
【今週の予定】
●1月16日(月)牧師週休日
●1月17日(火)礼拝(聖餐式あり、9:00~10:00)
●1月18日(水)牧師懇談会(16:00~17:00)、加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)★1月22日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書13章31節から35節
説教題:「イエスの嘆き」
★1月17日(火)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙11章23節から26節
説教題:「聖餐式」

ルカによる福音書13章22-30節
22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
ある人が、イエス様にこんなことを聞きました。
「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。
こういうことを聞きました。
「救い」というのは終わりの日に神の国に入ることですね。
聖書では神という言葉は天という言葉と同じ意味でつかわれますので、天国に行くこと、それが救いだ、と言い換えることもできます。
天国の存在を信じていないという人も世の中にはたくさんいるでしょうけれども、もし天国があるとするなら、そこに入りたくないという人はいないでしょう。
ただここで、この人は心配になってしまったんですね。
いったいどれくらいの数の人が救われるものなのか、多いのか少ないのか。
自分はそこに入れるのか。
なんだか怖くなってしまったんでしょうね。
その気持ちは分からないではないです。
この場面までのところで、イエス様は、怖くなってしまうような話をなさってこられました。
右側のページの太字のサブ・タイトルを見ていくと、分かりますよね。
「訴える人と仲直りする」。
この話は、このままではあなたは牢屋に入れられてしまうんですよというたとえ話です。
「悔い改めなければ滅びる」。
これなんて、聞くだけで恐ろしくなるような言葉ですよね。
そして、「『実のならないいちじくの木』のたとえ」。
実がならなかったら切り倒されてしまうことになりそうだということですよね。
私たちがそういう者だからこそ、その私たちを救うためにイエス様が来てくださったわけなんですが、こんな話を立て続けに聞いていたら、自分は大丈夫だろうかという気持ちになるのも当然です。
なんだか、救われる人はとても少なそうです。
けれども、イエス様は、その正反対の話をしていますよね。
今日の場面の直前の「『からし種』と『パン種』のたとえ」ですが、これは、神の国を「からし種」や「パン種」というとても小さいものにたとえた話です。
けれども、その小さな「からし種」や「パン種」が大きく成長し、大きく膨らむんですね。
この話ですと、なんだか救われる人は多そうです。
一体、どうなんでしょうか。
救われる人は、多いんでしょうか、少ないんでしょうか。
救われる人が多いに越したことはないですよね。
救われる人の数が多いんでしたら、あまり自信がない人でも入れそうな気がします。
でも、数が少ないとなれば、大変ですよね。
この人はそんなことが気になったんでしょうね。
思い切ってイエス様に聞いてみたんでした。
それに対して、イエス様はお答えになりました。
ただ、この時、この人の方を向いてお答えになられたのではなくて、「一同に言われた」ということですね。
要するに、その場所にいた人たちの中に、同じことを考えている人がたくさんいたようです。
もしかすると、私たちの中にも、同じことを考えている方がおられるかもしれません。
皆さんはどうお考えになりますでしょうか。
救われる人は多いんでしょうか、少ないんでしょうか。
それについて、イエス様はお答えくださいましたけれども、このイエス様のお答え、皆さんはどういうふうにお読みになりますでしょうか。
イエス様は、「多い」とも「少ない」とも言っていないですね。
質問に答えるよりも、人々に対して励ましている感じです。
「狭い戸口から入るように努めなさい」。
こういわれると、結局、神の国に入れる人は少ないということになるんじゃないか、とも思われますけれども、すぐに続けてこうおっしゃっていますね。
「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。
要は、そういう問題じゃないんだ、という感じですね。
救われる人の数が多いのなら自分も入れるかもしれないとか、少なければ自分には無理かもしれないとか、そういう問題ではないのだということです。
救われる人の全体の数が多かろうと少なかろうと、そんなことがあなたにとってどういう意味があるのか。
たとえ救われる人が多くても、あなた自身が救われなかったら意味がないんだ。
たとえ救われる人が少なくても、あなた自身が救われることが大事なんだ。
自分が救われるように努めなさい。
なるほど、と思わされますね。
救われる人が多いのか少ないのか、そんなことを考えているということは、救われることを本気で求めていないということですよね。
救いを本気で求めているのなら、全体で何人が入れるのかなんて気にしないですね。
もちろん、救いというのは神様から差し出されるものです。
私たちが自分の力で一生懸命頑張ってなしとげなければならないというのなら、それはそもそも救いとは言わないでしょう。
ただ、大事なのは、救いをひとごとではなく、自分のこととして受け止めるということですね。
救われることを自分のこととして本気で求めることが大事なんです。
イエス様は、「狭い戸口から入るように努めなさい」と言います。
戸口は狭いんです。
なんとなく歩いていても、気づいたら入れていたということはありません。
ただ、戸口は戸口なんですから、入れないほど狭いのではない。
入ろうとすれば入れるんです。
だから戸口なんです。
ただ、その戸口を通るんだというつもりで歩いていかなくてはなりません。
なんとなくでは入れないんです。
そして、この戸口は、時が来ると閉められてしまうんですね。
ですから、なんとしても今の内に通らなくてはならない。
イエス様も言っておられますけれども、戸口が閉められてしまってから、「御主人様、開けてください」と言っても、もう無理なんですね。
ただそれは、中に入れる人の数が少ないということではありません。
もし、中に入れる人の数が決まっているのなら、ご主人様はこんなふうに答えるはずですね。
「たくさんの人があなたより先に入ってきたので、もう中はいっぱいです。これ以上は誰も入ることはできません」。
そういうふうに言うはずですね。
でも、そんなふうには言われていませんね。
こういうふうに言われています。
「お前たちがどこの者か知らない」。
それに対して、私たちはこういうふうに答えるだろうとイエス様は言います。
「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。
まあ、そういうことを言うでしょうね。
「御一緒に食べたり飲んだりしました」というのは、聖餐式です。
「わたしたちの広場でお教えを受けたのです」というのは、説教を聞いたということです。
けれども、それは十分なことではないのです。
というより、そんな形の上でのことは問題ではないんですね。
救われることを自分のこととして本気で求めることが大事なんですから。
ですから、二度目にはこう言われてしまうんですね。
「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。
これが、「入ろうとしても入れない者が多い」という言葉の意味なんだと思います。
このたとえ話の中の人は、戸口が閉められてからですけれども、戸口のところまでは来たわけです。
そして、戸をたたいたんですね。
「開けてください」と。
ですからこの人も、「入れるものならいつか入ってみたいな」というくらいの気持ちはあったんです。
ですが、それでは足りないんです。
もっと本気で真剣に求めないと。
何しろこの人、聖餐式にあずかっていたし、説教を聞いてもいたんです。
戸が閉まる前に、もっと早くに来ることが本当はできたんじゃないですか。
それなのに、今の今まで神のもとに来ようとしなかった。
聖餐式にあずかっても、説教を聞いても、上の空だった。
結局全部、ひとごとだった。
自分のこととして真剣に受け止めていなかった。
だから、言われるんですね。
「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。
不義ですよね。
神様が招いてくださっているのに、何人でもそこに入れるのに、ぐずぐずして行こうとしなかったわけですから。
では、私たちはどのような人を模範にすればいいんでしょうか。
28節に何人かの人の名前が挙げられていますね。
「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」。
この人たちが、神の国に入っていると言われています。
この人たちが模範です。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、旧約聖書の創世記に名前が出てくる人たちなんですが、この人たちは、神様の言葉に応えて旅立った人たちです。
それは、安心・安全を保証された道を歩んだということではありません。
自分がこれからどうなるか分からない。
具体的なことは知らされていない。
それでも、神の示す道を、神と共に歩んだ人たちなんですね。
預言者たちも同じです。
神様の御言葉を聞いて、それを人々に伝えなさいと言われて、人々に伝えました。
この人たちも、言ってみれば、神の示す道を、神と共に歩んだ人たちなんですね。
それは、この人たちに罪がなかったとか、いつも立派だったということではありません。
罪を犯したこともあれば、失敗したこともありました。
ほとんどの預言者たちは、神の言葉を人々に伝えに行きなさいと言われた時、最初はそれを断っています。
どの人にも、罪や弱さがありました。
ただ、この人たちの歩みは、あの戸口の中での歩みだったんです。
この人たちは、神の言葉を自分のこととして真剣に受け入れたんです。
そして、あの狭い戸口をくぐったんです。
神の国、それは、神の支配とも訳すことができる言葉なんですが、神の示す道を、神と共に歩んだ。
言ってみればそれは、神の支配に入った、神の国に入ったということですね。
ですから当然、今は天国にいるんです。
そして、そのような人たちの数は限られていません。
29節でこう言われていますね。
「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」。
世界中から人が集まってくるんです。
その人々は、何か特別に良いことをしたわけではありません。
この人たちだって、罪や弱さがあることに変わりはないでしょう。
ただ、この人たちは、神様の招きに応えたんです。
自分に呼びかけられていることを真剣に受け止めて、それに応えて、神様の元に行き、神様と共に歩むという狭い戸口をくぐったんですね。
この招きは、イスラエルの人たちに最初に与えられていました。
アブラハムもイサクもヤコブも、イスラエル人の先祖です。
けれども、イスラエルの人々はなかなかこの招きに応えようとしない。
むしろ、後から招かれた異邦人たちの方が先にそれに応えて狭い戸口から神の国に入っている。
それが30節の言葉の意味ですね。
「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。
これは、私たちのことが言われているんですね。
後の人で先になったのが私たちなんです。
私たちはみんながみんな、アブラハムのようになれるわけではありません。
けれども、私たちは、イエス・キリストにつながっています。
キリストを通して、神の言葉を聞き、キリストを通して、神に招かれています。
何より、キリストは、私たちにつながっていることを約束してくださった方です。
そしてキリストは、誰よりも神の招きに応えて、神と共に歩んだ人です。
誰よりも、神様のご支配に、神の国に入られた方。
キリストにつながる私たちは、キリストにつながって、神の国にいるんです。
言ってみれば、キリストが、あの戸口を通ってくださったからです。
戸口の中に入ったからと言って、その先に続く道は、決して平坦なものではありません。
戸口の中に入ると、悩みも苦しみもなくなってすべてが楽になる、などということはありません。
私たちの罪や弱さもなくなりません。
けれども、この戸口の中に入ったことで、私たちは、神の国に、神様のご支配の内に置かれました。
そしてこの戸口は、入り口ではありますが出口ではないんです。
神の国には出口はありません。
何しろ、どんな力よりも強い神様のご支配なんですから。
私たちが出ようとしたって出ていくことはできません。
そうではなく、神の国に入ると、すべての道が神のみもとに近づく道になります。
アブラハムの人生がそうであったように、この道は決して平坦な道ではありませんが、すべての出来事を通して、神様がますます私たちをみもとに近づけてくださる、神の国の道はそんな道です。
祈っても祈っても、答えられないこともあります。
けれどもそれは聞かれていないということではありません。
後から必ず気づきます。
祈った分だけ、必ず、私たちは神様に近づいている。
そして、後から気づきます。
それも御心だったんだということですね。
私はあの時つらくて仕方がなかったけれども、別の角度から見ると、そこに御心が成っていたんだということです。
その道の果てに、神様は、宴会を用意してくださっている。
それが今日の御言葉ですね。
歩きづらい道の果てには、宴会が待っている。
いつか必ず私たちは、すべてのことを喜ぶことができるようにされる。
その、神の国の宴会場に向かって私たちは今、歩いているんです。
その時その時には、この苦しみの出来事にどんな意味があるのか分からないこともありますけれども、それは私たちに限界があるから分からないだけで、最後には必ず分かるようにされます。
それは、必ずしも私たちの思いが成ったということではないのかもしれませんが、自分の思いが成ったことよりも御心が実現したことを喜ぶようにされます。
宴会というのはそういうことです。
ですから私たちは、その道を、今日も、感謝をもって歩んでいきましょう。
どんな道でも、私たちには、神に近づく感謝の道なのです。
感謝の中に、生きていきましょう。
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