムはヨセフの先祖の町、今の言葉で言えば本籍地ですから、親戚が住んでいたのではないかと思いますが、それでも泊まる場所が見つからなかったということなんですね。
これは、親戚たちからも距離を置かれていたということかもしれません。
こんな悲しいことはないですね。
子どもが生まれるというのに、祝福してくれる人が誰もいない。
それどころか、どこにも居場所がない。
宿屋にも彼らの泊まる場所がありませんでした。
彼らの泊まる場所がなかった、それは、部屋がいっぱいだったということなのかもしれませんし、彼らが出せるお金で泊まれるような安い部屋がなかったということなのかもしれません。
それにしたって、マリアはもういつ生まれてもおかしくないくらい、お腹が大きいんです。
自分の家に来ていいよという人が一人くらいいてもいいのではないでしょうか。
けれども、悲しいことに、この時、この町には、そういう人が一人もいなかったんですね。
それも、ローマの平和の現実なのかなあと思いますね。
戦争はなくなった、けれども、力で実現した平和は、その力で人々を支配するようになっていく。
そして、そのような世の中で、皆、自分のことしか考えられなくなっていく。
困っている人がいても、誰一人助ける人がいない。
これが、神の子であり、救い主であるローマ皇帝が実現した平和なんですね。
キリストはこういう、人の心の暗闇の中にお生まれになられたんですね。
ですので、クリスマスの出来事というのは、心温まる話ではないんです。
どこからどう見ても、つらく悲しい出来事なんです。
人の世の、つらさ、悲しさ。
その中に、キリストはお生まれになられたんです。
本当の救い主は、そのような時、そのような場所に、お生まれになられたんです。
けれども、そんな中でも、神様の御心は実現していきます。
救い主はベツレヘムに生まれると旧約聖書に預言されていました。
そのことが、今日、実現したんですね。
ローマ皇帝が住民登録を命じたから。
それも、自分の先祖の町で登録しなければならないと命じたから。
そして、マリアはナザレの町で居場所がなかったから。
それらは悲しみの出来事です。
私たちの人生の中でも、こういうことが起こってきます。
自分より上の人に従わなければならないという経験は、誰にでもあるのだと思います。
自分に力がないために力に押さえつけられるということは、私たちの生活の中でも毎日に起こっていることだと思うんです。
居場所がないという経験も、誰にでもあるのだと思います。
誰も自分を理解してくれなくて、誰も味方になってくれなくて、もうここに居たくない。
そういう経験を、私たちはしてきたのではないでしょうか。
だからこそ、キリストはこの時、この場所に来てくださったと思うんです。
この時、この場所にキリストが来てくださったというのは、これは、私はあなたの側に立つよという宣言なんだと思うんですね。
そして、どんなにつらい出来事、悲しい出来事があったとしても、そのような出来事も用いて、神様は御心を実現させてくださるんですね。
イエス様は旧約聖書の預言の通り、ベツレヘムでお生まれになられました。
ローマ皇帝の強い力の下でお生まれになられたんですけれども、その皇帝の力も、神さまの御心を実現するために用いられていたんです。
マリアは自分の町に居場所がありませんでした。
誰も理解してくれませんし、味方になってもくれません。
けれども、そのような人々の心の闇も、神さまの御心を実現するために用いられていたのです。
人間のどんな力も、人間のどんな心の闇も、神さまの御手の内にあるということです。
だから私たちは、どれほど強い力に押さえつけられても、自分にはどうすることができないことが起こっても、絶望する必要はありません。
イエスさまは人の力に苦しめられ、人の心に悲しまされる私たちのためにお生まれになられた。
それが今日、聖書の言っていることです。
本当の救い主は、そのようにして、私たちの側にお生まれになられたんです。
それも、お生まれになられたのは馬小屋だと言われています。
馬小屋に生まれたとは書かれていないんですが、生まれたばかりのイエス様が寝かされたのが飼い葉桶ですから、馬小屋に生まれたと言われるようになったんですね。
馬小屋というのは子どもを産むのにふさわしい場所ではありません。
というより、子どもを産むには最低の場所です。
私は馬小屋という場所に入ったことがあるのですが、正直に申し上げて、馬小屋ほど汚くて臭い場所はないんですね。
もし私が馬小屋で生まれたとしたら、そのことを一生誰にも言わなかっただろうと思うんですね。
人の力に苦しめられて、人の心に悲しまされて、馬小屋にまで追いやられて、そこにまことの救い主が生まれた。
これがクリスマスの出来事なんですね。
まことの救い主は、生まれた時から、罪の世の悲惨さをすべて引き受けてくださっていたということです。
救い主は、私たちの現実の中に来られた。
そのようにして、私たちの側に立たれた。
これは私たちにとって福音ですね。
誰よりも低いところにお生まれになられた。
だから、この方を救い主だと信じるなら、誰もその救いからこぼれ落ちることはないんです。
私たちに差し出されている救いは確かなんです。
人のどんな罪も、私たちのどんな罪も、この救い主は引き受けてくださるんです。
そして、それも御心でした。
救い主は、人の力によって追いやられて、人の心によっても追いやられて、飼い葉桶の中にまで追いやられて、この地上に誕生しなくてはなりませんでしたが、それも御心だったんですね。
飼い葉桶に寝かせられたということは、この後の場面で、救い主の誕生を最初に知らされた羊飼いたちへのしるしになるんですね。
羊飼いたちは天使たちからそう聞いて、飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんを探したんですね。
救い主が飼い葉桶に寝かせられることは、神さまが良しとされたことでした。
どうしてでしょうか。
飼い葉桶というのは救い主がお生まれになるにあたってふさわしい場所ではありません。
救い主の生まれる場所というなら、お城のような場所のほうがふさわしいと私たちは思います。
けれども、逆に言えば、そのような場所ではなかったからこそ、誰でも近づくことができます。
この後、羊飼いたちがこの救い主を訪ねてきますが、もしもこの救い主が皇帝の宮殿で生まれていたら、彼らは近づくことができなかったはずです。
宿屋で生まれていたとしても、自宅や親戚の家で生まれていたとしても、近づくことは難しかったでしょう。
けれども、私たちの救い主は馬小屋でお生まれになられました。
ですから、私たちは救い主に近づくことができます。
私たちは自分から、救い主に歩み寄っていくことができます。
そして、羊飼いたちがそうしたように、救い主を礼拝することができます。
馬小屋でお生まれになられたイエス様の御心、お分かりになりますでしょうか。
イエス様は私たちを招いてくださっているんですね。
「私のもとに来なさい」、と私たちを招いてくださっているんですね。
そうして招かれて、今、私たちはここにいる。
救い主を礼拝している。
今この時、この場所にもクリスマスがあるんです。
私たちのためのクリスマスです。
お祝いしましょう。
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