今週の説教「クリスマスの慰め」(マタイによる福音書2章12-23節)

【今週の予定】

●12月26日(月)牧師週休日

●12月27日(火)私的な学び会(8:00~9:30)

●1月1日(日)礼拝(聖餐式あり、10:30~12:00)、お茶会、クリスマスの片づけ、掃除

★1月1日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章1節から9節

説教題:「悔い改めの実」

マタイによる福音書21323

13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

 

 

ヘロデがイエス様を見つけ出して、殺そうとしています。

ヘロデはイスラエルの王様です。

この人は、自分の立場を守るためなら、何でもするという人です。

この人は、何人もの親戚を殺して王になりました。

そして、自分が王であり続けるために、自分の息子たちも殺しました。

自分が死ぬ前には、エルサレム中の有力者をすべて殺したと伝えられています。

家族であれ誰であれ、自分の立場を守るためなら、人を殺しても何とも思わないような人です。

残酷だったことで歴史に名前を残しているような人です。

その人が、幼子イエス様に目を付けました。

「ユダヤ人の王が生まれた」と聞かされたからです。

ヘロデにとって、ユダヤ人の王とは自分のことです。

この人が自分以外の王を認めるはずはありません。

そこで、イエス様を探し出して殺してしまおうとしたのです。

 

クリスマスの出来事は、華やかで美しい場面ばかりではありません。

このような恐ろしい場面も、クリスマスの一コマなのです。

しかし、このような人の心の恐ろしさも、神様の業を止めることはできません。

むしろ、神様はこのような恐ろしい人の心であっても、これをお用いになります。

イエス様の家族はエジプトに逃げなければなりませんでした。

しかし、これによって、旧約聖書の預言が実現します。

15節です。

「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。

これは、その昔、エジプトで奴隷であったイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出して、神様が約束してくださった土地に入っていったことを指している御言葉です。

奴隷であったイスラエルの民が、自由にされた出来事です。

これから、そのような出来事が起こる。

あの時起ったような出来事が、これからもう一度起こる。

イエス様は、私たちを自由にしてくださる方である。

今日、御言葉は、私たちにそのように語り掛けています。

 

しかし、ここにある現実はどうでしょうか。

この現実を、私たちはどう理解すればいいのでしょうか。

残酷な王のために、イエス様の家族は国から逃げなければならなくなりました。

そして、もっと恐ろしいことには、この残酷な王は、ベツレヘムの町の男の子を、一人残らず殺させました。

救い主はベツレヘムに生まれると預言されていたからです。

しかし、こんな大変なことがあるでしょうか。

これは虐殺です。

それも、王が自分の国民を虐殺したのです。

もし私たちの国で、同じことが起こったとしたらどうでしょうか。

考えられないことです。

あってはならないことです。

しかし、ここでまた聖書は言います。

これも、旧約聖書の預言を引用しながら、これは預言が実現したことである、と言うのです。

私たちは、これをどのように理解すればよいのでしょうか。

イエス様は救い主であるはずです。

その救い主が生まれてきたはずなのに、救いようのないような出来事が現実に起こっている。

もう慰めようもないような出来事が起こっている。

にもかかわらず、これは、預言が実現したことである、と聖書は言うのです。

 

ヘロデが死んでから、イエス様の家族はイスラエルに戻りました。

しかし、次の王も恐ろしい王であったために、ナザレという町に行って住むことになりました。

王様は代わっても、恐れはなくならなかったのです。

けれども、またこれも預言の実現だったと聖書は言っています。

救い主が来られたというのに、これは一体どういうことでしょうか。

悲しむべき出来事ばかりが起こってきます。

救いようのない出来事ばかりが起こってきます。

神さまはヨセフに対して夢の中で指図しますが、「逃げなさい」とか「行きなさい」と言うだけです。

神さまは何も解決してくださいません。

積極的に動いてくださいません。

 

ここで目を留めたいのは、今日の18節の旧約聖書の言葉です。

これはエレミヤ書の3115節の言葉なのですが、エレミヤ書では、その次の16節に、このような言葉があります。

「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる」。

そして、その同じエレミヤ書31章の31節には、こうあります。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる」。

「新しい契約」、それこそ、イエス様が私たちを自由にしてくださる出来事です。

それは、旧約聖書の出エジプト記のように、私たちの身分を自由な身分にくださる、ということではありません。

私たちは誰も、その意味では奴隷ではありません。

しかし聖書は言います。

人は皆、罪の奴隷なのです。

自分中心に物事を考え、神をも人をも愛することができない。

何よりもまず、自分を愛してしまう。

その意味で、生まれたままの人間は皆、罪の奴隷なのです。

へロデなどは、まさにその代表です。

しかし、イエス様は、わざわざそのような王のもとに生まれてきてくださったのです。

罪の奴隷になってしまっている人を自由にしてくださる方だからです。

だからこそ、人の罪が極まったようなその場所に、生まれてきてくださったのです。

今日の出来事は、私たちの目には、何の罪もない子どもたちが殺されて、その子どもたちが身代わりになるようにして、イエス様は生き延びた、そのような話に見えます。

けれども、この時、イエス様が生き延びたのは、私たちに代わって十字架にかかってくださるためでした。

私たちに代わって十字架にかかってくださって、私たち罪びとをゆるす新しい契約を結んでくださるためでした。

だからこそ、エレミヤ書で、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」と言われているのです。

人が罪から自由にされるとき、人が罪の支配から神の御支配に移し替えられるとき、「苦しみは報いられ」ます。

救いが与えられます。

苦しみをも無駄にせず、むしろそれを用いて、救いが与えられるのです。

 

ですから私たちは、こう信じていいのです。

私たちが苦しむとき、悲しむとき、慰められようとも思わない時にこそ、キリストは私たちのすぐそばに来てくださっているんです。

どのような出来事が起こったとしても、今日、神様が見させてくださったとおり、すべてのことが神様と導きのもとにあります。

神様は、すべてをご存知の上で、すべてを用いて救いのご計画を実現していってくださるのです。

 

私たちは自分ではどうにもならない事柄に取り囲まれて生きています。

考えてみれば、私たちは、自分の身の丈以下の小さなことしか、自分の力でどうにかすることはできません。

私たちには、どうすることもできないことが多すぎます。

そう考えると、苦しみや悲しみは私たちの人生の本質なのかもしれません。

しかし、今日の場面をよく見て欲しいのです。

その苦しみと悲しみの中に、イエスはすでに来てくださっているんです。

ですから、私たちは、信じていいのです。

私たちの現実がどんなに暗く、絶望的だったとしても、キリストはすでにそこに来てくださっているのです。

私たちのために命を投げ出すために、もうそこにいてくださっているのです。

そのキリストを見出しましょう。

キリストは、私たちの隣に、いつも、今も、居てくださっているのです。