
【今週の予定】
●1月1日(日)礼拝(聖餐式あり、10:30~12:00)、お茶会、クリスマスの片づけ、掃除★1月1日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書13章1節から9節
説教題:「悔い改めの実」

ルカによる福音書2章15—20節
15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
今日は、羊飼いたちに注目したいと思います。
この人たちは、クリスチャンとは何かということを教えてくれています。
まず、神の言葉に聞いて従う、ということですね。
そして、神の言葉に聞いて従ったときには、喜びに満たされて、賛美する者に変えられるということですね。
見ていきましょう。
この直前の場面ですが、天使たちは羊飼いたちに知らせました。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と知らせたんですね。
羊飼いたちはそれを聞いて信じました。
いきなり言われてそんなに簡単に信じられるものだろうかとも思いますが、羊飼いたちはこの後で言っていますね。
「ベツレヘムに行こう」と言っています。
救い主はベツレヘムに生まれるという旧約聖書の預言を知っていたんです。
旧約聖書に預言されていた救い主がついにやってきてくださった。
そこで、ベツレヘムに行くんですね。
羊飼いたちは、神の言葉を聞いて、それに従った。
これが弟子になる、ということですよね。
弟子になるということは、神の言葉に聞いて従うことに始まります。
そう言い切ってしまっていいと思いますね。
後にイエス様の弟子になった人たちも、皆、イエス様の言葉を聞いて、すぐに従った、後を付いて行った、そういう人たちでした。
この従う、ということが、大切なことを教えてくれていると思います。
「従う」と聞きますと、何か、重荷を負わせられるように感じてしまいますが、そうではないですよね。
何しろ、神の言葉は何と言っているか。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っているわけです。
何も特別なことはしていない、その日もいつもと同じ仕事中だった羊飼いに、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われているんですね。
あなたが何かをしなさいとは一言も言われていません。
ただ、羊飼いたちは、その知らせに動かされたんですね。
そして、ベツレヘムに行ったんです。
仕事をしていた場所から動かないで、「ああ、良かったね」ということではなかった。
他人事ではなかったということですね。
「あなたがたのために救い主がお生まれになった」、これを、まさにこの自分のことだと受け止めた。
だから、自分が出かけていくんです。
大事なのはこれですよね。
語りかけられている神の言葉を、自分のことだと受け止める。
そうする時には私たちも、その言葉に自然に動かされるんだと思うんですね。
イエス様の弟子になった人たちもそうでしたよね。
弟子たちは、イエス様に従った。
従ったというのは、イエス様の後を付いて行ったということです。
今日の羊飼いたちも、神の言葉に従った。
今いる場所をたって、急いでベツレヘムに行った。
動かされるんですね。
イエス様に向けて、動かされるんです。
神の言葉を自分のことだと受け止めるとき、私たちは動かされる。
そしてもっとイエス様に近づくようになる。
考えてみれば、救いというものは、神様が与えてくださるものですよね。
外から与えられるもの。
私たちの内にはないもの。
だから、私たちは行くんですね。
イエス様のところに行くんです。
それがこの礼拝というものなんですね。
私たちはこの場所で、弟子たちと同じこと、羊飼いたちと同じことをしているんです。
私たちは、神の言葉に聞いて、従っているんですね。
そうして、救い主のところにやってきたんです。
そうすると、どういうことが起こるか。
神の言葉が実現していくんですね。
羊飼いたちは言っていました。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。
羊飼いたちは知らされた「出来事」を見ようとしたわけです。
そして実際に、その通りの出来事を見ることになります。
ここには、その「光景」を見た、と書かれています。
そしてこの、「出来事」という言葉も、「光景」という言葉も、原文ではどちらも同じ言葉です。
「出来事」という単語も、「光景」という単語も、どちらも「言葉」という単語なんですね。
ですから羊飼いたちは、神の言葉を見ようとして出かけたわけです。
そして、神の言葉を見たわけです。
つまり、神の言葉は目に見える形で実現するものなんだということですね。
神の言葉は言葉のままでは終わらない。
言葉が出来事になる。
聖書の一番最初の出来事ですけれども、神様が天地をお造りになられた時、何か材料を用いてお造りになるのではなく、言葉でお造りになられた。
神様が言葉を発すると、それがそのまま出来事になっていく。
神の言葉は実現するんですね。
そのまま出来事なんです。
そして、神の言葉が出来事になる時、何が起こるか。
人は、喜びに満たされて、賛美する者に変えられるんですね。
この後、羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰っていった」と書かれています。
神の言葉が実現するとき、人は変えられるということですね。
羊飼いたちはこの日、いつもと同じ一日を過ごしていました。
いつもと同じ仕事をしていました。
それでも、神様の言葉が下ると、人は変えられる。
救いの言葉が実現するからです。
よく考えてみれば、この時、羊飼いたちが見たのは、そんな素晴らしい場面ではないですね。
一組の夫婦がいて、赤ちゃんが飼い葉桶に寝かされている。
飼い葉桶に寝かされているということですから、場所は馬小屋だったのでしょう。
ある夫婦が、長い旅をしてこなければならなくなって、そして、泊めてくれる宿もなかったので、馬小屋で子どもを産んだ。
それは悲しい現実ですね。
それを、羊飼いたちは見たんです。
けれどもここで羊飼いたちは、「どうして救い主がこんなところに生まれなければならなかったんですか」とは言いません。
神の言葉が実現しているからです。
天使が言っていましたね。
「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」。
その通りになった。
ということは、救い主が馬小屋で生まれるということも、神の目にふさわしいことだったということですね。
救い主、神の子イエスは、ここで、私たちの側に立ってくださっているんです。
イエス様の両親が長い旅をしてベツレヘムに来なければならなかったのは、ローマの皇帝が住民登録を命じたからでした。
だから、自分の先祖の町に、自分の本籍地に来なければならなかった。
そして、その町に来たものの、お腹の大きい女性がいるというのに、誰も泊めてもくれなかった。
イエス様は、人の力に追いやられて、人の心に追いやられて、馬小屋にまで追いやられて、そこでお生まれになられたんですね。
言ってみれば、イエス様は、人の罪のただ中でお生まれになられたんです。
それが馬小屋なんです。
それは、生まれてくる場所としては、最もふさわしくない場所です。
だからこそ、羊飼いたちは、そして私たちも、信じることができます。
この方は、私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださる、どんな時も、私たちの側に立ってくださる、そのような救い主だ。
そして、このような場所だからこそ、誰でも近づくことができます。
もしこれが、普通の家だったり、宿屋だったり、もしかしてお城のような場所だったりすれば、どうでしょうか。
誰も近づくことはできません。
まして、羊飼いというのは、当時の社会の最も下に位置付けられていた人たちです。
彼らには戸籍がありませんでした。
だから、ローマの皇帝が住民登録を命じたのに、彼らは先祖の町に行こうともしないんですね。
いつも通り仕事をしているんです。
イエス様が馬小屋以外の場所でお生まれになられたとしたら、そんな人たちが、イエス様に近づくことができるでしょうか。
馬小屋だからこそ、誰でも近づくことができるのです。
イエス様の救いからは、誰も漏れることはないんですね。
救い主は徹底して私たちの側に立ってくださる。
私たちの罪も、悲しみも苦しみも担ってくださり、どんな人でもご自分のそばに招いてくださる。
救い主が、神の子が、私たちと同じ人間として生まれてきてくださる。
それだけでももう十分に私たちの側に立っていてくださることなんですけれども、ここまで身を低くして、私たちの側に回ってくださった。
羊飼いたちは、その御心が分かったんじゃないですか。
だから、どうしてこんなところに、とは言わずに、素直に大喜びしたんじゃないですか。
そして、その時、神の言葉が実現する時、神の言葉が実現して、私たちが喜びに満たされる時、私たちは変えられるんですね。
ここまで、羊飼いたちの役割は、証人でした。
神の言葉が実現したことを証する人でした。
羊飼いたちは天使が話してくれたことを人々に知らせていますよね。
証人だったということです。
けれども、それで終わりではないんですね。
羊飼いたちは最後、神をあがめ、賛美しながら帰っていくんです。
賛美する者に変えられる。
神に感謝し、神をほめたたえるようにされる。
神様は、私たちが最終的に、喜びにあふれて賛美するようになることを望んでおられるんですね。
それが神様の望みなんです。
だってそうじゃないですか。
神様は、人には前もって何も知らせずに、人を救うご計画を進めることもできます。
それでも、何の問題もありません。
けれども神様は、人と心を一つにすることを望んでおられるんですね。
神様は、人が喜びに満たされて賛美するようになることを望んでおられる。
そのようにして、人と心を一つにすることを望んでおられる。
だから、御言葉を与えてくださるんですね。
考えてみれば、神さまは、イエスさまがお生まれになることをマリアに知らせてくださっていました。
イエス様に洗礼を授けることになる洗礼者ヨハネが生まれることを、その父であるザカリアに知らせてくださっていました。
神さまはご自分のなさることを御言葉で知らせてくださるんですね。
それは、人が喜びに満たされて賛美するようになるためにです。
マリアもザカリアも神さまを賛美しました。
神の言葉が実現する時、人は賛美する者に変えられるんですね。
今回は、羊飼いたちが賛美することになりました。
それは、私たちもです。
神さまの言葉が実現していくことで、人が救いに入れられていく。
そして、心から喜んで神さまをほめたたえるようになっていく。
私たちが礼拝の中でしている賛美は、そういうものなんですね。
だから私たちも、もう、ただの証人ではないんです。
それを通り越して、賛美する者なんです。
私たちはみんな、この羊飼いであり、マリアであり、ザカリアなんです。
賛美した後、羊飼いたちは帰っていきました。
現実に帰っていくんですね。
そこには厳しい労働が待っています。
世間の人たちの視線も冷たいものだったことでしょう。
けれども、羊飼いたちは、それまでと同じ場所に置かれて、同じものを見ても、受け取り方、感じ方はもうまったく変わってしまったと思うんですね。
厳しい現実の中にあっても、賛美にあふれて生きていったんだと思うんですね。
その日から、新しい生活をスタートさせていったんだと思います。
救いに入れられているからです。
そして、神と心を一つにしているからです。
私たちもそのようであっていいんです。
救いは、この私たちにおいて実現している。
私たちのための救い主が、私たちのところに来てくださった。
だから、私たちはこの礼拝に自分からやってきたんだし、礼拝の中で賛美をしている。
私たちも、神と心を一つにしている。
羊飼いたちと私たちには、何の違いもありません。
賛美しながら、それぞれの現実に帰っていきましょう。
そこでも、神を賛美しましょう。
神はいつも、私たちの側におられるからです。
私たちがどんな悲しみ苦しみにあっても、神様は必ず、私たちを抱きしめてくださるからです。
賛美しましょう。
そして、羊飼いたちがそうしたように、このクリスマスから、新しい生活をスタートさせていきましょう。
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