
【今週の予定】
●12月21日(水)牧会事例研究会(16:00~17:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●12月22日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)、信仰告白準備会(14:30~16:00)
●12月23日(金)信仰告白準備会(14:00~15:00、16:00~18:00)
●12月24日(土)福祉施設での賛美の奉仕(13:30~14:30)、キャンドル・サービス(19:00~20:00)
●12月25日(日)信仰告白試問会(9:00~9:30、9:30~10:00)、礼拝(信仰告白式あり、10:30~12:00)、一品持ち寄り愛餐会、クリスマス祝会(13:20~15:00)、掃除
★12月25日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書2章15節から21節
説教題:「言葉の実現」

マタイによる福音書2章1—12節
1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
今日の場面、クリスマスの場面ですが、クリスマスには人は二通りに分けられる、というのが今日聖書が伝えようとしていることです。
クリスマスに当たって、人は二手に分けられるんですね。
占星術の学者たちのようであるか、ヘロデ王のようであるか、どちらかです。
今日の場面には、この二通りの人々が正反対のものとして描き出されていますね。
占星術の学者たち、この人たちは東の方から来た人だということですので、外国の人ですから、聖書のことをあまりよく知らなかったはずですし、そもそも占星術師ですので、神様を信じていないんですが、この人たちはイエス様のところにはるばるやってきて、イエス様を礼拝した。
それに対して、ヘロデ王はイスラエルの王様なのに、イエス様のところに行こうともせず、イエス様を殺そうと考えた。
殺そうと考えたとまでは書かれていないじゃないかとお思いになるかもしれませんが、ヘロデ王は残酷だったことで歴史に名前を残している人です。
疑り深い人で、人の命を奪うことを何とも思わないような人です。
実際に、彼は、王になるまでに、何人もの家族や親戚の命を奪っています。
そればかりか、死ぬ直前には、エルサレムの有力者を全員殺したと言われています。
ですので、3節でエルサレムの町の人々は不安になったんですね。
ユダヤ人の王が生まれたと聞いた。
そうすると、ヘロデ王が何をしだすか分からない。
ヘロデのことだから、自分の立場を守るためにはどんなことでもするだろう。
それで、ヘロデだけでなく町の人々まで不安になったんですね。
実際に、ヘロデはすぐに行動に出ます。
ヘロデは、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集め」ました。
これは、イスラエルの国会が召集されたということです。
なんと国会を開くわけです。
そして、メシアがどこに生まれると預言されているのか、確かめます。
議員たちは、旧約聖書のミカ書に書かれている預言を読み上げます。
ベツレヘムに、メシア、つまり救い主が生まれるということですね。
そうするとヘロデは、占星術師たちを呼び寄せます。
それも、ひそかに、です。
悪いことを考えているということです。
ヘロデは、星が現れた時期を確かめます。
メシアが生まれたとは言っても、生まれたばかりなのか、それとももう一人で歩けるくらいに成長しているのか分かりませんから、星が現れた時期を確かめるわけです。
ヘロデは、「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」なんて言っていますが、もちろんそんなつもりはありません。
この少し後の場面でヘロデは、2歳以下の男の子をすべて殺してしまいます。
ということは、もしかすると、占星術師たちがその星を見つけたのは、2年くらい前のことだったのかもしれません。
いずれにしろ、ヘロデはメシアの命を奪うつもりです。
メシアを憎んでメシアを殺そうとするんです。
それに対して、占星術の学者たちはどうだったか。
幼子イエスのところに自分の足で出かけて行って、ひれ伏して拝んだわけです。
ひれ伏して拝んだというのは、礼拝した、ということですね。
そして、黄金と乳香と没薬をささげた。
実はこの、黄金も乳香も没薬も、占星術の道具だったそうです。
彼らはそれを手放してキリストにささげたんですね。
この意味、お分かりになりますでしょうか。
彼らは決心しているんですね。
もう占星術はやらない。
星の動きを見て生きていくのではなく、イエス・キリストに導かれて生きる。
そう彼らは決心して、それまでの自分にとって一番必要だったものをささげたんですね。
言ってみれば、自分自身をささげたわけです。
ヘロデはキリストの誕生を聞いて不安になって、その子を今のうちに殺してしまおうとしました。
自分こそが王だ。
他に王はいらない。
ヘロデは、自分の地位をおびやかすことになるかもしれないキリストを敵だと見なします。
そして、自分が王でありつづけるために、自分を守るために、今のままの自分であり続けるために、キリストを殺そうとしたんです。
占星術の学者たちとは正反対ですね。
聖書をよく知らないはずの外国の占星術師はそれまでの自分を捨てて、自分自身をささげてキリストを礼拝した。
神の民であるユダヤの王は、キリストを殺そうとした。
ユダヤの王だけではないですね。
エルサレムの人々もです。
エルサレムの人々は、メシアが生まれたと聞いたのに、不安になった。
それもおかしなことです。
メシアというのは救い主のことです。
メシアはヘブライ語、それがギリシャ語になるとキリストです。
人々は、救い主が生まれたのに、不安になっているんです。
彼らこそ、占星術師たちが喜んだように、大喜びしていいはずなのに、喜べない。
ヘロデが何をしだすか分からないと考えて、不安になった。
それは結局、ヘロデと同じ考え方なんですね。
ヘロデもエルサレムの人々も、自分の身を守ることしか考えていないんです。
旧約聖書には星占いが良くないことがと書かれている箇所があります。
それは言ってみれば、自分の身を守ることしか考えないようにならないために、聖書にそういうことが書かれているわけなんですが、それが仕事であるはずの占星術師たちは大喜びでそれまでの自分を捨てて、自分自身をささげてイエス様を礼拝した。
それなのに、神の民の方では、自分の身を守ることしか考えないんです。
今のままの自分であり続けることにこだわっているんですね。
神の民と占星術師。
このように、クリスマスにあたってこのように人間が二つに分かれてしまったことは、実は御心でした。
占星術師たちは自分の国で星を見て、メシアが生まれたことを知ったわけですね。
けれどもこの星は、最初から最後までずっと道案内をしてくれていたわけではなかったようですね。
もし、この星が最初から最後までずっと道案内をしてくれていたとしたら、この人たちはわざわざヘロデのところにやって来て、メシアはどこに生まれることになっているのかと質問することはなかったはずです。
東の国で見えていた星は、いったん消えてしまったのでしょう。
ところが、メシアはベツレヘムに生まれると聞いて、占星術師たちがベツレヘムに向かって出発すると、また星が現れるんですね。
星が見えたり隠れたりする、それによって、占星術師はヘロデのところに来ることになって、そのために、神の民と占星術師が正反対であることが明らかになっていく。
クリスマスにあたって、人は二つに分けられるというのが神様のメッセージなんですね。
それまでの自分を捨てて、自分自身をささげるか、それとも、自分の身を守ることしか考えないで、今のままの自分であり続けようとするか。
これは考えさせられることですね。
この問題を私たちも、自分のこととして考えてみたいと思います。
私たちにも、変わりたくない、今のままの自分であり続けたいという思いがないとは言えません。
けれども、もしそうであるなら、私たちは、メシアの誕生を喜ぶことはできないんですね。
それではメシアを礼拝することはできない。
変わりたくない、今のままの自分であり続けたいと私たちが思うのだとすれば、それは、私たちが自分を自分の王にしているということです。
自分自身に従っているんだということです。
けれども、2節に書かれている通り、メシアは王なんですよね。
私たちは、自分を自分の王にしているんでしょうか。
それとも、メシアを王にしているんでしょうか。
私たちがメシアを王にするなら、それまでの自分を捨てて、自分自身をささげて礼拝することになります。
自分のことを第一に考えていたのでは、自分自身をささげることはできないはずです。
ですから、今ここに私たちが集って礼拝しているということ、これはとてもとても尊いことなんですね。
私たちは、王としてお生まれになったイエス様を自分の王として礼拝しているんです。
私たちは、今この場所で、ヘロデやエルサレムの人々の側ではなく、占星術師の側に立っている。
私たちは、占星術師たちと同じように、自分の足で歩いてここにやってきた。
ヘロデやエルサレムの人々は行こうともしなかったけれども、私たちはここに自分から集まってきた。
そして、この場所で、王を王として認め、それを喜び、自分自身をささげているんです。
今ここで私たちはそういうことをしているんですね。
そして、考えてみれば、この、自分自身をささげるということ、それは、神様が私たちにしてくださったことですね。
キリストがこの世にお生まれになったということ、それは、神様が私たちの救いのためにご自分の独り子をささげてくださったということです。
キリストは神の独り子であるのに、それを捨てて、地上に降ってきてくださり、人となってくださいました。
そして、最期には、私たちのために命まで差し出してくださったんですね。
私たち罪びとを神様のみもとに連れ戻すためにです。
神様ご自身が、ご自分自身をすべて捨てて、私たちにささげてくださったんですね。
そして、それもやっぱり御心なんですね。
今日の場面、この、キリストの最初の場面に、キリストの一生がこれからどのようになっていくのかがほのめかされています。
今、自分を第一に考える人々によって、キリストは命をおびやかされているわけですけれども、この30数年後には、キリストは、自分を第一に考える権力者と、権力者に操られた人々によって、十字架につけられるんですね。
あるいは、占星術師たちがささげたささげものですね。
黄金と乳香と没薬ですけれども、黄金は王にふさわしいもの、乳香は神にふさわしいもの、没薬は死者にふさわしいものであると考えられていました。
キリストの一生は、その人生の最初の時点で、もう定まっていたんです。
私たちのためにご自分自身をすべて捨てて、私たちにささげてくださるということが、もう決まっていたんです。
ですから私たちも、占星術師たちと同じように、この場所で喜びにあふれるんですね。
私たちはこの場所で、この礼拝の中で、イエス様と向かい合って、私たちもイエス様もお互いに、自分自身をささげあっているんですね。
自分自身をささげられる相手というのは、自分にとって最も大事な相手ですよね。
私たちにとってイエス様が一番大事。
イエス様にとっては私たちが一番大事。
お互いに、自分自身をささげあい、仕えあっている。
それがこの、礼拝という場所なんですね。
そして、その礼拝が終わると、どうなるか。
歩む道が変えられるんですね。
今日の場面の最後のところ、占星術の学者たちです。
彼らには、夢でお告げがありました。
「ヘロデのところに帰るな」ということですね。
ヘロデは、「見つかったら知らせてくれ」と彼らにお願いをしていたんでした。
けれども、彼らはヘロデのところに戻りません。
「別の道を通って」帰っていくんですね。
これはもしかすると、自分を危険にさらすかもしれない行いです。
けれども、占星術の学者たちは、自ら進んでそうするんですね。
メシアに出会った人は、変えられるわけです。
もうそれまでと同じ道を歩まなくなるわけです。
それまでの道は、自分の身を守ることしか考えない道です。
そうではなくて、神の示す道を行く。
私たちも、喜びにあふれて、その道を歩んでいきましょう。
その歩みは、もう始まっています。
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