今週の説教「人を探す神」(ルカによる福音書15章1-10節)

クリスマス演劇の動画をアップしました!

 

▶'16年クリスマス・チャリティー演劇@光が丘キリスト教会『spoil』

【今週の予定】

●2月28日(火)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)
●3月1日(水)病床訪問(時間帯未定)、牧師会議(16:00~17:00)、加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●3月2日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●3月4日(土)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)

●3月5日(日)礼拝(10:30~12:00)、食事会、会員総会(13:00~14:00)、役員会(14:00~16:30)、掃除、イースター演劇に向けての劇団稽古(16:00~19:00)

★3月5日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章11節から32節

説教題:「神の喜びはどこにあるか」

ルカによる福音書151-10

1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

 

イエス様のところに、人々が集まってきました。

今日の場面ではその集まってきた人々というのが、徴税人や罪びとだったということですね。

この徴税人というのがどういう人たちだったのかということなんですが、徴税人というのは、人々から税金を取る仕事です。

そう言いますと、今で言う税務署の人なのかなあと思ってしまいそうになりますが、事情は少し違っていました。

徴税人は、罪人の代表であるように思われていたんですね。

どうしてかというと、この人たちは、ローマ帝国のための税金を集めていたからです。

イスラエルの人々から税金を集めて、イスラエルの国に収めるのではなくて、イスラエルの国を支配していたローマ帝国に税金を収めていたんですね。

つまり徴税人というのは、神の民であるイスラエル人からお金を奪って、外国人、異邦人に届けるという仕事なんです。

集められたお金は、イスラエルの人々を支配するために使われるわけです。

しかも、徴税人は、決められた金額だけをローマに収めれば、残ったお金は自分のものにしていいことになっていました。

ですから徴税人は、必要以上に多くの税金を人々から取るんですね。

それで、自分のふところにため込むわけです。

徴税人はみんなお金持ちだったと言われています。

人からしぼり取ったお金で、自分は豊かな生活をしていたんですね。

こういうことですから、徴税人というのは皆に嫌われていたんです。

そして、これがローマ帝国がずる賢いところなんですが、ローマから派遣されてきた徴税人が現地の人から税金を取るということになりますと、ローマ帝国が嫌われてしまいますから、そうならないように、現地の人を雇って徴税人にするわけです。

ですのでこの徴税人たちはイスラエル人なんですね。

徴税人になればいくらでもお金持ちになれますから、嫌われてもいいからやりたいという人はいます。

そういう人たちがこの仕事についたんですね。

そして実際、この人たちは、イスラエルの中では、罪びとの代表だというふうに見られていました。

この人たちの心の中はどんなだっただろうかと思います。

この人たちは、自分で望んでこの仕事についたんです。

けれども、自分をまともに人間扱いしてくれる人はいないのです。

 

そんな人たち、誰からも相手にされないような人たちを、イエス様は迎え入れていたんですね。

これはイエス様がどういう方だったのかがよくわかる話なんですが、そのことをよく思わない人たちがいました。

ファリサイ派の人々ですね。

このファリサイ派というのはどういう人たちだったかと言いますと、ユダヤ教の指導者です。

自分たちは神の言葉である聖書の通りに生きていると考えて、人々にも自分たちと同じようにするようにと教えていた人たちです。

自分たちはちゃんとしている、自分たちはこれでいいんだと考えていた人たちです。

こういう人たちが徴税人たちのことをどういうふうに考えていたか、想像できますでしょうか。

ファリサイ派の人たちは、徴税人たちに、近づこうともしなかったんですね。

まったく避けていたんです。

「ファリサイ」という言葉は、「区別する」という言葉からきているとも言われていますが、そんなふうに、罪びとだ、神に逆らう人だと見られている人たちから自分を区別して、自分たちはちゃんとしている、自分たちはこれでいいんだと考えていたんですね。

 

当然のようにこの人たちはイエス様に文句を言いました。

どうしてあんな人たちと一緒にいるのか、ということですね。

それに対して、イエス様がお答えになられたのが、今日の、「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえです。

「見失った羊」と「無くした銀貨」です。

どちらも、どこに行ったか分からなくなってしまったということですよね。

そしてそれを見つけ出せたら大喜びだという話です。

イエス様は今、罪びとたちと一緒にいるわけですけれども、罪人というのは神様からするとどこに行ったか分からなくなってしまったようなものなんだ、ということですね。

けれども、それを見つけ出すことは、神様にとって大きな喜びなんだということですね。

どこに行ったか分からなくなってしまったからあきらめる、ということはないんですね。

あきらめないんです。

一生懸命探すんです。

探してくださるんです。

私たちを。

 

罪びとというのは、徴税人だけのことではありません。

罪という言葉は原文では、的外れという言葉が元になっている言葉です。

神を愛するよりも、隣人を愛するよりも、真っ先に自分を愛してしまう、という的外れです。

そして、自分を偏って愛して、神や隣人を憎んでしまうことすらある、という的外れです。

人間はみんな罪びとなんですね。

神様のもとからいなくなってしまった存在なんです。

神様の前から行方不明になってしまったような存在なんです。

その私たちを、神様はあきらめません。

探して連れ帰ろう、探して取り戻そうとなさってくださるんですね。

 

けれども、人間はなかなかそのことを認めたがらないですね。

人間はある意味みんなファリサイ派の人たちによく似ていて、自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだと考えているんですね。

そういう考えが全くないという人が、誰かいるでしょうか。

ですので、私たちは自分が神の前からいなくなってしまっているということをなかなか認めません。

自分が行方不明なんだ、迷子になってしまっているんだということを認めることができません。

まして、迷子になった私を神様が探しているということを、認めたくなんてないのです。

自分はちゃんとしていると思っていますから。

 

けれども、その私を救い出すために、神様は一生懸命探しまわってくださるんだということですね。

よく考えてみると、神様は、聖書の中で、ずっとそういうふうになさっておられるんじゃないですか。

神様は高いところにおられて、そこから地上を見下ろしているのではなくて、人間を探し回って、一人でも多くの人を救おうとしておられる。

聖書に描かれているのはそういう神様です。

神様は永遠なる方なんですけれども、そして、全知全能なんですけれども、だからと言って椅子にふんぞり返って地上の様子を見物しているような方ではなくて、失われた一人の人を見つけ出すまで探し回る、そういう方なんですね。

そのために、神が人となって地上に降りてこられた。

それがイエス様ですね。

神様はもう、どんなことをしてでも迷子の人を探し出したい。

居ても立ってもいられなくて、地上に来られた。

そして、見つけ出すまで探し回ってくださるんですね。

けれどもそれは簡単なことではありませんね。

今日のたとえ話ですと、羊を探しに行くということですが、羊がいなくなったということは、オオカミに襲われたのかもしれませんし、崖から落ちてしまったのかもしれません。

ということは、自分もオオカミに襲われるかもしれませんし、崖から落ちてしまうかもしれない。

それでも、探しに行くんですね。

どうしても助けたいから。

見つかるまで探すんです。

 

この話を読んでいて、スティーブン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』という映画を思い出しました。

ご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、第二次世界大戦の時のヨーロッパでの話ですね。

アメリカ軍にライアンという兵隊がいて、その兵隊さんには他に兄弟がいたんですが、他の兄弟は全員戦争で死んでしまった。

そこで、このライアンを母親の元に帰してやるために、命がけで探し出して救い出すという話です。

ライアンを救い出すために特別なチームが動くんですが、ライアンを探す中で、一人また一人と、そのメンバーは倒れていくんですね。

そして、これが考えさせられることなんですが、やっとのことでライアンを見つけ出した時、ライアンは驚いて、いや、自分はここで戦うんだと言い張るんですね。

すぐにはその場を離れようとしなかったんです。

これ、さっきもお話いたしましたが、人間ってこうなんですね。

自分が迷子だということを認めたくないんです。

探す方は命懸けで探しているのに、認めたくない。

自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだ、そういう考えがいつも頭の中に、心の真ん中にあるんですね。

自分を探す人の気持ちは考えないんです。

 

けれども、イエス様は命懸けで私たちを探し出してくださった。

そして、このように、神様の前に連れ戻してくださった。

そしてそれはもう、イエス様にとっては大喜びなんです。

大変だったとか、迷惑をかけられたとか、そんなことは考えもしない。

たった一人探し出せたというだけでも、もうお祝いのパーティーをしたくなるくらい、大喜びなんです。

ですので、今日のところで、二つのたとえ話の二つとも、最後のところで、罪びとが悔い改めるという話が出てきていますけれども、これは、私たちが悔い改めて神様のもとに自分の足で歩いて帰らなくてはいけないという話ではないですね。

悔い改めというのは、私たちが神様のもとに自分の力で帰るということではなくて、イエス様が私たちを連れ戻してくださるという話です。

命がけで見つけ出して連れ帰ってくださるという話です。

悔い改めという言葉は原文では「立ち返る」という言葉なんですが、私たちが自分で気づいて神様に立ち返るということではない。

そもそも、羊は羊飼いがいなくては生きていくことすらできない生き物です。

銀貨だって、自分で持ち主の元に戻ることなんてできません。

私たちは、そんな、羊であり、銀貨なんです。

だから、イエス様が私たちを立ち返らせてくださるんですね。

たった一人のためでも、命がけで。

今日の話はそういう話です。

だからこの話、一つだけ不思議なところがあるんですが、羊飼いは99匹を野原に残して、1匹を探しに行くんですね。

それだったら残りの99匹が心配になりますが、それはいいんですね。

99匹はもう立ち返っているんですから、とりあえずは、そこに置いておいても大丈夫なんです。

そして、この話を聞いたファリサイ派の人たちは、ああこの99匹というのは自分のことなんだな、自分はいいんだな、と思って、そこのところは勝手に納得したと思いますね。

本当はファリサイ派の人たちこそ、迷子の羊なんですが、イエス様はそれよりも、自分は一生懸命1匹の羊を探している、そのことを知ってもらいたい。

とにかく見失った1匹を探しているんだと知ってもらいたい。

だからここで、こういう話をなさったんだと思うんですね。

 

そんな一人ずつではなくて、もっとたくさんの人を一度に神様のもとに立ち返らせる方法はないのかなあと思いますが、これがイエス様のやり方なんですね。

イエス様はいつも、一人一人を探して、一人一人に出会うんです。

そういう方ですよね。

病気をいやすときだって、たくさんの病人がいるわけですから、神の力で一度に治してしまってもいいように思いますが、聖書にはそういう場面は描かれない。

イエス様はいつも、一人一人と向き合って、一人一人をいやすんです。

ですから、今日の話も、イエス様は失われた人を探して、その人に一番良い方法で出会ってくださって、立ち返らせてくださる、そういうことではないかと思うんです。

 

なぜイエス様は私たちのためにそこまでしてくださるのでしょうか。

それは、今日の話を読むと分かりますね。

見失った羊も、無くした銀貨も、自分のものなんですよね。

自分のものだから、それも、羊であったり、銀貨であったり、大切な自分のものだから、何としてでも探すんだ、見つけ出したら大喜びなんだ、全体から見ると一部を見つけ出しただけのことだけれども、大切な一部だから大喜びなんだ、ということなんですね。

たった一人、ほんの一部とはいっても、私たちはイエス様にとって、大切な一人、大切な一部なんです。

私たちだってそうですよね。

銀貨一枚というのは今でいうところの1万円くらいなんですが、財布の中に一万円札が何枚か入っているとして、そのうちの一枚がなくなったら、大変なことですよね。

一生懸命探しますよね。

だからこの話はその意味で、誰にでもわかる話です。

聞いていたファリサイ派の人たちも、納得したんじゃないかと思うんですね。

 

とにかく、徴税人であろうと、誰であろうと、周りの人からどんなふうに思われている人であろうと、イエス様にとっては大切な一人なんですね。

財布の中に一万円が何枚か入っているとして、そのうちの一枚がなくなってしまったけれども、残っているほうが多いから、一枚くらいはどうでもいいなんていう人はいません。

自分のものが全部ちゃんとあって、それで初めて喜べるんです。

だから、何としてでも探し出す。

というより、探さずにはいられない。

それがイエス様なんですね。

そして、見つけ出した羊を、羊飼いイエス様はどんなふうに扱ってくださるんですか。

羊を担いで帰るんですね。

羊をしかったりなんてしないんです。

悔い改めろとか、そんなことももちろん言わない。

大切な自分の羊を、自分の肩に担いで帰るんです。

私たちの務めは、その、イエス様の肩のぬくもりを感じていることではないかなと思います。

イエス様の肩に自分をゆだねて、そのぬくもりを感じていること。

そしてそれが、この礼拝ということなのかなと思います。

 

私たちがイエス様のお気持ちをよく知って、イエス様の肩のぬくもりを感じているなら、私たちはもう、自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだ、そんなふうに心を閉ざしたりはしないんだと思うんですね。

私たちはそんなふうに、強がらなくていいんです。

イエス様が私たちを肩の上に担いでくださっているんですから、私たちは、自分がどれだけ正しいか、強いか、そんなことを考えなくていい。

今日のたとえ話はなくしてしまったものの話でしたが、私たちはそうではない。

私たちはもう、失われないんです。

どんなことをしてでも私たちを見つけ出してくださるイエス様がいるんですから。

だから、自分のことは考えなくていいんです。

強がったり心を閉ざしたりしなくていい。

私たちを探し出して、担いでくださるイエス様に思いを向けましょう。

それが、悔い改める、立ち返る、ということではないですか。

 

思い出すことがあるんですが、映画の『プライベート・ライアン』の最後のシーンです。

70代後半になったライアンが、自分を救い出すために命を落とした兵隊の墓の前に立っている場面です。

ライアンを救うために命を落とした人は、死ぬ直前に、ライアンに言っていたんですね。

「私の死を無駄にするな」。

おじいさんになったライアンは、その時のことを思い出して、その人のお墓の前に立って、言うんですね。

「あなたが私のためにしてくれたことを無駄にしない人間に、私はなれているでしょうか」。

声を震わせながら、ライアンはそう言うんですね。

これ、私たちも考えてみたいと思います。

イエス様は私たちを探し出して、立ち返らせるために、私たちを救うために、命を投げ出してくださった。

私たちは罪びとです。

罪びとは的外れなんですから、自分で立ち返ることはできません。

私たちを立ち返らせるために、イエス様は、私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださった。

私たちを救うために、イエス様は命を投げ出してくださった。

その意味で、私たちはみんな、ライアンなんですね。

イエス様は私たちに、同じことを望んでおられると思います。

「私の死を無駄にするな」。

これはイエス様のお気持でもあると思うんですね。

だから私たちも、自分の心に問いかけたいんです。

「あなたが私のためにしてくれたことを無駄にしない人間に、私はなれているでしょうか」。

イエス様の肩の上で、ぬくもりを感じながら、今日、そのことを考えたいと思います。

それが、悔い改めるということなんだろうと思います。

悔い改めるって、感謝することですね。