「束縛からの解放」(ルカによる福音書13章10-21節)

【今週の予定】

●1月9日(月・祝)牧師週休日

●1月11日(水)宣教師と牧師の懇談会(17:00~18:30)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●1月12日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●1月15日(日)礼拝(10:30~12:00)、お茶会掃除

★1月15日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書13章22節から30節

説教題:「救われる者は少ないのか」

ルカによる福音書1310-21

10安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」15しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」17こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

18そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」20また言われた。「神の国を何にたとえようか。21パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

 

 

今日の場面はイエス様が会堂で説教をなさっています。

実はこの場面が、イエス様が会堂で説教をなさる場面としては最後の場面です。

この後は、イエス様はもう会堂では説教をなさらないんですね。

ではその最後の説教がどのようなものであったか、ということなんですが、イエス様が何をお話になったのかはここには書かれていません。

ただ、イエス様はこの礼拝中に、説教中に、一人の人に目をとめます。

18年間も病気で苦しんでいた女性です。

18年間もこの人は一つのことに苦しめられていました。

この人の気持ちは一体どんなだっただろうと思います。

これは、私などには想像がつかないことなんですね。

自分のことをいろいろと思い返してみましたが、私が一つのことに苦しめられたのは、一番長くて9年間です。

それが、この人は、18年間ですね。

皆さんはどうでしょうか。

もっと長いという方もいらっしゃるのではないかと思います。

自分の力ではどうにもならないことに、ただただ苦しめられる。

それがいつ終わるとも分からない。

いやむしろ、18年なんてなってきますと、もうあきらめて、それが普通になってしまいそうです。

そういうことが、どの人にも、これから起こってこないとは限りません。

しかし、イエス様は、そのような人に目をとめてくださるんですね。

目をとめるだけではありません。

呼び寄せるんです。

ご自分のもとに。

私たちはその時、イエス様の前に進み出て、イエス様の前に立つことになります。

この女の人がそうしたように、イエス様の前に立つことになります。

それは私たちにとって、特別なことではありません。

私たちが今している礼拝が、そういうことなんです。

私たちはイエス様に招かれて、イエス様の前に立っている。

イエス様と向かい合っている。

それが礼拝ですね。

この聖書の場面も礼拝の場面ですけれども、言ってみれば私たちは今、この女の人と同じ場所にいるんです。

そして、呼び寄せた私たちを、イエス様はいやしてくださるんです。

「婦人よ、病気は治った」。

直訳すると、「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」。

こういうふうに宣言してくださるんですね。

これは、病気をしかりつけて追い出した、ということではないですね。

イエス様は以前にそういうことをなさったことがありましたけれども、今回はそうではない。

いやされるように祈ったということでもない。

宣言しているんです。

「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」。

解放の宣言です。

もう終わったこととして、実現したこととして、このことが宣言されているんですね。

どうしてか。

イエス様は、説教をなさっていたからです。

神の言葉を語っておられた。

そしてその、神の言葉が実現した。

だから、イエス様は宣言するだけで良かった。

そういうことじゃないでしょうか。

イエス様が最初に会堂で説教なさった時のことを思い出します。

その時、イエス様は旧約聖書のイザヤ書をお読みになりました。

「主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由に」するためである。

そういうところをお読みになられた。

そして、そこを読んだ後で言うんですね。

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

それが私だ。

聖書のこのところに書かれてある、人を解放し、自由にするということ。

これは、私について書かれていることだ。

その私が今、ここに来た。

イエス様は、私たちを解放してくださるために、自由にしてくださるために来てくださったんです。

そしてそのことが、今日の場面で実現しています。

聖書の言葉が、神の言葉が、実現しているんですね。

だから、イエス様としては、「婦人よ、あなたはあなたの病気から解放された」、そういうふうに宣言するだけで良かったんです。

そしてこの、イエス様がおっしゃった「病気」という言葉は、「弱さ」とか「無力」という言葉なんです。

ですから、イエス様はこうおっしゃっているんです。

私たちに対してこうおっしゃっている。

「あなたは、あなたの弱さから、無力さから解放された」。

私たちが礼拝の中で聞くべきことはこれですね。

私イエスがあなたを解放した。

あなたは弱く、無力だが、私があなたを弱さと無力さの支配から解放した。

こういうふうにおっしゃるんですね。

どうしてそう言えるのか。

イエス様は、私たちを支配する最も強い力に打ち勝ってくださったからですね。

私たちを支配するもっとも強い力。

それは聖書的に言えば、罪の力であり、死の力です。

罪という言葉は聖書の原文では「的外れ」という言葉なんですが、人は神を神とせず、他の物を神にして、それに従ってしまう。

的外れなんです。

そのような罪の力に、私たちは皆、支配されている。

そして、聖書では、その罪に対する罰が死です。

私たちは皆、死に支配されている。

死の前では、私たちは全く弱く、無力です。

キリストはその罪と死の支配に打ち勝ってくださった。

私たちの罪を背負って、十字架で私たちの代わりに罰を受けてくださり、その後に、死から復活してくださった。

私たちを支配する最も強い力に打ち勝ってくださった。

だから言うんです。

あなたは、あなたの弱さ、無力さから解放された。

あなたはもう、どんな力にも支配されていない。

わたしがあなたを解放した。

あなたの弱さ、無力さそれ自体は今もまだあるかもしれない。

けれども、私はその支配から、あなたを解放した。

あなたは今、わたしのもとにいる。

今こうして、この礼拝において、私と向かい合っている。

私の支配があなたに及んでいる。

だから、安心していなさい。

そうおっしゃってくださり、私たちに手を置いてくださるんですね。

そうすると、どうなるか。

この女の人は神を賛美しました。

私たちも、神を賛美するんですね。

他に何もやりたいことはありません。

ただ、神を賛美するんです。

それが私たちの礼拝なんですね。

そういう礼拝を、今、私たちもささげているんです。

 

けれども、この聖書の場面では、それをこころよく思わなかった人たちがいました。

というか、腹を立ててしまった人がいました。

会堂長ですね。

この人は、イエス様が安息日に人をいやしたということで、腹を立てました。

週に一日、安息日には、何もせずにただ心を神様に向けて休むんですね。

この日は働いてはいけない日になっていました。

ですので、イエス様のなさったことは、この病気の人を治療した、つまり、働いたとみなされてしまった。

それで、会堂長は、働いてはいけない日なのに働くのは良くない、と怒り出したんでした。

けれどもこの人は、イエス様に向かって直接それを言うことができなくて、群衆に向かって言っているんですね。

その会堂長に対してイエス様は答えます。

「偽善者たちよ」と呼びかけていますね。

「偽善者たちよ」なんですね。

会堂長一人に言っているんじゃないんです。

群衆の中にも、イエス様に腹を立てた人がいたらしいのです。

では、この人たちのどこに偽善があったのでしょうか。

それは、旧約聖書の申命記ですが、モーセの十戒の第四戒、安息日についての部分を読めばわかります。

こういうふうに書かれているんですね。

「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。

イスラエルの人々は大昔、エジプトで奴隷にされていたんですね。

けれども、神様はやっぱり人を解放してくださる神様、人を自由にしてくださる神様なんですね。

神様は、奴隷として支配されていたイスラエルの人々を解放してくださったんです。

そのことを思い起こすのが安息日なんですね。

安息日は解放の記念日なんです。

ですから実は安息日は、人を自由にする働きをするのにふさわしい日なんですね。

イエス様は言っていますね。

安息日に牛やろばを解いてやって、解放してやって、水を飲ませに行くのはふさわしいことです。

そういうことをあなたがたはしているじゃないか。

それなのに、どうして、この女の人が18年もの間、病気に苦しめられていたところから解放されたことを喜べないのか。

どうして、牛やろばにも安息を与えるあなたがたが、この女の人が解放されたことに腹を立てるのか。

イエス様はこのことを偽善だとおっしゃっているんですね。

どんな仕事もしてはならないという決まりをそのまま当てはめて、解放の働きをなさったイエス様を批判する。

働きの中身を全然見ていないんですね。

考えてもいない。

それは労働だ、そう言って、批判する。

的外れなんですね。

やっぱり人は、こういう的外れ、罪の力に支配されているんですね。

だからこそ、イエス様は来てくださったんですね。

だからこそ、イエス様はこんなふうに批判されてもあきらめない。

人間を見捨てたりはなさらない。

ここから、イエス様はたとえ話をなさいます。

「からし種」と「パン種」のたとえです。

これ、何をたとえてこういうお話をしているのかというと、神の国だということですね。

「神の国」という言葉は「神の支配」とも訳せる言葉です。

イエス様は私たちを罪の支配から神の支配へと移し替えてくださった。

今日、その御言葉を語ってくださり、その通りの出来事を見させてくださった。

しかしここでイエス様は、その神の国を、「からし種」と「パン種」にたとえるんですね。

「からし種」と「パン種」。

どちらも小さなものです。

しかし、その小さなものが大きくなるのだ、大きな影響を与えるのだ、とおっしゃるのです。

確かに、今日の出来事、小さなことと言えば小さな事かもしれません。

一人の人がいやされた。

それは、今日で言うとニュースにもならない出来事かもしれません。

しかし、ここにもう神の国は確かに始まっている。

16節の言葉で言うと、一人の人がサタンの束縛から解放された。

サタンという言葉は、もともとは「敵」という言葉です。

神に敵対する側に縛り付けられていた人が、神様のご支配のもとに取り戻された。

礼拝という場所は神の国が始まる場所なんですね。

そして、始まった神の国は大きくなっていく。

1ミリの大きさしかないからし種は大きな木になって、鳥が巣を作れるほどになる。

そんなにも大きくなる。

鳥がそこを居場所にすることができるようになる。

それだけではありません。

パン種のたとえの方はもっとすごいんです。

これもやっぱり大きくなるという話ではあるんですが、「全体が膨れる」と言っている、その「膨れる」という言葉は、「パン種になる」という言葉なんです。

「全体がパン種になる」。

そうなりますと、もっともっと多くのパンを作ることができるようになりますね。

ただ、パン種の働きは目にはつかないものですね。

パン種を「粉に混ぜる」という時の「混ぜる」という言葉は、「隠す」という言葉です。

神の国の始まりは隠されているんですね。

大きなニュースのようなものではないんです。

けれどもそれが全体を大きく膨らませて、全体をパン種にしてしまう。

神の国にしてしまう。

神の国はそんな広がり方をするのだ、ということですね。

考えてみればそうですよね。

イエス様が十字架にかけられたことだって、その時代にあっては別に大きなニュースではありませんでした。

ただ、死刑が執行されたということですから、それほど珍しい話でもありません。

けれども今、世界中の人が、聖書を読んだことがなくても、イエス・キリストという人が十字架で死んだということを知っています。

教会も世界中に広がっている。

神の国は確かに広がってきたんですね。

そして今や、私たち自身、パン種に変えられているんですね。

神の国が、神の支配が、私たちに及んでいるんですから。

私たちもパン種です。

私たち一人ひとりからまた、神の国がそれぞれの場所で広がっていく。

それは別に、私たちが神の言葉の実現を宣言しろとか、そういうことではないんだと思いますね。

何しろ今日のたとえで言うと、パン種は隠されているんですから。

混ぜこまれてしまって、一緒になってしまって、もう全く目立たない。

けれども、私たちが周囲の人たちの中に隠されていようと、確かに神の支配は私たちに及んでいるんです。

私たちにも弱さ、無力さがあります。

私たちはできないことはできない。

しかし私たちは自分の弱さ、無力さに、もう支配されていない。

人を解放する神の国の力が、私たちに働いている。

だからその力は、私たちの周囲の人たちにも影響を与えていくんだと思うんですね。

目には見えませんが、人を支配するどんな力よりも強い力が、私たちに働いているんですから。

そんな力が、私たちの中だけに留まっているはずはないんですね。

弱くて無力な私たちが押しとどめようとしたってそんなことはできないような力なんです。

だから実際に、今、神の国は世界中に広がっているじゃないですか。

押しとどめようとした力が働いたこともありましたが、その力は今も働いていますが、人間の力で押しとどめることなんてできないんですね。

そんな力が、私たちに働いている。

そしてこれも、御言葉の実現なんですね。

今日、いやされた女の人のことをイエス様は「アブラハムの娘」と呼んでおられました。

アブラハムという人は旧約聖書の創世記に出てきます。

イスラエル人の先祖ですね。

この人は、神様から祝福の約束を受けていました。

「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。

地上のすべての氏族です。

すべての人たちです。

すべての人に、神の祝福は及ぶんですね。

アブラハムという人はイスラエル人の先祖ですが、イスラエル人だけじゃないんです。

すべての人に、祝福は及ぶんです。

礼拝はそれが実現する場所であり、それが新しく始まっていく場所なんですね。

だから私たちは賛美するんです。

人を自由にする祝福が、ここにある。

どんな力よりも強い力がここにある。

いやされた女の人はそれを賛美しました。

群衆もそれを賛美しました。

私たちも、賛美しましょう。

神の無限の力を、ほめたたえましょう。