「へりくだる者は高められる」(ルカによる福音書14章1-14節)

【今週の予定】

●2月6日(月)牧師週休日
●2月8日(水)監督宣教師と牧師の懇談会(17:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●2月6日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)、指導者訓練研究会会議(お茶の水、17:40~21:00)
●2月11日(土)信教の自由を守る日の集会(東京教会、10:30~12:00)

●2月12日(日)礼拝(10:30~12:00)、お茶会、ゴスペル練習(13:00~14:30)、委員会(13:00~15:00)、掃除

★2月12日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章15節から24節

説教題:「神の国の宴会」

ルカによる福音書141節から14

1安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。3そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」4彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。5そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」6彼らは、これに対して答えることができなかった。

7イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」12また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 

 

今日の場面も安息日の場面ですね。

この日、イエス様は、ファリサイ派のある議員の家に招かれました。

食事に招かれたということですね。

それも、招いた人は議員であるということでした。

偉い人の家に招かれたわけです。

この日は安息日でしたから、もしかしたら、イエス様は、この日、会堂で説教をなさったのかもしれませんね。

それに対して、ファリサイ派の議員がお礼にということで、イエス様を招いたのかもしれません。

それは自然なことですね。

一緒に礼拝をした人たちが、一緒に食事もする。

御言葉を聞いて、神様に結ばれて、神様に結ばれた者同士、交わりをする。

素晴らしいことです。

ただ、この議員はファリサイ派の議員ですね。

ファリサイ派というのはユダヤ教の権力者でした。

この人たちは、自分が人々を指導してやっているんだと考えていました。

この人たちは人々に対して支配者としてふるまっていました。

けれども、イエス様が現れてきて、人々がみんなイエス様の方に行ってしまったんですね。

ファリサイ派よりもイエス様の方が人々からの人気が高くなってきた。

ですので、この人たちはイエス様のことを良く思っていなかったんですね。

それなのにどうしてイエス様を食事に招待したのか。

イエス様を陥れるためです。

この人はイエス様を陥れる罠を仕掛けています。

ファリサイ派の人たちは水腫を患っている人を連れてきていました。

そして、イエス様にその病気を治させようというんですね。

治してやってほしいから連れてきたのではありません。

この日は週に一度の安息日です。

安息日は文字通り安息する日なんですが、何のために安息するのかというと、心を神様に向けるためです。

心を神様に向けるために、仕事をしない日、それが安息日でした。

ですので、今日、イエス様がこの人をいやしたとしたら、治療という仕事をしたことになってしまって、イエス様は安息日のルールを破ったことになります。

もしそうなったら、その時、イエス様を非難してやろう、という考えなんです。

ですから、この水腫の人は、食事に招かれたということではないんですね。

ファリサイ派の人たちはこの人をイエス様を陥れるための道具としてしか見ていないんです。

それは、そもそもこの病気にかかった人を、ファリサイ派の人たちがどういうふうに見ていたのかを考えても分かります。

この水腫というのは、例えば心臓などに問題があって、体にたくさんの水が溜まってしまって、体が腫れあがったようになる病気なんだそうですが、ファリサイ派の人たちは、この水腫のことを、不道徳な生活をしている人に与えられる報いだと考えていたんです。

そもそも、そういうふうに見なしている人を家に呼ぶのは不自然なことですね。

ファリサイ派の人たちは、イエス様を陥れるための道具として、この人をここに連れてきたのです。

そして、イエス様の前に立たせたんです。

これは本当に腹が立つことですけれども、ファリサイ派の人々は、この水腫の人のことを、もう、人間扱いしていなかったということですね。

この人が今までどんな苦しい思いをして生きてきたか、人から軽蔑されて、避けられて、どれほどつらい思いをしてきたか、そんなことは少しも考えていないんです。

ただ、道具としてしかこの人を見ていない。

自分たちの権威を守るために、イエス様を罠にはめたい。

そのために、病気で苦しんでいる一人の人を、道具にするんですね。

人間というものは罪深い者だ、自分中心にしか物事を考えられないものだと聖書は言いますけれども、本当にこれが人間のやることでしょうか。

こういうことを誰かが考えて、それを実行するのに、誰も反対しなかった。

これは普通のことでしょうか。

私がイエス様だったら大声をあげて怒鳴りつけているところなんですけれども、イエス様は人々の考えを見抜いて言いました。

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。

イエス様は水腫の人の手を取りました。

今まで誰も触らなかっただろう、その手を取りました。

手を取らなくても、イエス様はいやすことができるはずなんですが、手を取りました。

そして、病気をいやしてくださったのです。

続けて、言います。

「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」。

この水腫の人は、井戸に落ちたような状態だったんです。

自分の力ではい上がることができなくて、もう半分、死んだようなものだったんですね。

人々から冷たい目で見られて、避けられて、人間扱いされないで、死んだようなものだった。

人々の罪に、まったく支配されてしまっていたんです。

そのことを良く分かって、イエス様はいやしてくださったんです。

罪の支配から解放してくださった。

誰もまともに理解しようとしなかったこの人を、イエス様だけが、手を取って、いやしてくださった。

そしてイエス様はこの人を家に帰したんですね。

この人は、無理やり連れてこられていた人ですから、もうここにいなくていい、後は私が話しておくから、ということでしょうね。

 

続いてイエス様は、婚宴の話をなさいました。

結婚式の宴会に招かれたら、どこに座るべきか、という話ですね。

上席ではなく、末席に座りなさいということですね。

そうすれば、招いた人が後からやってきて、もっと上席に進んでくださいと言ってくるから、そうしなさい、最初は末席に座りなさいという話です。

そして、11節でこう言われます。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

なるほど、そういうことは実際にあるでしょうね。

しかし、末席に座りなさい、と言われても、どうでしょうか。

今日もそうですが、私たちは末席に座りたがるんですね。

なるべく奥の方の席に座りたがる。

どんなところに招かれても、たいていの場合、最初から上席に座る人というのはあまりいないのではないかと思います。

その意味でこの話は、別に聖書に聞かなくたって、私たちが最初から良く知っていることです。

けれども、この話、ただそれだけの話として理解するべきではないように思うんですね。

何しろ、イエス様は今、婚宴の話をなさっている。

イエス様が婚宴の話をなさるとき、それは、神の国の話なんですね。

神の国の国という言葉は「支配」とも訳すことができる言葉なんですが、神様のご支配は人間の罪の支配とは正反対です。

結婚式の宴会のような素晴らしいところなんだということですね。

その神の国では、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

これはどういうことかというと、その次に、イエス様が今度は招いてくれた人に対してお話になられますが、その話を読むと分かります。

こちらの方の話は、さっきの話と違って、私たちの常識をひっくり返すような話です。

こんなことが言われています。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」。

これは一体どういうことでしょうか。

私たちは普通、友人や、兄弟や、親類を招きます。

もしかすると、近所の金持ち、有力者のような人を招くことがないとも言えません。

しかし、イエス様は、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさいとおっしゃるんですね。

どうしてかというと、この人たちはお返しができないからだ、と。

つまり、基準になるのはお返しができるかできないかなんですね。

考えてみれば、今日、イエス様にいやしていただいた水腫の人がそうでした。

この人は、何もない者として、本当に何もない状態で、イエス様の前に立ったんですね。

そして、その人に、神の国が、神の支配が及んでいって、罪の支配から解放された。

そのような人こそ、神の国に招かれるのにふさわしいんだと言うんですね。

考えてみれば、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、こういう人たちはみんな、イエス様が招き寄せていやしてくださった人たちですね。

神の前に何もない者、何も持たない者。

だから、神にお返しすることが何もできない人。

自分には何か神様にして差し上げることなんて何もできないと分かっている人。

神の前に自分がどのようなものであるのかをきちんと分かっている人。

そういう人が、神の国にふさわしいんですね。

そう考えますと、高ぶるとかへりくだるというさっきの言葉の意味が分かってきますね。

高ぶるというのは、自分が神の国にふさわしい人間で、たとえば、神様に何かして差し上げることができる、神様に対してお返しができると思っているということです。

それに対して、へりくだるというのは、自分は罪びとで、神様の前に何も良いものを持っていない、だから、神様に何もお返しができないと分かっているということです。

そして、神の国では、「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」んですね。

神の国に自分が本当にふさわしいのだろうか。

そのように思う人のところには、招いた人がやってきます。

この、招いた人というのは神様のことですね。

神様が、「もっと上席に進んでください」とおっしゃってくださいます。

それに対して、自分こそ上席にふさわしいと思っているなら、その人のところにも神様はやってきて、末席に移らされることになります。

これはそういう話なんですね。

この世で私たちが末席の方が好きだから、それはそれでいいんだというような話ではないんです。

神の国で神様が、どういうふうに私たちの席を決めてくださるのかという話なんです。

私たちが席を決めるんじゃないんですね。

招いてくださった神様が私たち一人ひとりにふさわしい席を用意してくださるということなんです。

そしてその時に大事なことは、私たちが神様に対して何も持たない者として神様の前に立つということなんですね。

そうであるなら、神様は私たちに上席をすすめてくださいます。

これをもし、この世の話だとストレートに考えてしまうと大変ですね。

私たちがこの話をそのように受け止めて、わざわざ自分から末席に座ったとします。

けれどもその時、私たちの心の中に何があるか。

早く誰か声をかけてくれて、自分を前の方に案内してくれないかな、と思うに違いないんですね。

それが自分に対する正当な評価だ、と考えてしまいそうです。

それでは、心の中に本当にあるものと正反対の行動をしていることになります。

そうであったのでは私たちは、ファリサイ派の人たちと同じになってしまいますね。

ファリサイ派の人たちは、心の中にあるものと正反対の行動をとって、今日、イエス様を食事に招いたんでした。

それに対して、水腫の人はどうだったでしょうか。

この人はどんなことを考えていたでしょうか。

イエス様の前に立っていれば、イエス様が自分をいやしてくれる。

そうなったら、一番の上席に座って、自分を軽蔑しているこの人たちを見返してやるんだ。

そんなことを考えていたでしょうか。

そんなはずはないんですね。

この人は、見せかけでへりくだっているのではありません。

本当に、低いところにいる。

何も持たずにイエス様の前に立っている。

もしかすると、イエス様も、ファリサイ派の人と一緒になって、こういう病気になるということは不道徳の報いだと言わないとも限らないのに、何も言わずにただ、立っている。

立ち尽くしている。

人の前での、行いの上でのへりくだりではなくて、神の前での、心の中でのへりくだり。

それが御心にかなうことなんですね。

 

だから今日、イエス様は、おっしゃるんです。

自分が宴会を開く時には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。

つまり、神様のしておられることにならって、同じようにしなさい。

あなた自身、神の前に何も持たない者であることを良くわきまえて、それなのに神の国に招かれたことをよくよく考えて、あなたも、神の前に何も持たない者を招きなさい。

神様はあなたに見返りなど最初から期待しておられない。

あなたも、どのような人と交わるにせよ、金持ちと交わるにせよ、貧しい人と交わるにせよ、見返りを期待するのはやめなさい。

自分自身、何もお返しができない者であるのに、神の国に招かれているんだということを思い起こしなさい。

そういうことですね。

 

そして、イエス様は、どこか高いところからこのことをおっしゃっておられるんじゃないんですね。

イエス様ご自身、誰よりも低くなられた方です。

神の独り子であるのに、私たちのために、私たちのところに降りてきてくださった。

そうして、私たちと苦しみ悲しみを共にしてくださった。

そのようにして、私たちと共に歩んでくださった。

どのような人をも愛して、受け入れてくださった。

それは、一番低いところに身を置いておられたからこそ、できることですね。

そのイエス様と同じようにするのなら、私たちには報いがあります。

最後に言われていますね。

「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

「正しい者」、「神の前に正しい者」とは、神の前に何も持たない者のことです。

そのような御心にかなう人が復活する時、世の終わりに神の国に入れられる時、私たちも共にそこに入るのです。

 

この世は罪に支配されています。

また、私たちの内にも罪があります。

けれども、勇気を出しましょう。

神様の支配は罪の支配よりも強いんです。

それを私たちは今日、見たんです。

考えてみれば、今日、ファリサイ派の人たちはイエス様に反論することもできたはずですね。

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。

そうイエス様に言われた時、ファリサイ派の人たちは、「許されていない」と答えることもできたはずです。

あるいは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」、そうイエス様に言われた時、ファリサイ派の人たちは、「それは命にかかわる場合だからで、それだったら律法でも許されているけれども、この人の病気はそうではない」と答えることもできたはずですね。

けれども、誰も何も言うことができなかった。

神の恵みの支配の前では、罪の支配は沈黙するんです。

神の恵みの支配よりも強い力はないんです。

イエス様と共に始まったその恵みのご支配に、私たちはすでに入れられています。

私たちは報われる。

私たちの苦しみも悲しみも思い悩みも、報われます。

手ぶらで、神の国に入りましょう。