今週の説教「悔い改めの実」(ルカによる福音書13章1-9節)

【今週の予定】

●1月2日(月)週休日

●1月8日(日)礼拝(10:30~12:00)、食事会、役員会(13:00~16:00)、掃除

★1月8日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章10節から21節

説教題:「束縛からの解放」

ルカによる福音書131節から9

 

1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。

4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 

 

ショッキングな出来事が起こったようですね。

「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」ということですが、殺人事件が起こったということです。

それも、ピラトという人が殺人を犯したんですね。

ピラトというのはローマ帝国の役人です。

ローマ帝国というのは当時地中海世界の全体を支配していた大帝国ですね。

ピラトはイスラエルを支配するためにそのローマからやってきた役人です。

その人が、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた、要するに、ガリラヤの人たち、これはイスラエルの一番北の地域の人たちのことですが、この人たちがエルサレムの神殿で神様にいけにえをささげていたまさにその時に、ピラトの手下の兵隊たちがそこに入り込んできて、ガリラヤの人たちを殺した、ということのようです。

この事件は歴史に残っていないんですけれども、このピラトという人は残酷な人だったということでしっかり歴史に残っている人ですので、この事件は実際に起こった事件に間違いなさそうです。

大変なことですよね。

神殿で儀式をしているときに外国の兵隊がいきなり入ってきて、人を殺したわけです。

そのことが、イエス様や周りにいた人たちに伝えられました。

「ちょうどそのとき」と書かれていますけれども、これがどういうタイミングだったかと言いますと、イエス様が群衆に向けて話をしておられたちょうどその時、ということですね。

イエス様はこんな話をなさっておられました。

今の時がどういう時であるか、それは、あなたを訴える人と一緒に役人のところに向かっているような時なんだ、ということですね。

自分を訴える人が、自分を裁判所に引っ張っていく、それが今の時なんだ、ということですね。

ここままでは、あなたがたは訴えられて、牢屋に入れられますよ、ということです。

要するに、私たちは皆、神に背く罪びとであるわけです。

神よりも、他の誰よりも、自分を真っ先に愛してしまう、罪びとなんですね。

その私たちに対して言われているんです。

今の内に神様と仲直りしなさい、和解しなさい。

これはこの場にいた人たちだけではなくて、私たちも含めた全員に言われていることですね。

何よりも自分を愛しているという点で、人間はみんな同じです。

その私たちに、このままでは裁きがあるよ、と言われていたんです。

ちょうどそのときに、神殿で儀式をしていた人たちが、兵隊に殺された、という話が伝えられたんでした。

そうなりますと、私たちはどういうふうに考えるでしょうか。

神殿でいけにえをささげていた人たち、この人たちは、神様にささげものをしていたわけです。

言ってみれば、神の前に正しいことをしていたわけです。

それなのに、正しいことをしている最中に殺されてしまった。

こうなりますと、この人たちは、何か神の目に特別な罪を犯していて、その裁きが下ったんだろうと考えてしまいそうです。

もっと言うと、自分は今のところそういう目にはあっていないから、自分は大丈夫じゃないかと思ってしまいそうです。

つまり、自分は特別に罪深いわけでもないし、神様との関係が悪いとも思わない。

神の裁きが下るのは、特別に悪い人だけなんじゃないだろうかと考えてしまいそうです。

おそらくこの時、この場所に、そういうふうに考える人がいたんでしょうね。

だからイエス様は言いますね。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」。

特別に罪深い人たちだったから、裁きにあった。

やっぱりそういうふうに考える人がいたようです。

これ、こういう考え方、私たちも気を付けたいところですね。

何かがあった時に、その原因を探して、こういう原因があったはずだ、と考えて納得する。

でもそれって、本当にそれが正しいのかはわかりません。

ここにいた人たちは、この事件について聞いた時、こんなことが起こったのはこの人たちが罪深かったからだと考えたわけなんですが、それが事実そうであると、どうして分かるでしょうか。

実際、イエス様は、「決してそうではない」と言っているのです。

私たちが「きっとそうなんだろう」と考えて勝手に納得していることで、間違っていること、たくさんあるんじゃないでしょうか。

それでも、私たちはなかなかこういう勝手な理由付けをやめることができません。

それが罪びとだということなんですが、人間はやっぱり自分中心なんですね。

だから、納得できないことは起こってほしくない。

何とかして納得したい。

そういう思いがいつも心のどこかにあるんでしょうね。

ですので、考えてみれば、私たちがこういう理由付けをしようとする時って、悪いことが起こった時ですよね。

良いことが起こった時は理由付けしようとしたりはしませんね。

良いことが起きても当たり前だ、と。

悪いことが起こると、なんでこうなったのか、と理由を探そうとする。

自分中心なんですね。

だから、イエス様が、今の内に神様と仲直りしなさい、和解しなさいとおっしゃられても、なかなかそれを自分のこととして受け入れることができない。

でも、それではいけないということですね。

イエス様は今日、二回も繰り返しておっしゃっておられます。

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

人間は皆、罪びとなんです。

自分中心のエゴイストなんです。

そして、聖書は言いますね。

罪に対する罰は死なんです。

だから、言われているんです。

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

人間みんななんです。

人間みんなが当てはまることを、イエス様はおっしゃっておられるんです。

4節では、シロアムの塔が倒れて18人が死んだ出来事が取り上げられています。

この出来事も歴史に残っていませんが、どうやらこの出来事は偶然起こった事故のようですね。

最初に伝えられた殺人事件は、ピラトが計画したものだった。

それに対して、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

次に取り上げたこの事故は誰かが計画したものではなかった。

それでも、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。

同じことだと。

その人たちだけが特別なのでもなければ、自分たちだけが特別なのでもない。

勝手な理由付けをするな。

勝手に納得しようとするな。

人間みんな同じ罪びとだ。

それ以上の考えは必要ない。

それがイエス様のお考えのようです。

考えてみれば、イエス様は、というか聖書は、苦しみや悲しみの原因を示したりはしませんね。

苦しみや悲しみの原因を知ったところで、苦しみや悲しみがなくなるわけではありません。

原因を知っても、そこに救いはないんですね。

聖書が教えているのは、苦しみや悲しみの中で、私たちが何を目指すのか、ということです。

それが悔い改めということなんですね。

この「悔い改め」という言葉は、旧約聖書の言葉であるヘブライ語では、「立ち返る」という言葉です。

何に立ち返るのかというと、神に立ち返るんですね。

それを目指しなさい、と聖書は言うんです。

自分中心の考えで、自分を納得させようとして生きるのをやめて、神に立ち返りなさい。

だからイエス様は、弟子たちが理由付けをしようとすると、それをやめさせることがあります。

これはヨハネによる福音書の9章の最初に出てくる話なんですが、生まれつき目が見えない人についての話ですね。

生まれつき目が見えない人がいて、弟子たちがイエス様に尋ねます。

「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。

弟子たちはそういうふうに尋ねて、こういうことになった理由を知って、納得したいんですね。

けれどもイエス様はおっしゃいます。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

さかのぼって理由を探すな。

そうではなく、未来に目を向けろ。

これからこの人に神の業が現れる。

この後、この人はイエス様に言われた通りに従って、そこに神の業が現れていったんですね。

過去に理由を探すな。

そんなことをして自分を納得させようとするな。

そんなことをしても苦しみも悲しみもなくならない。

そうではなく、今から後、神に立ち返れ。

これがイエス様のお考えなんですね。

では、私たちはどんなふうにして神に立ち返れば良いのか。

それが今日の後半のたとえ話です。

「実のならないいちじくの木」のたとえということなんですが、実のならないいちじくの木があって、ある人がそれをもう切ってしまえと言ったと。

けれども、手入れをする人は、今年もこのままにしておいてください、何とかします、来年まで待ってください、と答えたと。

まあ、結局、この直前で言われていた話とよく似ていますよね。

直前の話は裁判のたとえで、今の内に神様と仲直りしなさい、和解しなさいという話なんでしたが、こちらの話は今の内に実を結びなさいという話ですね。

そうしないと、いちじくの木は切られてしまうぞ、という話です。

そういうことですから、このたとえ話に出てくるある人というのは神様、木の手入れをしている園丁はイエス様、実のならないいちじくの木は私たち、ということになります。

では、私たちはどのようにして神に立ち返ればいいんでしょうか。

私たちは、いちじくの木なんです。

そして、この話は、いちじくの木に頑張らせようという話ではありません。

だって、いちじくの木なんですから。

頑張るも何もない。

ただ、園丁は頑張ってくれていますよね。

主人に掛け合って、なんとかいちじくの木を守ろうとしてくれているんです。

その言葉、「今年もこのままにしておいてください」という言葉は、「今年も許してください」という言葉です。

何とかして滅びから免れるように、私たちが助かるように、イエス様は一生懸命とりなしてくれているんですね。

実際そうです。

そうなりました。

私たち、いちじくの木は切られることはなかった。

イエス様が十字架で、私たちの罪に対する罰を代わりに受けてくださったからです。

これによって、私たちは神様と仲直りをしたんです。

和解させられたんです。

十字架でイエス様が息を引き取るとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと言われています。

神殿の垂れ幕、それは、神殿の一番奥にかかっているんですが、神と人とを隔てていたものです。

人間には罪があるから、だから神に近づくことはできない。

それが神殿の垂れ幕です。

それが、真っ二つに裂けた。

神と人とを隔てるものは、もうなくなった。

私たちはいつでも神に近づくことができる。

私たちは、もう、神に立ち返っているんですね。

気がついた時にはもう。

今、この時に。

だって、私たちは今、この場所で礼拝をささげているじゃないですか。

神さまと向かい合っているっていうことですよね。

そういうことが、今ここで起こっている。

だから、立ち返るなんて言っても、何か特別に私たちがしなきゃいけないことはないんです。

というか、とても特別なことを、私たちはこうして、普通にしているんです。

今日の聖書の箇所は、当然、十字架以前の箇所ですから、十字架以前には、イエス様が代わって罰を受けてくださる以前には、本当に大変だったこと、神に立ち返るということ、ここまでイエス様に言われても、弟子たちですらなかなかできないでいたことを、私たちは、もう普通にできているんですね。

私たちは、自分中心で、どんなことでも自分に引き寄せて納得しようとしますけれども、イエス様はそんな私たちをご自分に引き寄せてくださって、私たちを神様の前に取り戻してくださったんですね。

そういう、今日の聖書の場面ではまだ起こっていない、とんでもないことが、今この私たちには起こっているんです。

礼拝って、そういう、奇跡なんです。

考えてみれば、今日のこのたとえ話で、ある人、これは神様ですけれども、なんかこう、切り倒せなんて言って怖そうですけれども、この神さまだって、私たち人間なんてどうでもいいんだと言っているわけじゃないじゃないですか。

読んでみるとわかります。

この人は、神様は、私たちが実を実らせることを願っておられるんですね。

私たちの実りを見たいわけです。

その実りが、今、ここにある。

私たちは神に立ち返って、礼拝をしている。

この一年を始めるにあたって、礼拝から始めようとしている。

神を礼拝する思いで、今日から始まる一年間を生きていきましょう。

そうする時、苦しみの中にあっても悲しみの中にあっても、私たちに神様がくださる平安が与えられます。

神さまが私たちをどれほど愛してくださっているか。

イエス様が私たちのためにどれほどとりなしてくださっているか。

それを数え上げて、今年も、神様の御前に生きていきましょう。

そうする時、私たちに、ますます神様の栄光が輝くはずです。