
●12月21日(水)牧会事例研究会(16:00~17:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●12月22日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)、信仰告白準備会(14:30~16:00)
●12月23日(金)信仰告白準備会(14:00~15:00、16:00~18:00)
●12月24日(土)福祉施設での賛美の奉仕(13:30~14:30)、キャンドル・サービス(19:00~20:00)
●12月25日(日)信仰告白試問会(9:00~9:30、9:30~10:00)、礼拝(信仰告白式あり、10:30~12:00)、一品持ち寄り愛餐会、クリスマス祝会(13:20~15:00)、掃除
★12月25日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章15節から21節
説教題:「言葉の実現」

ルカによる福音書2章8—14節
8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
今日の場面はいよいよクリスマスらしい場面ですね。
メリー・クリスマスというような、喜ばしい、華やかな場面です。
天の大軍はこんなふうに賛美をしました。
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
神には栄光がある。
そして、御心に適う人には平和がある。
クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の栄光を現す方であり、地に平和をもたらしてくださる方でもあるということですね。
そのことを神ご自身が、天使たちの賛美によって宣言してくださったのです。
けれども、気になることがありますね。
平和は、「御心に適う人にあれ」と歌われているんです。
そう言われますと、私たちとしては、自分が御心に適っているかどうかが気になります。
でもこれ、気にしなくていいんですね。
これは「神が好意をもってくださっている人」、つまり「神が愛してくださっている人」という意味です。
神様が愛してくださるのは、特別に正しい人、清い人だけではありません。
どんな人でも神様は愛してくださいます。
私たちがどのような者であっても、どれほど罪深くても、それによって神様の愛からもれてしまうということはありません。
神様はご自分の独り子であるイエス・キリストをこの地上に生まれさせてくださったじゃないですか。
それも、私たちと同じ人間に生まれさせてくださったじゃないですか。
しかも、生まれたところは馬小屋です。
イエス様の両親になるヨセフとマリアが、支配者の力に追いやられて、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでお生まれになられた。
私たちも、この世の力に追いやられるということがあります。
人の心に追いやられるということがあります。
その私たちの側に立つために、イエス様はお城のような場所ではなく、馬小屋でお生まれになられたんです。
生まれる場所としては、この世の一番低い場所ですね。
イエス様はそこにまで降りてきてくださった。
これは神様の宣言ですね。
私はあなた方の側に立つよ、という宣言です。
そして、私は一番低いところからあなた方を支えるよ、という宣言です。
ですから、神様の愛が及ばない人はいません。
私たちの側に何か条件が足りなくて、こぼれ落ちてしまう人というのはいないんですね。
神様はキリストを通して、すべての人に平和を与えてくださるんですね。
それが今日の天の大軍の賛美です。
そして、だからこそ、この知らせは、最初に羊飼いたちに伝えられました。
この羊飼いという人たちはどういう人たちだったか。
どういうふうに扱われていた人たちだったか。
それは、この場面を見るだけでもわかります。
羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていたんですね。
仕事中だったわけです。
けれども、考えてみると、これは不思議なことです。
少し戻って、2章の3節を見てください。
人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、ふるさとに帰っていたんでした。
もちろん、イエス様の両親のヨセフとマリアもそうです。
それなのに、この羊飼いたちは今、仕事中であるわけです。
彼らは住民登録をしなくていいんでしょうか。
しなくていいんです。
というよりも、彼らは、登録をする必要もない人たちだと思われていました。
羊飼いの仕事というのは、24時間、365日です。
言ってみれば、すべての時間を羊にささげる仕事です。
ですから、羊飼いたちには、社会的な責任を果たす余裕はありません。
例えば軍隊に行けと言われても、行くことなんてできないわけです。
そのために、羊飼いたちは、人々からさげすまれていました。
彼らは住民登録をしていませんから、言ってみれば戸籍がないわけです。
社会的には人間ではないわけです。
もう本当に、見捨てられたような人たちだったんです。
その羊飼いたちに、クリスマスのメッセージが最初に伝えられました。
ここにある御心、分かりますよね。
誰も、神様の愛からこぼれ落ちることはないんです。
けれどもここで、思わされます。
天の大軍は「地には平和」と歌いましたが、地に、本当に平和があるのでしょうか。
ヨセフとマリアは、支配者の力に追いやられて、人々の冷たい心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでイエス様を産みました。
これを平和と呼べるでしょうか。
羊飼いたちは他の人たちから人間扱いされません。
それを平和と呼べるでしょうか。
そして、考えてみれば、そのような状況というのは、現代の私たちの身の回りにも、いくらでもあるのではないでしょうか。
ただここで気を付けたいのは、天の大軍の賛美の全体ですね。
「いと高きところには栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ」。
「地には平和」だけではないんですね。
「いと高きところには栄光、神にあれ」とも言われています。
地の平和だけではないんですね。
天の栄光と地の平和はワンセットなんです。
それがクリスマスなんです。
天の栄光と地の平和を両方実現するのがイエス様の誕生なんです。
天の栄光も地の平和も、イエス様が実現してくださることなんですね。
イエス様はクリスマスにおいて、天の栄光を現してくださいました。
栄光と聞くと私たちは、それこそ王様のような栄光、権力のようなものをイメージしますけれども、神様の栄光はそうではないんですね。
神様の栄光は人を支配して好き勝手に扱うようなものではありません。
罪に支配されて苦しんでいる人を、神の愛の中に移し替える。
そうして、人を新しくして、生かす。
まことに生かす。
それが神様の栄光です。
そのためにイエス様は地上に来てくださった。
私たちの側に立ってくださった。
私たちと同じ人間として、私たちのところに来てくださった。
私たちと同じ人間に生まれてくださったのは、私たちの罪を代わりに背負ってくださるためです。
そして、その通りにしてくださった。
私たちに代わって十字架の罰を受けてくださり、私たちの罪は赦された。
この方は、最初から最後まで、私たちのために生まれて、生きて、死んでくださった。
そこに神の栄光があります。
けれども、これを私たちが、誰にも教えられずに、神の栄光だと知ることができるでしょうか。
栄光と聞いたら王様の栄光をイメージするのが私たちです。
だから、天使が伝えてくれたんですね。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。
この喜びは、外から、神様から伝えられる喜びなんです。
つまり、神様が伝えてくださらなければ分からないものなんです。
これがもともと私たちの心の中にある喜びだったとしたら、それを誰かに伝えてもらう必要はありません。
神様が私たちのために生まれて、生きて、死んでくださること。
これが栄光だとは私たちには分からないから、わざわざ伝えられたんですね。
神の目には、地位を高めて力をふるうようなことが栄光ではないんですね。
苦しみや悲しみを共に担うこと。
裁くのではなく赦すこと。
そして、人を生かすこと。
これが神の栄光、神様にとっての栄光なんです。
人の栄光とは正反対なんです。
そして、このまことの栄光によって、地には平和がもたらされるんですね。
この平和は、2章1節の皇帝アウグストゥスがもたらしたような、力で人に言うことを聞かせるようなものではありません。
そもそも、この賛美、天の大軍の賛美です。
軍隊の賛美なんです。
軍隊が平和を宣言しているんですね。
罪人を裁いて滅ぼすこともできる神の軍隊が、平和を宣言したんですね。
神様が私たちの側に立ってくださって、私たちが受けるべき罰を代わりに受けてくださったからです。
だからもう、この軍隊は、軍隊として働くことはないんですね。
神様は命がけの愛を私たちに現してくださった。
私たちの代わりに十字架の罰を受けてくださった。
私たちは赦されて、生かされている。
軍隊が平和を宣言した。
地の平和はもう実現しているんですね。
私たちの目には平和が実現していないように見える現実がたくさんあるわけですけれども、天の大軍が軍隊として動くことはもうない。
苦しみ悲しみの現実は至る所にあるわけですけれども、私たちは、世の現実を超えたところで確かに救われている。
そして、この世の現実においても、神様は私たちの側にいつも立っていてくださる。
苦しみ悲しみを共に担ってくださる。
命がけで愛してくださる。
そこからくる平和。
私たちには、どんな時にも、永遠の平和が与えられているんです。
この時代、ローマ皇帝は、「自分が救い主である」と名乗っていました。
皇帝アウグストゥスは強い軍隊を率いて戦って、戦争を終わらせて、平和をもたらしたからですね。
ローマ皇帝はすべての人を自分のもとに従わせて、すべての人を自分の僕のようにして、平和を現したわけです。
それに対して、イエスさまはどうだったか。
イエス様を救い主と信じるすべての人に、ご自分のすべてを差し出すような大きな愛をあらわしてくださったんですね。
そうして、私たちを救ってくださり、神様のくださる平和の中に入れてくださったんですね。
ここにほんとうの平和があります。
その平和を、喜びましょう。
私たちの務めは、それを喜んでいることです。
救われたことを喜んでいることだけが、私たちの務めです。
これは告げられなければわからないことかもしれませんが、私たちは、神の平和の中に、確かに生かされている。
今日、羊飼いたちは、つらい仕事の中で、主の栄光に照らされました。
私たちも、照らされます。
もう、主の栄光はいつでも私たちを照らしている。
天に栄光、地に平和。
この言葉が、私たちにおいても実現しているんですから。
そのことを、いつも喜んでいましょう。
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