今週の説教「自分の十字架」(ルカによる福音書14章25節から35節)

【今週の予定】

●2月20日(月)牧師週休日、東部中会・対ミッション委員会会議(19:00~20:00)
●2月21日(火)火曜礼拝(9:00~10:00)
●2月22日(水)加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●2月23日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●2月25日(土)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)

●2月26日(日)礼拝(10:30~12:00)、食事会、学び会(13:00~13:45)、ゴスペル・スクール(14:00~15:30)、掃除、イースター演劇に向けての劇団稽古(16:00~19:00)

★2月26日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章1節から9節

説教題:「人を探す神」

ルカによる福音書1425-35

25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

 

ここまでのところでイエス様の話したことが多くの人に喜ばれたようですね。

今日の最初のところを見ますと、大勢の群衆が一緒について来たということですね。

けれどもここで、イエス様は振り返って、人々の方に向かって、話し始めました。

これを聞いて人々はどう思ったでしょうね。

何も考えずに聞いていると、ものすごく厳しい、厳しすぎる言葉です。

多分、皆さんの中にも、そう思う人はたくさんおられると思います。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。

最初のところで、いきなりこんなことが言われています。

せっかくついてきた人たちに対して、「こうでないなら、私の弟子ではありえない」なんて言うんですね。

これを聞いた多くの人は、「じゃあもう私は弟子にはなれないということなんだな」と思ってしまったかもしれません。

そして、後の方の33節でも同じ言い方がなされています。

「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。

こんなことを言われたら、もう無理だ、という感じになってしまってもおかしくありません。

 

けれどもこの言葉を、この日本語の表現そのままに受け取る必要はないんですね。

まず、最初のところで、家族も自分の命も憎めと言われていましたが、これなんてもう、そのまま受け取るとおかしなことになりますよね。

何しろ、旧約聖書の十戒に、「あなたの父母を敬え」と言われているわけなんです。

イエス様が聖書と逆のことを言うはずがありませんから、ここに出てくる憎みなさいという話は、文字通り憎むということではありません。

これは、ヘブライ語の表現の仕方なんですね。

片方を強調するために、もう片方を完全に否定するという表現の仕方がヘブライ語にはあるんですね。

ですので、完全に否定しているように見えても、そういうふうにしなさいと言うことではないんですね。

片方が優先で、もう片方がその次、二番目、そういう話なんですね。

つまり、ここでイエス様のおっしゃりたいことは、家族を憎め、自分の命を憎めということではありません。

そんなことを私たちにさせたいわけではもちろんないんですね。

そうではなくて、家族よりも、自分の命よりも、イエス様の弟子であることの方を大事にしなさい、それが弟子であるということなんだ、ということなんです。

 

33節の、自分の持ち物を一切捨てなさいという話も文字通りに受け取る必要はありません。

大体、実際にイエス様の弟子になった人も、自分のものを一切捨てるなんてことはありませんでした。

たとえば、弟子のペトロは、漁師だったんですが、そこのところのことが聖書には、「すべてを捨てて」イエス様に従ったと書かれていますけれども、文字通りの意味では捨ててないんですね。

イエス様が十字架にかけられた後、ペトロがいったん自分の家に戻って何をしたかと言うと、漁をしてるんです。

本当に文字通りすべてを捨ててしまっていたんだとしたら、もう帰る家もないわけですし、船もないはずじゃないですか。

でも、そうではないんですね。

捨てたと書かれているのに、家に戻って漁をしているんです。

だからこれも、文字通りそうしなさいと言う話ではないんですね。

自分の持ち物を一切捨てなさいというのは、文字通りそうしなさいという話ではないんです。

ではどういう意味になるのかというと、自分の持ち物、というのは、言ってみれば私たちが頼りにしているものですよね。

私たちは、それが頼りになると思っているから、物とかお金とかを持つんです。

だから私たちも皆、多かれ少なかれ自分の持ち物に頼って生きているんだと思います。

もちろん、物やお金を頼りにしてはいけないということではありません。

ただ、ここでイエス様が言っているのは、それよりも、まずイエス様に頼りなさい、それが、私の弟子であるということなんだよ、という話なんですね。

そういうことですから、これは何か、日本語でそのまま読んだ時の印象とは違う話なんですね。

イエス様を第一にして、イエス様に頼りなさい、それが弟子であるということだ、ということなんです。

だからこれは、頑張ってもできないような話ではありません。

というか、しようと思えばいつでもできるような話なんですね。

 

ただ、イエス様は、こういう話を、ご自分について来た人たちに対して話しているんですね。

これは気を付けたいですね。

イエス様について来ているようでいて、結局のところ、自分の家族や自分の持ち物に頼っていないだろうか、そのことには、私たちも気を付けたいと思います。

きっと、本当に大変なことになった時に、私たちが本当に何に頼っていたのかが明らかになるんだと思いますね。

その前に、今の内から、自分が本当に何に頼っているのかを、自分の心に聞いてみたいと思います。

 

28節から、イエス様はそういう話をなさっておられますよね。

まず、塔を建てようとするときのたとえ話、それから、戦争をするときのたとえ話。

ここのところでも、よく似た言葉遣いがなされていますよね。

28節の最後には「まず腰をすえて計算する」、31節の最後で、「まず腰をすえて考える」。

要するに、自分がイエス様の弟子になろうとするときにも、そんなふうにして、まずじっくり考えなさいということですよね。

できるのか、できないのか、本当にそういうつもりが自分にあるのかどうか。

そこのところをよく考えてみなさいということですね。

 

そして、そうできるのなら、イエス様の弟子になるのなら、恵みは大きいですね。

私たちは、現実問題、文字通りの意味で、家族の誰かを憎んでしまうことがあります。

あるいは、ことによると、自分の命を憎んでしまうことだって、無いとは言えません。

そして、多かれ少なかれ自分の持ち物に頼っていて、けれども物というのはなくなることもあれば壊れることもあれば減ることもありますので、そういう心配をいつもしています。

けれども、イエス様の弟子になるなら、これらのことは変えられるんだと思いますね。

私たちの命は、神様から与えられたもので、その命は、神の子イエス様が身代わりになっても惜しくないくらいに尊いものなんですよね。

十字架でイエス様は私たちの身代わりになってくださって、いわば、ご自分の命を私たちに与えてくださったわけです。

私たちはそのようにして生かされている。

かけがえのない者として、どの人も、すべての人が、最も尊い者として、愛されている。

そう思うなら、そこには、人間の思いを超えた平安があるんだと思いますね。

そうなったら、家族や自分の命を憎んだり、何かあった時に真っ先に持ち物に頼ったりするようなことはなくなるんじゃないですか。

私たちはイエス様の弟子になることによって、イエス様を愛することによって、自分のことも家族のことも、正しく愛することができるようにされるんだと思います。

 

だから今日のところで、27節で、自分の十字架を背負ってついて来なさい、それがイエス様の弟子だということだ、と言われているんですね。

自分の十字架を背負う、それは、本当はイエス様ではなく自分こそが死ぬべき存在なんだ、本来自分は死に値する罪びとなんだということを自覚するということです。

罪という言葉は原文では的外れという言葉なんですが、人間はみんな神の目には的外れで、だからこそ、家族を憎んだり、自分の命を憎んだり、本当の意味で頼りにならないものに頼ったりしてしまう。

けれども、その私たちを愛に立ち返らせるために、イエス様が私たちの罪を背負って十字架につけられてくださった。

これは逆に言うと、本来十字架につけられるべきなのは私たちだということになりますね。

それなのに、イエス様は私たちを愛して、私たちのために命を投げ出してくださった。

それを自覚していること。

それが、自分の十字架を背負ってイエス様に従うということで、それがイエス様の弟子であるということなんだということですね。

 

こうなりますと、26節と、27節と、33節で、「わたしの弟子ではありえない」という同じ言葉がつかわれているんですが、この三か所で言われていることはつながってきますよね。

三つとも、まず、イエス様に思いを向けなさいということですね。

実際、これはそういう表現の仕方なんですね。

ヘブライ語の表現の仕方に、こういうのがあるんです。

同じことを繰り返し言うために、別の表現をいくつか並べる、という表現なんです。

いろいろなことが言われているように思えますが、掘り下げてみると、どれも同じことですね。

あなたに対するイエス様の愛に、まず、思いを向けなさい、ということです。

私たちはいろんなものに思いを向けますけれども、まず、イエス様の愛に思いを向けなさい、ということです。

やってやれないことはないですよね。

自分を愛してくれていて、自分のために命まで投げ出してくれた方に思いを向ける。

ただそれだけなんですから。

 

ただ、実際問題、やっぱりこれが難しい時というのはありますよね。

特に、大変な時ですね。

大変なことになった時ほど、まずイエス様に思いを向けるよりも、まず自分の家族に頼ったり、自分の持ち物に頼ったり、自分の力に頼ったり、ということをしてしまいます。

まず身近なものに頼ってしまうんですよね。

でも、そういう時こそイエス様に思いを向けていただきたいんです。

イエス様は何も、私たちの罪とかのような、大きなことだけは取り扱ってくださるけれども、日常の中でのことは取り扱ってくださらない、そんな方じゃないんです。

イエス様は言っておられるじゃないですか。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

どんなことでも、イエス様は取り扱ってくださるんです。

そのために、地上に来てくださったんですから。

命を投げ出してくださったんですから。

もしそうじゃないんだったら、「こういうことなら助けてあげるけど、こういうことは自分で頑張ってね」、イエス様がそういう方なんだったら、命までは投げ出したりはしないですよ。

イエス様は、私たちを、なんとしてでも助けたい。

そういう方なんです。

 

だから今日の最後のところで、塩気のなくなった塩の話がありますけれども、ここで、塩気がなくなった塩は「外に投げ捨てられる」と書かれているんですけれども、これは、イエス様が私たちを放り出すということではないんですね。

イエス様は絶対私たちのことをあきらめない。

ではこの「外に投げ捨てられる」というのは何なのかというと、これは、イエス様に弟子入りしたつもりでも、中途半端なことになってしまった場合には、周りの人々から、なんだあの人は、半端な人だ、と思われて、相手にされなくなるぞ、ということです。

少し前の塔の話とか戦争の話と同じことがここでも言われているんですね。

要するに、弟子になるということがどういうことなのか、しっかり考えて心に収めなさいよ、ということです。

ですので、この、「投げ捨てられる」という言葉は、原文で見ると複数形なんですね。

イエス様が投げ捨てるというのなら単数形になるはずですが、人々から相手にされなくなるという話なんで、複数形なんです。

イエス様は私たちのことをあきらめません。

文字通り命がけなんですから。

私たちがイエス様をあきらめたって、イエス様の方ではあきらめません。

だからここで、塩の話がなされているんですね。

旧約聖書では、神様と人との契約について、それは「塩の契約」だと書かれている箇所があります。

神様と人間の契約は永遠に変わることのない契約なんですが、その大事な契約、愛によって神と人が永遠に結ばれる契約を、「塩の契約」と呼んだんですね。

塩は生きるためにどうしても必要なものですし、物が腐るのを防ぐこともできるような、大事なものですから。

ところが、永遠の塩の契約のはずなのに、塩に塩気がなくなる、ということが言われています。

現代の塩は真っ白ですよね。

余計なものが混じっていないんです。

だから、塩気がなくなることはありません。

けれども、当時の塩にはいらないものが少しは混じっていましたから、そのせいで塩気がなくなるということがあったようなんです。

要するに、今、イエス様は、弟子になる人が中途半端なことにならないようにということでお話しなさっておられるわけですが、いったん神様と結ばれたとはいっても、その人から塩気がなくなってしまう、愛が冷めてしまうというようなこともあるということですね。

けれども、塩の契約というのは永遠の契約だということなんです。

だからここで塩という言葉がつかわれている。

私たちが心変わりしたって、神様のほうでは心変わりはなさいません。

私たちを愛する神様の御心は永遠に変わることがないんです。

その愛の中に、私たちは生かされている。

その、命がけの、永遠の愛の中に、自覚的に、生かされていきたいと思います。

そこにしかない大きな平安を味わいながら、キリストの弟子として、生きていきたいと思います。

そのようにして生きるとき、私たちは、これは他の個所で言われていることですが、地の塩であるということになるんじゃないですか。

塩として、周りに味をつけながら、周りが腐るのを防ぐ、そういう塩の役割を果たしていけるんじゃないでしょうか。

私たちにはそんな力はないんですが、イエス様は私たちにおいて、そんなふうに働いてくださる。

私たちはそう信じていいんだと思います。

イエス様に頼りなさい、と言われているんですから。

頼っていいんです。

大きなことでも、小さなことでも。

そう信じて、お祈りいたします。