「イエスの嘆き」(ルカによる福音書13章31-35節)

【今週の予定】

●1月25日(水)加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●1月26日(木)家庭訪問(11:00~)、コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)

●1月29日(日)礼拝(10:30~12:00)、お茶会、ゴスペル・スクール(14:00~15:30)、掃除

★1月29日(日)の説教

説教者:豊川牧師

聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2章1節から18節

説教題:「キリストの謙遜を模範に」

ルカによる福音書1331-35

31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

 

 

また新しい人が出てきて、イエス様に話しかけていますね。

「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。

大変な知らせが伝えられました。

とうとう、ヘロデが動き出したんですね。

この人はイエス様がお生まれになられたときに王様だったヘロデ王という人の息子で、この人はイスラエルの北の方のガリラヤという地方を治めていました。

この人の父親のヘロデ王も残酷な人だったんですが、この人もやっぱりそうでして、この福音書の97節からのところにもこの人は登場してくるんですが、この人はイエス様にも洗礼を授けた洗礼者ヨハネという人を殺したんですね。

どうしてそんなことをしたのかというと、この人は自分のお兄さんの奥さんを横取りしたんですが、洗礼者ヨハネがそのことを良くないことだと言ったからです。

洗礼者ヨハネは正しいことを言ったんです。

それなのに、ただそれだけのことでヨハネを牢屋に入れて、最後には殺してしまうんですね。

この人は自分にとって都合の悪い人間は生かしてはおかないという恐ろしい人だったわけです。

そのヘロデが動き出しました。

今度はイエス様に目を付けたんです。

神の言葉を伝えているという意味で、イエス様も洗礼者ヨハネも同じです。

ヘロデにとっては洗礼者ヨハネと同じく、イエス様も都合の悪い人です。

まして、イエス様は人々から人気がありましたから、ヘロデはそれだけでもイライラしたでしょうね。

人々は今日、こんなことを言っています。

「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。

こういうふうに聞きますと、この人たちは親切な人だなあと思いますが、そうではありません。

イエス様はこの人たちに答えて、ヘロデのことを「あの狐」と呼んで、そして、あの狐に、こういうふうに伝えなさい、と言っていますね。

要するに、この人たちとヘロデはつながっているんです。

だからイエス様はこの人たちに、ヘロデに伝えなさいと言うんですね。

ヘロデとしては、「ここままだと殺されますよ」というふうに人に言わせて、イエス様を脅かして、イエス様に自分の土地から出て行ってもらいたいんですね。

それに対してイエス様は答えます。

「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。

こういうふうに答えました。

「三日目にすべてを終える」ということですから、すぐに終わりそうな気がします。

それも、「悪霊を追い出し、病気をいやし」というふうに言っていますので、要するに、イエス様のお働きは政治的な運動ではないということですね。

こういうことですから、ヘロデがこれを聞いたら、安心しそうです。

 

けれども、イエス様の話には続きがありますね。

「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。

イエス様はご自分の道を進んでいかれるんですね。

今日も明日も、その次の日も、ということですから、三日目にもその歩みは終わりません。

イエス様はこれからもずっと進んでいくんですね。

ただしそれは、この続きのところを読みますと、エルサレムで死ぬためなんですね。

十字架に向かっていくご自分の歩みを、ご自分で知っておられるんですね。

このあたりのところを読むと分かりますが、イエス様はご自分のことを預言者であると考えておられます。

預言者というのは神の言葉を伝える働きをする人のことですね。

この、預言者という働きをした人たちには殺される人が多くいました。

旧約聖書には何人もの預言者が出てきますけれども、たいていはそういう悲惨な目にあったんですね。

どうしてかというと、人は神の言葉を聞こうとしないからです。

聖書は、神の言葉を人が受け入れないという出来事を、何度も何度も描いています。

そのことが、今日の箇所にも記されていると言えますよね。

ヘロデは、神の言葉を伝えるイエス様を、こんなにも嫌がっているんです。

神の言葉を人は受け入れない。

それが聖書の言っていることです。

聖書に記される人の歴史は、人が神の言葉を受け入れないできた歴史です。

神の言葉であれ、人の言葉であれ、他の誰かの言葉は聞きたくない。

それが人間だと聖書は言うんです。

他の誰かの言葉というのは、多かれ少なかれ自分にとって都合の悪いものであることが多いですから、そんな言葉は聞きたくない。

それよりも、今の自分を守りたい。

他の誰かの言葉に、今の自分を揺るがされたくない。

聖書はそれが罪だと言っているんですが、そういう自己中心的な考えが人間にはあるんですね。

とにかく実際に、神の言葉を語る人たちは殺されてきたわけです。

そして今、イエス様も一人の預言者として、危ない目にあいそうになっているんですね。

 

ただここでイエス様は、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」と言います。

そうなんでしょうか。

実際には、預言者がみんなエルサレムで死んだということはありません。

ここで言うエルサレムというのは、「神の民の真ん中」というくらいの意味なんでしょうね。

イスラエルの民は神が選んだ神の民であるわけですけれども、そのイスラエルの首都がエルサレムで、そこにはイスラエルにただ一つの神殿もあるわけですから、エルサレムは神の民の中心です。

それでも、そこの人たちも、神の言葉を本当には受け入れないできたんですね。

だから、そこに出て行って、自分は死ぬんだ、とイエス様は言うんですね。

神の言葉を受け入れない人たちの真ん中で、その人たちの罪を代わりに背負って、自分は十字架にかかるんだ、と決めておられるんです。

そうなりますと、さっきのイエス様の言葉にあった「三日目」という言葉の意味が分かってきますよね。

この三日目、という言葉は、三日目に復活するということも示しているんだと思います。

キリストは十字架につけられましたが、三日目に復活しました。

人の罪を背負い、その罪に対する罰を代わりに受けて死んでくださって、その死に打ち勝って復活した。

そうでなければ、キリストの働きは無意味なものになってしまいます。

人は、神の言葉を聞かないんですから。

いくら神の言葉を語っても、それだけでは無駄です。

キリストが私たちに代わって死んでくださり、復活してくださった。

キリストの力は死の力よりも強い。

どんな力よりも強い。

人の心は固く閉じているわけですが、キリストの力はそれよりも、何よりも強い。

だからこそそこに、人が神の言葉を受け入れていく道が開かれていくんだと思いますね。

そう考えますなら、キリストが「三日目にすべてを終える」と言う時のその「終える」という言葉、これは、「完成する」という言葉なんですが、その意味が分かりますね。

キリストは、十字架と復活によって、その強い力で、神のもとからさまよい出た人を神のもとに取り戻してくださるそのお働きを完成してくださるんですね。

 

けれども、そのように命を懸ける覚悟でイエス様は働いてくださっているのに、神の民の方はどうか。

預言者を殺す者なんですよね。

イエス様は言います。

「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」。

これはもう嘆いておられるんですよね。

イエス様にとっては神の民は鳥の雛のようなもの。

だから一生懸命ご自分の羽の下に雛を集めようとするんだけれども、こっちの雛を羽の下に置くと、あっちの雛は泣きながら好き勝手にそこいらへんを走り回っている。

その雛の方に行こうとすると、羽の下に入れたはずの雛も走り出していってしまう。

そんな感じでしょうか。

めん鳥は何匹もいる雛を集めようと一生懸命なんですけれども、雛たちは親の心を知らないで、じっとしていない。

「お前たちは応じようとしなかった」と言われているのはそういう感じのことでしょうね。

ここでつかわれている、めん鳥の「羽の下」という言葉は、聖書の専門用語です。

「羽の下」という言葉は、神様の守りを意味する言葉なんですね。

「集める」というのも専門用語です。

今日の個所の前の個所に、「人々は、東から西から、また南から北から来」る、という言葉がありますけれども、そんなふうにして神様が救われる人々を集めてくださる、という意味でつかわれる言葉なんですね。

イエス様は人々を救おうとして、神の守りのもとに置こうとして、もう一生懸命に走り回っている。

それなのに雛たちは好き勝手に走り回って、自分のもとにじっとしていない。

そのことを嘆きながらも、それでもなお、めん鳥は雛をあきらめることができない。

見捨てることができない。

もうそれが本能であるかのように、雛たちのことしか考えられなくて、走り回っている。

嘆きながらも、必死で走り回って自分のもとに集めようとしている。

それがイエス様のお気持ちなんでしょうね。

 

考えてみれば、イエス様は、そんなタイミングで、「出ていったほうがいいですよ」と言われたんですよね。

それはある意味、イエス様にとって都合の良い言葉ではなかったかと思います。

普通の人だったら、「じゃあもういいか」となってしまってもおかしくはありません。

いくら頑張ってもどうにもしようがないわけですから。

けれども、人からどんな言葉を投げかけられようと、イエス様はご自分の道を進むんですね。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」。

この「進まねばならない」という言葉には、それを神が定めたという表現が含まれています。

イエス様は神様の御心の通りに進んでいくんですね。

人からどんな言葉を受けても、そこで止まってしまうことはない。

イエス様は人からのどんな妨害があっても、決められたとおりに救いの業をなしていってくださる。

強い力で、前に進んでくださる。

そして、神の言葉を受け入れない人々のところに来てくださった。

預言者を殺しつづけてきたこの地上の人間のところに来てくださった。

そして、命をささげてくださった。

私たちのために嘆きながら、命を注ぎつくしてまで、私たちを愛してくださった。

それによって、預言者を殺してきた歴史は終わるんですね。

文字通り命がけの、命を注ぎだす、血を流し、肉を切られてもなお私たちをあきらめないイエス様の思いを前にした時、私たちの心に神の言葉が記されていくんです。

だからいま私たちはこうして、神の言葉を聞いているじゃないですか。

私たちは今、羽の下に集められているんですね。

私たちはその場所から勝手に飛び出して行ったりしない。

この場所で、神の翼の下に集められて、守られている。

それが礼拝なんです。

 

礼拝の中で、私たちは賛美します。

今日の箇所の言葉で言うと、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」ということですね。

これは讃美歌です。

これは旧約聖書の詩篇に収められている賛美なんですが、イエス様がいよいよエルサレムに入られた時、それは、この福音書で言うと19章のことになるんですが、弟子たちはこの言葉で賛美しました。

けれども、賛美したのは弟子たちなんですね。

この福音書には、エルサレムの人たちが賛美したとは書かれていません。

むしろ、エルサレムの人たちは賛美をやめるように言うんですね。

これ、弟子たちのようになりなさい、ということですよね。

今日の最後のところで、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」と言われています。

「主の名によって来られる方」というのは救い主のことです。

しかし、エルサレムの人たちは救い主を見ることがなかった。

イエス様のことは見たんです。

見たんですが、救い主とは見なさなかった。

エルサレムの人たちはイエス様を十字架に付けた。

この人たちは、預言者を殺す歴史の中にいたんです。

今日の箇所にも書かれていることですが、イエス様は、ご自分がそうなることをご存知でした。

すべてご存知の上で、人の心の闇の中に飛び込んできてくださった。

そして、人の心の闇と真正面から対決してくださったんですね。

たとえ脅されても、進みつづけました。

そして、エルサレムでも、人の心の闇と真正面から向き合い、人々の罪を全身で受け止めるようにして、十字架に上られたのです。

イエス様はそんな方なんです。

何としてでも人を救いたい。

神の愛のもとに取り戻してやりたい。

そのために、嘆きながら必死で走り回ってくださるような方なんです。

ですからこの言葉、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」、これは、滅びの宣言なんかではないんですね。

滅びの宣言なんだったら、こんな言い方はしません。

そうではなく、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時、救い主であるわたしを見ることになる」。

それがイエス様のお気持ちですね。

そして、私たちはそう言っているんじゃないですか。

私たちは弟子たちと同じことを言っているんです。

礼拝の中で、イエス様をほめたたえているんじゃないですか。

私たちは、神様の羽の下に集められた雛なんです。

そして、その羽の下にじっとしている。

守られている。

愛されている。

どうぞそのことを感じてみてください。

私たちは一人一人みんな、イエス様が血を流しながら、肉を切られながら、必至で走り回って集めてくださって、ここにいるんですね。

私たちのためにどんなことでもしてくださる神様と、私たちは一緒にいる。

どうぞそのことを感じてください。

 

そしてもう一つ、イメージしてみてください。

イエス様は今日も、神様の御心に従って、歩んでおられます。

どんな力でも留めることができないような、力強い歩みで決められたご自分の道を進んでおられます。

その歩みが、私たちの教会の歩みでもあります。

昨年も、私たちの教会は成長しました。

イエス様の力強い歩みが見られた一年でした。

今年も、私たちはそのイエス様と共に歩みたいと思います。

力強く、成長していきたいと思います。

大丈夫です。

御心は必ずなります。

主の名によって来られる方に、祝福がありますように。