今週の説教「 神の喜びはどこにあるか」(ルカによる福音書15章11節から32節)

【今週の予定】

●3月6日(月)牧師週休日
●3月7日(火)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)
●3月8日(水)牧師の会議(当教会、16:30~18:00)、加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●3月9日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●3月11日(土)イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)

●3月12日(日)受洗準備会(9:00~10:10)、礼拝(10:30~12:00)、食事会、ゴスペル練習(13:00~14:30)、掃除、伝道の集い(12:30出発、坂戸教会、14:30~16:30)、会議(坂戸教会、17:00~18:00)、イースター演劇に向けての劇団稽古(16:00~20:00)

★3月12日(日)の説教

説教者:尾崎牧師

聖書箇所:ルカによる福音書16章1節から13節

説教題:「世の人にならって」

ルカによる福音書1511節から32

11また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 

 

今日の話ですが、たとえ話ですね。

15章の最初のところからたとえ話が三つ、続いていますが、その三つめが今日の話です。

今日のたとえ話は、15章の最初のところで語られていた二つのたとえ話とよく似た話ですよね。

太字のタイトルがついていますが、最初のたとえ話は、「見失った羊」のたとえでした。

これは、たとえ羊が100匹いても、1匹いなくなったら大変なことで、羊飼いは羊を探して連れ戻す、という話ですね。

そして、羊を連れ戻すことができれば羊飼いは大喜び、という話です。

要するに、罪びとを神様のもとに連れ戻すことができれば神様にとってはそれが大きな喜びなんだということです。

もう一つのたとえ話、「無くした銀貨」のたとえも同じですよね。

無くした銀貨が出てきたら大喜び、という話です。

どちらのたとえも同じですね。

罪びとというのは、神様にとっては、見失った羊であり、無くした銀貨であるわけだけれども、それが出てきたら大喜びという話です。

今日の話もそこのところはよく似ていますね。

息子が帰ってくるとお父さんは大喜び、という話です。

神様はとにかく、人と一緒にいたいんですね。

だから、ご自分のもとに人が帰ってくると、罪びとだろうが出来の悪い息子だろうが大喜びなんだということです。

 

それはそれでまあ、私たちにとってありがたい話であるわけなんですけれども、そもそもどうしてイエス様がこういうお話をなさったのかと言うと、それが15章の最初のところに書かれていました。

イエス様が罪びとを招くものだから、それに対して、当時の権力者であったファリサイ派の人たちや律法学者たちが文句を言ったんですね。

どうしてあんな罪びとたちを相手にするのか、と文句を言ったんです。

ファリサイ派の人たちや律法学者たちは自分が聖書に基づいて立派な生活をしている、自分たちはちゃんとしている、自分たちはこれでいいんだと思っていましたから、聖書に従わない罪びとをイエス様が招くことに腹を立てたんですね。

それでイエス様は、この三つのたとえ話をなさったんです。

罪びとが自分のもとに帰ってくることが、神様にとって一番うれしいことなんだよ、と話をしたわけです。

 

けれども、今日の話はどうでしょうか。

今度の話は何か納得しづらいですよね。

この息子、弟の方ですが、この次男はちょっと問題がありますよね。

それでも、帰ってきたらお父さんは大喜びだというんです。

これはちょっと、お父さんにも問題があるんじゃないかと思ってしまいます。

そして、この、お兄さんの方ですね。

長男の方。

この人の言っていることは良く分かるんですね。

弟が帰ってきたということで、大喜びで宴会を開くお父さんに腹を立てているんですね。

それはもっともなことだと思ってしまいます。

どちらかというと、お父さんや次男にはなかなか納得できないんですが、長男の気持ちは分かるんですね。

そして、一番困ったことには、この話、途中で終わっているんです。

この話、一番最後にお父さんが長男を説得する言葉が出てきているんですが、このお父さんの言葉に長男がどのようにこたえたか、それが書かれていないんですね。

皆さんはどうお考えになりますでしょうか。

どうしてイエス様は、ここで話をやめてしまったんでしょうか。

何だか謎だらけのようなこの話ですが、最初のところから、改めて読んでいこうと思います。

 

ある人に息子が二人いて、弟の方が、財産を今すぐ、分けてくれと言い出しました。

もうここのところから、すごい話ですね。

これ、要するに、この次男は、自分の父親に、さっさと死んで財産を遺してほしいと思っている、ということです。

けれどもそうは言えませんので、財産を分けてくれ、と言ったんですね。

そのとおりにしてやると、次男は遠い国に行ってしまいました。

どうしてこんなことを父親が許すのかなあと思いますが、これ、考えてみれば、神様の人間に対する態度そのままです。

神様は、人間の思いをねじ曲げてまで、無理やりご自分のもとに置こうとはなさらないんですね。

聖書のどこを読んでも、神様が人間の思いを捻じ曲げるような話は出てきません。

人間が神様に背くことでも、神様はお許しになります。

それは、神様が人間の意思を尊重してくださっているということです。

ところが、この次男の場合は、自分の意思に従って、その結果、大変なことになってしまったんですね。

全財産を使い果たしてしまって、おまけに飢饉に見舞われて、豚の世話をするようになります。

豚の世話というのは奴隷の仕事です。

この人は、もう落ちるところまで落ちてしまったんですね。

 

けれどもそこで、彼は気づいたんですね。

父のもとが一番いい場所だったんですね。

父のもとは、大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある場所でした。

雇い人ですらそうなんですから、息子であった彼はもっと豊かに暮らしていたはずです。

それなのに、それが分からずに、そこから飛び出してきてしまった。

その結果、大変な状態になってしまっている。

彼は自分の間違いに気づき、父に対してこのように言おうと決心しました。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯していました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。

もう息子と呼ばれる資格はないということを、彼は自分から認めました。

それでも、雇い人の一人としてでも、そばに置いてほしいと願ったのです。

 

こうなりますと、この話は、悔い改めて神のもとに立ち返りなさいということを教える話なのかと思ってしまいます。

実際、多くの宗教は、悔い改めて、神様のもとに立ち返って、神様の雇い人になって働くことが信仰であると教えています。

信仰に生きるとは、心を入れ替えて、神様のもとでしっかりと働くことだ、と教えられています。

この息子が父のもとに帰ってこう言おうと考えたことは、そのような、人間皆が考える常識ですね。

けれども、この話の続きを読んでいきますと、神様は人間の常識を超えた方であるということが分かってきます。

 

息子は父のもとに帰りました。

そして、考えていた言葉を語ります。

けれども、この息子は、悔い改めたから迎え入れられたのではないんですね。

息子は確かに悔い改めの言葉を語りましたが、それよりも前に、父親は息子を見つけて走り寄って抱きしめたんですね。

息子が父親を見つけたのではありません。

父親が先に息子を見つけて、走り寄ったんです。

そして、まだ何も言わないのに、抱きしめたんです。

もう、帰ってきただけで大喜びなんです。

息子は確かに悔い改めの言葉を口にしましたが、そんな言葉を父親は聞いていないんですね。

息子はもともと、こういうふうに言おうと考えていました。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。

ところが、実際に言った言葉は、こういう言葉でした。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」。

この違い、分かりますかね。

最後の言葉です。

用意していた最後の言葉を、息子はまだ言っていないんですね。

息子はまだしゃべっている途中だったんです。

それなのに、父親が息子の言葉をさえぎって、大喜びで、大切な息子が帰ってきたからパーティーをしようと言い出すんですね。

いなくなっていた息子が自分のもとに帰ってきた、もうそれだけで、喜びでいっぱいなわけです。

それほどまでに、父親にとって息子は、何よりも大切な存在なんです。

この父親はおそらく、最初から息子の言葉を聞いてもいなかったんだろうと思います。

息子が帰ってきた。

もうそれだけで十分なんです。

ですからこの話は、悔い改めろというような話ではないんですね。

神様のもとに立ち返って、神様の雇い人になって働きなさいなんていう話ではないんです。

神様は私たちのことを何よりも大切に思ってくれていて、私たちを心から愛してくださっている。

そのことに気づきなさい。

その愛の中を生きて、生かされて行きなさい。

そういう話なんですね。

 

私たちが神様のもとにこうして帰ってくること、それだけでもう神様は大喜びです。

父親はこんなふうに言っているじゃないですか。

「この息子は、死んでいたのに生き返ったんだ」。

人が神様から離れる時、それは、神様にとっては愛する息子が死んでしまったような悲しみなんですね。

だから、帰ってきたら、まるで愛する息子が生き返ったかのように大喜びなんです。

ですからこの話は、私たちの悔い改めの話なんかではありません。

神様のもとに帰ってきた私たちが、そのときにどんな悔い改めの言葉を語るかなんていうことは、神様にとって全く問題ではないんです。

 

けれども、話はこれでは終わりません。

もう一人の登場人物が残っています。

兄は弟が大歓迎されているのが気に入らないんですね。

その兄に対しても、父は自分から出てきて、なだめようとします。

けれども、兄はこれを受け入れませんでして、父に抗議します。

この兄は、自分は正しい行いをしているのに、そして、弟はそうではないのに、どうして弟を歓迎するのかと、父に抗議します。

この言い分は、もっともなことのように聞こえます。

こんなことなら、こんな父親には最初から仕えないほうが良かったと思うのも当然のように思えます。

その意味で、この兄は一見正しいことを言っているように見えます。

しかし、よく考えてみると、この兄とは、いったい誰のことでしょうか。

この兄は、15章の最初のところでイエス様に文句を言っていた、ファリサイ派の人々や律法学者たちのことですね。

この人たちは、自分たちは聖書の通りに生きていると考えて、人々にも自分たちと同じようにするようにと教えていた人たちです。

自分たちはちゃんとしている、自分たちはこれでいいんだと考えていた人たちです。

だから、聖書に従わない人たちを罪びとというふうに呼んでいたんですね。

この人たちは、罪びとを招くイエス様に文句を言ったんでした。

そして今日の話の中に、そんな感じの言葉が出てきていますね。

この兄は、自分の弟のことをなんと呼んでいますか。

30節ですが、この兄は父親に対して、自分の弟のことを、「あなたのあの息子が」と言っています。

自分の弟のことを、もう弟とは呼びたくないんです。

家族の一員として、認めたくないんです。

それと同じように、ファリサイ派や律法学者たちは、罪人たちに対してそういう思いを抱いていでしょうね。

聖書に従わないあんな罪びとは仲間ではない、あいつらは神の家族ではない。

この人たちはそういうふうに思っていたんです。

 

何も考えずにこのたとえ話を読むと、この兄の気持ちは良く分かるなあという思いになるかもしれません。

けれどもそれは、自分がどこか、ファリサイ派や律法学者に似ているから、そういうふうに思ってしまうということなんですね。

それは仕方のないことでもあります。

ファリサイ派や律法学者は、自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだと考えていました。

自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだ。

それは、たとえ話の中の兄も同じですね。

自分はちゃんとしているのにいいことが何もなくて、それなのに、間違ったことをしてきた弟が歓迎されているから腹を立てているのです。

こういう考えは、人間誰にでもあるのではないでしょうか。

自分はちゃんとしている、自分はこれでいいんだ。

こういう考えが全くない人というのが、誰かいるでしょうか。

人間みんな、多かれ少なかれそうでしょう。

 

けれども、この兄を、父はなだめるんですね。

そうじゃないんだ、と言うんです。

この兄の問題はどこにあったのでしょうか。

実はこの兄は、弟同じなんだと思います。

弟は、父の家から出ていった。

父と一緒にいたくなかったということです。

それは実は兄も同じです。

この兄は今腹を立てているわけですけれども、どうして腹を立てているのかというと、弟は間違ったことをしてきたのに良いことがあって、自分は正しいことをしてきたのに良いことがなかったと言って腹を立てているんです。

ということは、この兄も、父と一緒にいること自体が素晴らしいことだとは思っていないということです。

もし、父と一緒にいること自体が素晴らしいことなんだと思っているとしたら、弟が帰ってきて大歓迎されていても、自分も一緒に喜べたはずですね。

そうではなかった。

この兄は、自分の働きに対して見返りがほしいという気持ちで、我慢して父と一緒にいただけなんですね。

本当のところは別に父と一緒にいたいわけではなかったんです。

そして、考えてみれば、弟の方は家を出ていったわけですけれども、その時の弟の気持ちは、兄と同じではなかったでしょうか。

自分はちゃんとやっていける、自分はこれでいいんだ、自分は正しい。

この弟も、その時はそう思っていたんじゃないですか。

ですのでこの兄弟、正反対のようでいて、実は同じなんですね。

やっぱり兄弟なんです。

このお話をするイエス様の気持ち、分かりますかね。

性格はいろいろでも、人間みんな同じようなものなんですね。

 

ただここで大事なことは、弟の方にも、兄の方にも、父親は、自分から近づいてきてくれたということです。

どんな息子であれ、父にとっては同じ息子です。

父にとっては、代わりの利かない、かけがえのない存在なんです。

私たち一人ひとりはみんな、神様に、そのように限りなく愛されている。

一人ひとりみんな、限りなくです。

だから、神様と一緒にいられることは、何よりも素晴らしいことなんですね。

父の最後の言葉にありますね。

「子よ、お前はいつも私と一緒にいる」。

それだけで、最も素晴らしいことなんです。

そして、天の父は、私たちが互いに愛し合うように、私たちをなだめてくださるんですね。

私たちも、この兄のように、誰かのことを、「あなたのあの息子」というふうに呼んでしまうことがあります。

けれども、それに対して父はどう言っているか。

最後の32節で、こう言うんですね。

「お前のあの弟」。

あれはお前の弟だよ、と言うんですね。

家族だよ、みんな神の家族なんだよ、と言ってくださるんです。

そして、この兄をも、宴会に招いてくださるんです。

父の愛の中で、互いに愛し合うことができるように。

それがこの、教会という場所なんですね。

私たちは皆、この兄のようであり、弟のようなものです。

けれども神様は、私たちを、このように招いてくださり、大きな愛の中に包んでいてくださるんですね。

それが神様にとって一番大きな喜びなんです。

私たちも、喜びましょう。

喜んでいいんです。

暗い顔をして悔い改めるなんて言うのは、このように神の家に招かれている私たちにはふさわしくありません。

私たちには皆、欠点があります。

弱点もあります。

それなのに自分は正しいと言い張ってしまうことがあります。

けれども、神様は、そんなことはどうでもいいくらい私たちのことを愛しておられて、私たちを、ご自分のそばに招き寄せてくださるんです。

私たちは、神の家族。

神様は、ご自分の家族をどこまでも愛してくださる。

そのことを、一緒に喜びましょう。

それが、教会というものなんだと思います。