今週の説教「神の国の宴会」(ルカによる福音書14章15-25節)

【今週の予定】

●2月14日(火)牧師週休日
●2月15日(水)牧会事例研究会(16:00~17:00)、加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●2月16日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)

●2月19日(日)礼拝(10:30~12:00)、お茶会、委員会(13:00~14:00)、掃除

★2月19日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章25節から35節

説教題:「自分の十字架」

ルカによる福音書1415-24

15食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。18すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。20また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。21僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』22やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。24言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 

 

イエス様の話を聞いて、一人の人が言っていますね。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。

この人はイエス様の話を喜んで聞いていたんでしょうね。

イエス様は今日の場面のすぐ前のところで、神の国、天国のことを宴会なんだとたとえて言いましたけれども、それをとても喜んで聞いたんですね。

神様と一緒に宴会ができるなんて、そんな素晴らしいことはない。

この人はそんなふうに思って、喜んだんでした。

その気持ちは分からなくはありません。

イエス様は神の国のことを良く宴会にたとえますけれども、実は旧約聖書には神の国が宴会だと書かれているところはほとんどないんですね。

そもそも、聖書は、「今をどのように生きるべきか」ということを良く教えてくれるわけですけれども、天国とか地獄とか、そんなことはあまり書かれていないんですね。

ですので、今まであまりきちんとイメージできないでいた神の国というのは、実は宴会なんだという話を聞いて、この人はうれしくなったわけです。

 

けれども、それに対してイエス様はどうだったでしょうか。

この人が喜んでいるのを見てイエス様も喜んだのかというと、そうではなかったんですね。

この人には分かっていないところがあったからです。

神の国について、この人が、宴会であると聞いて喜んでいる。

それはいいんです。

ただ、この人には分かっていないことがある。

だからここからイエス様はまた話を続けるんです。

 

それが、「大宴会」のたとえですね。

ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招きました。

そして、予定の時刻になったので、招いておいた人のところに僕(しもべ)を送りました。

「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせたんですね。

この時代の宴会はこんなふうに、前もって招待することを伝えておいて、その日、その時刻になったらもう一度声をかけるというかたちだったようです。

招いた人は、その通りにしたわけですね。

ところが、招かれていた人たちは次々に断るんですね。

「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」。

「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」。

「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」。

こういう理由で断るんですね。

しかしこれ、断る理由として、どうでしょうか。

この人たちは、これより前に、前もって、招待を受けていたんです。

この日に宴会があるということは知っていたんです。

そして、その時は、行きますよという返事をしていたんです。

それなのに、こちらの事情が変わりましたからということで断るんですね。

自分の都合を優先させるんですね。

しかも、畑を買ったということも、牛を買ったということも、妻を迎えたということも、そのためにどうしても宴会に行くことができないようなやむを得ない理由ではないですよね。

本当に自分勝手な理由で断っているんです。

三人の内の二人の人は、それでも、「どうか、失礼させてください」という言葉をつかっていますけれども、三人目の人はそれすら言わない。

本当に失礼な話です。

そして、ここで気が付くことなんですが、この3人には共通点がありますね。

一つ目は、先ほどから申し上げている通り、理由にならないようなことで自分を優先しているということです。

もう一つは、この人たちの理由にならない理由の中身です。

三人とも、「増えた」と言っているんですね。

財産が増えたとか、家族が増えたとか、そういうことを言っているんです。

これ、基本的にどれも良いことですよね。

財産が増えるのも家族が増えるのも良いことです。

ただ、この人たちは、今の自分に完全に満足しているんですね。

だから、神様が招いてくださる宴会に行くよりも、自分の増えたものを見に行って、確かめて、そこにいたい。

そのようにして満足感を自分で味わいたい。

自分で自分を満足させたい。

自分で自分を満足させることができれば、それで十分だ。

そういう考えがこの人たちにはあって、だからこそこの人たちは皆、自己中心的になってしまっているんです。

聖書ではそれが罪だというんですが、自己中心になってしまって、理由にならない理由で招きを断るんですね。

断られた主人は怒りました。

そして、言うんですね。

「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」。

僕(しもべ)はそのとおりにしましたが、まだ席が余っています。

そこで、主人は言います。

「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。

このようにして、用意しておいたたくさんの席をいっぱいにするんですね。

 

このたとえ話で、イエス様は何を言いたかったんでしょうか。

一つには、神の国の宴会に招かれているのに、それを自分から断ってしまう人がいるということですね。

自己中心的な考えを持つということは、神様の招きを断ってしまうことなんだということなんです。

それに対して、招かれることになったのはどんな人たちだったか。

「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」ですね。

この人たちは、断った人たちとは違って、自分で自分を満足させることができない人たちですね。

つまり、自己中心的な考えで神様の招きを断るような人ではないんです。

招かれた時に、自己中心的になれないような人たち。

大事なのはそこですね。

大事なのは、何かが不自由だということではありません。

大事なのは、自分で自分を満足させようとして、自己中心的になってしまわないことなんです。

先週の箇所ですが、14章の11節で、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われていました。

へりくだるというのはどういうことだったかというと、神様に対してお返しができない、自分には何も神様にして差し上げられることはない、ということを分かっているということでした。

神様の前では、自分は何も持っていない。

本当に裸の存在だ。

そのことが分かっているということ。

それが、へりくだるということでした。

そういう人を神様は良い席に座らせてくださるんですね。

ところが、今日、神様の誘いを断った人たちはどうだったか。

みんな、自分が何を持っているのかということを主張しているんですね。

そして、こっちの方がいいんだ、こっちの方が大事だと言うんですね。

これはもう神様の目には高ぶっているということです。

大事なのは、神の前では、自分は何も持たない者だということを分かっていることですね。

そして、それ以上に大事なのは、自分も神様に招かれていることに気付くことですね。

イエス様が今、こういう話をなさっているのは、まず、それに気付いてほしいからなんだと思いますね。

今日の最初にある人がイエス様にこういうふうに言っていたじゃないですか。

「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。

こんなふうに言っていましたね。

この人は、神の国は宴会のようなものだと聞いて喜んでいるわけですが、こういうふうに言うっていうことは、この人は、自分が招かれているとは思っていないですね。

この人が言っているのは、「招かれた人は幸いですね」ということですね。

もちろんそれはそうなんですが、自分も招かれていると思っているんだったら、こんな言い方はしませんね。

それに対してイエス様は、招かれているのに断ってしまう人がいるという話をなさったんでした。

招かれているんですね。

自分が招かれているとは思っていないこの人も、実は招かれているということです。

だから、その招きを断らないように、という話をなさるんです。

神の招きを人ごとのように考えてはいけない。

そんなふうに考えているなら、自分中心の考えでその招きを断ってしまうことになるかもしれない。

そうならないように気をつけなさい。

自分も招かれているんだと自覚しなさい。

これが、イエス様の言いたいことなんですね。

 

実際に宴会の席に着いたのは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」でした。

神様の前に何も持たない人たちが招かれました。

高ぶる人は自分から断ってしまって、へりくだる人が席に着きました。

しかし、それだけではないですね。

席はまだあるんですね。

そこで、主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ」と言うんですね。

これ、すごいことですよね。

もう招きにこたえてくれる人なら誰でもいいっていうことですよね。

そうです。

誰でもいいんです。

どうせ私たちはみんな、神の前には何も持っていない者なんですから。

みんな同じです。

だから、大事なのは、断らないこと。

それだけなんですね。

断らないなら、大丈夫なんです。

そのためには、自分が神の前に何も持っていない者なんだということを自覚していればいいんですね。

それなら大丈夫です。

何しろ、今日の話でも分かりますが、神の国は、私たちが自分の努力で入るところではないんですね。

神様に招かれるところなんだということですよね。

そして、神様は、どんな人でもいいからとにかく招きたい、断らない人ならもう誰でもいいと思っておられるんです。

そして、一人でも多くの人を招くために、大きな家にたくさんの席を用意してくださっているんですね。

神様は、私たちが滅んでしまうことは望んでおられないんです。

一人でも多くの人に、天国の宴会を味わってもらいたい。

そのために、「無理にでも」人を連れてきてくれと言っているんですね。

「無理にでも」です。

来たい人は来てくださいとかいう感じじゃなんですね。

どうしても来てほしいんです。

私たちがたとえ行きたいと思っていなくたって、神様は来てほしいと思っておられるんです。

その招きを自分の都合で断るのなら、それは本当にもったいないというか、申し訳ないことですよね。

招きにこたえたいと思います。

では具体的にどのように招きにこたえるのか。

それが、まず第一には、洗礼を受けるということだと思います。

罪を洗い流されて、罪に死んで、神と共に生きるようになること。

それはキリストの地上での最後の言葉にもありますね。

すべての人に洗礼を授けなさい。

望む人には誰にでも授けてあげなさい。

キリストも、一人でも多くの人が、神と共に生きて、神の国に入ることを願っておられるんです。

そして、洗礼を受けた人は聖餐式に加わります。

聖餐式というのは私たちの教会では月に一度礼拝の中で行われていますけれども、キリストが弟子たちと一緒に最後に食事をした、その食事を私たちも礼拝の中でするんですね。

キリストは最後の食事のすぐ後で十字架につけられて、肉を裂かれて、血を流すことになるわけですけれども、その、裂かれた肉が聖餐式のパンなんですね。

流された血が聖餐式のぶどうジュースです。

キリストが十字架にかけられたことを記念して、パンとぶどうジュースをいただくんですね。

そのようにして、キリストが私たちの罪を背負って、罪に対する罰を代わりに受けてくださった、肉を裂かれ、血を流してくださったことを記念するんです。

罪という言葉は原文では的外れという言葉なんですが、今日の場面でも見ました通り、自己中心的になって、的外れなことを言って、神様を拒否する、そういう性質が人間にはあるんだと聖書は言うんですね。

その罪に対する罰をキリストが受けてくださった。

そのようにして、神に背く罪びとでも、神の国に入れられる道を開いてくださった。

そのことを思い起こして、パンとぶどうジュースをいただくんです。

キリストが招いてくださる食事の席に着くんです。

それは、神の国の宴会を試食するようなものでもあります。

これはキリストが最後の夜におっしゃっておられたことですけれども、「神の国で新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言ったんですね。

これは、「神の国の宴会で、またあなたと食事がしたい。一人で宴会の席に着きたいわけじゃない。あなたと一緒に食事がしたいんだ。それまで、あなたを待っているよ」ということです。

キリストも、私たちに神の国の宴会の席についてほしいと強く願っておられるんですよね。

だから、今日のたとえ話でいうと、主人が神様、その僕(しもべ)がキリストですけれども、キリストは一生懸命神様の言うとおりにして、人を集めているじゃないですか。

当然ですよね。

十字架にかかって、命を投げ出してまで、道を切り開いたんですから。

一人でも多くの人に来てほしい。

神様からしてもそうです。

今日のたとえではキリストは僕(しもべ)ということになっていますけれども、キリストは神の子です。

自分の子どもを十字架につけてまで、私たちが自分のところに来ることを願っておられる。

だからもう、「無理にでも」なんですね。

命がけなんですから、どんなことをしてでも、「無理にでも」招きたいんです。

けれども、断る人がいて、だから、まだまだ席があるんだということですね。

13章の23節で、イエス様に対して、「救われる者は少ないのでしょうか」と質問している人がいました。救われる人が多いのか少ないのか。

それを今日の個所から考えて答えてみることもできますね。

「席はたくさんあるけれども、席に座っている人はまだまだ少ない」ということですね。

だから、神様は言うんですね。

「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。

そんな気前のよい神様に、私たちは招かれています。

もう断らない人だったら誰でもいいんだ、と。

とにかく一人でも多くの人を、と願っておられる。

命がけで、必死になって招いておられる。

こんな神様なんですから、天国の宴会のその食事の内容というのはどんなものなんでしょうね。

そこらへんの結婚式の食事なんかとは比べ物にならないような内容なんだろうと思いますね。

そのことを楽しみにしていましょう。

そのあたりが、私たちにとって、ある意味一番ふさわしいことなのかな、と思います。

何しろ、町中で、そこら辺にいる人を無理やり連れてくるという感じなんですから、立派な服を着ていかなきゃいけないということはないでしょうし、そもそも、私たちがどんな人間なのか、というのは全く問題にされてないですね。

喜んで出席させてもらいましょう。

それだけで神様ももう大喜びですよ。

神様が望んでおられることは他に何もないんですから。

ご祝儀なんかも持っていく必要はありません。

私たちは、神の前に何も持たないんですから。

ただ、感謝して、感謝だけをもって、神の国に入りましょう。