今週の説教「起き上がりなさい」(ヨハネによる福音書5章1-9節)

【今週の予定】

●2月20日(月)牧師週休日、東部中会・対ミッション委員会会議(19:00~20:00)
●2月21日(火)火曜礼拝(9:00~10:00)
●2月22日(水)加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●2月23日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●2月25日(土)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)

●2月26日(日)礼拝(10:30~12:00)、食事会、学び会(13:00~13:45)、ゴスペル・スクール(14:00~15:30)、掃除、イースター演劇に向けての劇団稽古(16:00~19:00)

★2月26日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章1節から9節

説教題:「人を探す神」

ヨハネによる福音書51-9

1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。(4彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。)5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

 

 

ある日の出来事ですが、この日はお祭りの日だったということですね。

これが何の祭りだったのかは分かりませんが、神殿が置かれているエルサレムに上って祝う祭りだということですから、かなり大きなお祭りだったことでしょう。

旧約聖書の中に、お祭りについて書かれている箇所があるんですが、いくつかのお祭りについては、このお祭りは都のエルサレムで祝いなさいと定められているんですね。

そこで、イエス様もエルサレムに上られました。

イスラエルの全国各地から人が集まってきて、エルサレムは大変なにぎわいだったことでしょうね。

 

けれども、そのにぎやかなエルサレムの町の中で、言ってみれば人々から見捨てられたような場所があったんですね。

それが「ベトザタの池」です。

この池には池を取り囲む回廊があって、回廊というのは屋根がついた廊下なんですが、それが池を取り囲んでいて、その廊下には、病気や障がいを抱えた人たちがうずくまっていたんですね。

お祭りのにぎわいはここにも届いてはいたでしょうが、ここに横たわっている人たちの心には喜びはなかったでしょう。

それどころか、お祭りのにぎわいを打ち消すかのように、うめき声が聞こえていたかもしれませんし、もしかすると泣き声が聞こえていたかもしれません。

そうであったとしてもおかしくないような場所ですね。

言ってみればここは、病気や障がいを抱えた人が、家族から捨てられたような、そんな場所です。

私たちからすると、この人たちはどうして入院しないんだろう、どうして病院に行かないんだろうと思ってしまいますが、病院というのはこの時代には存在しないんですね。

この時代の治療というのは、自分の家に医者に来てもらって治療してもらうという方法でした。

お金持ちはそうしていたんですね。

ではお金のない家の人はどうなるか、というと、このような場所に、ストレートに言えば、捨てられる、ということも良くあったことなのだそうです。

病院というものが出来てくるのは、これよりも後の時代です。

キリスト教が広がっていく中で、クリスチャンたちが、病気の人や障がいのある人を集めて、お世話をするようになっていったんですね。

しかしそれは後の時代のことで、イエス様の時代には病院はまだありません。

 

外ではお祭りがおこなわれています。

けれども、ここにうずくまっている人たちに、喜びはありません。

お祭りがあるにせよないにせよ、喜びとは無関係の人生を、この人たちは生きているんですね。

生きているのか死んでいるのか分からない人生です。

けれども、この人たちにも一つだけ、望みがありました。

ここでちょっと聖書を見ていただきたいんですが、3節の一番最後に短剣のマークが付いていますね。

そして、そのすぐ下が5節になっていますね。

4節が抜けてしまっています。

これはどういうことかというと、聖書には写本と言うんですが、コピーがたくさんあるんですね。

コピーと言っても昔々から伝わってきているものですので、手で書き写すんですが、その、書き写された写本というのがたくさんありまして、ただ、人が手で書き写すものですから、どうしても間違ってしまうことがあるんですね。

勝手に言葉を書き足してしまったり、書き落してしまったりすることがあるんです。

ですので、たくさん伝わっています写本は、全部が全部全く同じということはありません。

この福音書はヨハネによる福音書ということですから、ヨハネという人が書いたんですが、ヨハネ自身が書いた原本は残っていませんから、写本同士を見比べて、これは原本の通りだろう、これは原本とは違うだろう、ということで判断していくわけです。

そして、この、抜け落ちている4節に関しては、これが原本にあったかなかったかが簡単に判断できないんですね。

そこで、ここには書かないでおいて、この福音書の一番最後のページに、4節をのせているんです。

212ページの最後に、それがのっています。

お読みいたしますが、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」ということですね。

ここに横たわっている人たちは、それだけを希望にしていたんです。

ほとんど迷信と言ってもいいような感じですが、もう他に何も望みのないこの人たちは、それだけに望みをかけて、ここに横たわっていたんですね。

ただこれ、楽なことではありませんね。

一番最初の人しかいやされないんですね。

そうなると、どういうことになるでしょうか。

水が動くときには、ここにいる人々はどんなふうに行動するでしょうか。

それがこの、「ベトザタの池」だったんです。

「ベトザタ」という言葉の意味は、「慈しみの家」という意味だったという説があります。

神の慈しみに満たされている場所、ということでしょうか。

しかし、そんな名前がついているのに、この場所はなんと悲しい場所でしょうか。

この場所は、いろんな意味で、人間の醜さが明らかになる場所だったんですね。

 

この場所に、イエス様がわざわざやってこられます。

見捨てられたような場所に、ご自分からやってこられるんですね。

そこには、38年間も病気で苦しんでいる人がいました。

38年間です。

おそらくこの人は、生きる喜びを全くなくしていたことでしょう。

病気に苦しめられ、人の心の醜さに苦しめられ、他に行く場所もなくて、ただ、ここにいる。

その人のところにイエス様はやってこられます。

この人が呼んだのではありません。

イエス様の方からいらしてくださったのです。

 

ところが、この人に対するイエス様の言葉はどうでしょうか。

「良くなりたいか」。

これは、わざわざ聞くことでもないように思います。

この人は、その質問にストレートには答えませんでした。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。

この人の気持ちは、よく分かりますよね。

自分にはどうしようもない。

誰も私を助けてくれない。

けれども、よく考えてみると、そうでしょうか。

少なくとも38年間、この人は飢え死にすることはありませんでした。

誰かが支えてくれていたからです。

そして、もしこの人が健康になったら、もう助けてもらう理由はなくなります。

そうなった時、この人は、一人で生きていかなければなりません。

38年間、何の仕事もできずに生きていた人が、自分で働いて生活していくことが簡単にできるでしょうか。

そう考えますと、これはこの人を責めるわけではありませんが、この人がそんなふうになってしまうのももっともだと思うのですが、この人は、自分の状況が良くなることをあきらめて、自分にはどうしようもないということを言い訳にして、本音では、もうずっとこのままでもいいと思っていたのかもしれません。

だからこそ、イエス様は、ここで、「良くなりたいか」と聞いたのではないでしょうか。

 

私たちにも、こういうことはあるのではないかと思います。

人の心に苦しめられて、でも自分ではどうすることもできなくて、誰も助けてくれなくて、それを言い訳にして、本音ではもういいや、となってしまっている。

私たちはもうその時のことをよく覚えていないかもしれませんが、よくよく考えてみると、そういうご経験は多くの方にあるのではないかと思います。

けれども、イエス様は、そういうところに来てくださるんですね。

ご自分の方から歩み寄ってきてくださる。

そして、声をおかけになるんです。

「良くなりたいか」。

わたしたちは、どうでしょうか。

その時、どう答えるでしょうか。

これは聖書の神様に一貫していることですが、神様は、人の気持ちを無理やり捻じ曲げることはありません。

人間の意思を尊重なさいます。

ですので、私たちはそこで、こう答えたいんですね。

「良くなりたいです」。

今日の場面のこの人は、そのように答えることはできませんでした。

一見、あきらめているような答え方しかできませんでした。

けれども、心の奥底に、やっぱり「良くなりたい」という思いはまだあったんじゃないですか。

もし、そういう思いが全くないんだったら、「もうそっとしておいてください」とでも答えるんじゃないですか。

ほんのわずかですが、やっぱり望みはあったと思うんですね。

それに対して、イエス様はこうおっしゃいました。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。

この「起き上がりなさい」という言葉は、復活しなさい、という言葉です。

死んだようになっていたこの人に、イエス様は言ったんです。

「復活しなさい」。

イエス様は、命を与えてくださる方なんですね。

そして、「床を担いで歩きなさい」。

床を置いていくように、それはもういらないから、捨てなさいとはおっしゃらないんですね。

それを自分の力で持ち上げて、担ぎ上げて、歩いていきなさい、とおっしゃるんですね。

自分のつらい過去を捨て去るのではなく、それを担ぎ上げて、それに打ち勝って、もう二度と困難に打ち負かされて絶望してしまうことなく、新しい命を力強く生きていきなさい。

そういうふうにおっしゃるんですね。

考えてみれば、洗礼を受けた人はみんな、イエス様とこういうやり取りをしたということではないですか。

新しい命を与えられて、罪に打ち負かされることなく、イエス様と共にそれと戦って、打ち勝って、力強く生きていく。

洗礼を受けるということはそういうことではないですか。

 

この場面では、この日は、安息日でした。

安息日というのは、週に一度、仕事を休んで、心を神様に向けることに集中して、礼拝をささげる日です。

礼拝をささげる日に、この人は、復活させられた。

私たちも今こうして礼拝をささげていますが、礼拝というのは、私たちが復活させられるところなんですね。

だから、この教会という場所は、「ベトザタ」なんです。

神の慈しみに満ちあふれる場所なんです。

私たちも、今一度、起き上がりましょう。

あきらめてしまったところに、もう一度、希望の火をともしましょう。

いえ、私たちが、ではありません。

イエス様が今、私たちの心に、希望の火をともしてくださっている。

そのイエス様に、言いましょう。

「良くなりたいです」。

そう言いましょう。

その皆様に、申し上げます。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。