今週の説教「世の人にならう」(ルカによる福音書16章1-13節)

【今週の予定】

●3月13日(月)牧師週休日
●3月14日(火)火曜礼拝(9:00~10:00)、イースター演劇に向けての劇団稽古(16:00~19:00)
●3月15日(水)牧師の会議(16:00~17:00)、加入準備会(18:00~19:00)、聖書を読む会と祈り会(ウェストミンスター小教理問答の学び、19:30~20:30)
●3月16日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)、イースター演劇に向けての劇団稽古(19:00~22:00)
●3月17日(金)コーヒー・ブレイク(聖書を読んで、自由に意見を出し合う試み、10:00~14:00)
●3月18日(土)イースター・チャリティー演劇(14:00~15:00)

●3月19日(日)受洗準備会(9:00~10:10)、礼拝(10:30~12:00)、食事会、イースター・チャリティー演劇(14:00~15:00)、掃除

★3月19日(日)の説教

説教者:スパーリンク宣教師

聖書箇所:使徒言行録20章25節から35節

説教題:「しっかりと立つ教会」

ルカによる福音書161-13

1イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

 

 

今日もまた、たとえ話ですね。

実は今日の話は、福音書の中で一番難しい話だと言われています。

読んでみるとすぐにお分かりになるでしょうが、困ってしまいますね。

まるでイエス様は、不正をするように勧めているようにも見えます。

たとえ話の中の不正な管理人を、ひとつの模範として弟子たちに示しているんですね。

どうしてこんな人が模範になるんだろうか、むしろ模範にしたくないと私たちは思います。

けれども、9節でイエス様ははっきりと、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とおっしゃっているんですね。

これはいったいどういうことなんでしょうか。

まずはこのたとえ話をよく読んでみたいと思います。

 

主人の財産を任せられている管理人がいました。

その管理人は主人の財産を無駄遣いしていたために解雇されることになりました。

それにあたって、最後に主人は会計の報告を出すように命令します。

けれども、その管理人は、肉体労働もできないし、物乞いもしたくない。

管理人の仕事を辞めさせられたら、もうどうしようもなくなるわけです。

そこで、主人に借りのある者たちを呼んで、会計の数字を書き換えさせます。

報告を出せと言われているのに、報告する数字を不正に書き換えさせるわけです。

このようにして、主人に借りのある者たちに感謝させるわけです。

何のためかというと、こういうふうにしておいて、自分が仕事を辞めさせられたあとに、自分を迎え入れてくれる友達を作るわけですね。

なるほど、世間ではありそうな話です。

けれども、この話をイエス様は模範として語るんですね。

こんな悪い行いを、抜け目がなくて賢いと言うんですね。

確かに、抜け目のないやり方です。

この管理人は、与えられている権限を用いて、今いるところにいられなくなったあとの自分の居場所を作り出したわけです。

しかし、どうしてイエス様はこのようなやり方をほめるんでしょうか。

これは紛れもなく不正なやり方です。

こんなことをされては、主人の方はたまりません。

 

ただ、イエス様は確かにこの管理人をほめているんですね。

8節で、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と書かれていますが、この翻訳は間違っています。

ほめたのは、たとえ話の中の主人ではなく、主であるイエス様です。イエス様がほめているんです。

日本語の文章では会話の文章は括弧でくくられますが、新約聖書が書かれたギリシャ語にはそういうものはありませんので、そのあたりがわかりにくいんですが、8節の主人はたとえ話の主人ではありません。

たとえ話の主人は、財産を無駄遣いしている管理人をクビにしようとしているんですから、こんなことをされて、ほめるはずがありません。

それだけでなくて、7節までの「主人」という言葉、これはたとえ話の中の主人のことを指しているんですけれども、この「主人」には、原文で見ますと全部、「彼の」とか「わたしの」という言葉がくっついているのに、この8節だけは、単に、「主人」という言葉になっているんですね。

ですからやっぱりこれは主であるイエス様のことでしょう。

イエス様が、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたということですね。

そして、8節の途中の「この世の子らは」というところからがまた、イエス様の話した内容になります。

「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」。

この「なんとかの子」という表現は、ヘブライ語の表現で、「どういうグループに所属しているのか」を表す言葉です。

「この世の子ら」というのは、この世に属している人たちです。

それに対して、「光の子ら」というのはイエス様の弟子たちのことです。

世の光であるイエス様に属する人たちのことです。

つまり、世の人たちは弟子たちよりも賢いということですね。

これが、イエス様が不正な管理人をほめる理由であるらしいのです。

そして、そのような管理人をまねるように教えられます。

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」。

とんでもない教えです。本当にこんなことをイエス様が言ったのかと驚いてしまいます。

これは、不正な管理人と同じことをしろという話ですね。

ただ、その次の言葉が不思議です。「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。

これはおかしいですね。いくら地上で友達を作っても、永遠の住まいである神の国に入れるわけではありません。

わたしたちを永遠の住まいに迎え入れてくれるのは神さまです。

地上の友達は関係ありません。

ということは、どういうことになるでしょうか。

これは要するに、「不正にまみれた富で神さまを友達にしなさい」と言っているんですね。

そうすれば、この管理人が新しい居場所を得ることができたように、あなたも永遠の住まいに迎え入れてもらえるよ、ということなんです。

……いずれにしろとんでもない教えですね。

やっぱりこんなことをイエス様が言っただなんて信じられません。

ただ、ちょっと注意が必要な言葉があります。「不正にまみれた富」という言葉ですが、この「不正にまみれた」という言葉をユダヤ教の先生たちがつかうとき、それは、「まことの」という言葉の反対の意味になります。

「まことの」神さまに対して、地上は不正にまみれている。

つまりこの、「不正にまみれた」という言葉は、地上とかこの世とか、そういう意味の言葉なんですね。

今イエス様は弟子たちに対して話をしているわけですけれども、15章の2節を見ますと、ここにはファリサイ派や律法学者もいたということですから、ファリサイ派や律法学者というユダヤ教の先生たちもこの話を聞いているんですね。

そこでイエス様は、その先生たちがつかう言葉づかいで話しておられるんです。

とにかく、「不正にまみれた」という言葉は、地上とかこの世とか、そういう意味の言葉なんです。

ということは、イエス様のおっしゃりたいことはこうです。

「この世の富で神さまを友達にしなさい」。

つまり、「この世の富を、神さまを友達にするために用いなさい」。

管理人のたとえ話をした後ですから、それも含めて考えますと、「あなたが管理を任せられているこの世の富を、神さまを友達にするために用いなさい」。

そういうことになります。

 

不正な管理人がそうであるように、この世の子らは、自分の仲間を作るために抜け目なくふるまいます。

与えられているものを最大限に活かして、自分の未来を確かなものにするために考えて、行動するんですね。

それと同じように、あなたがた光の子らも与えられているものを最大限に活かして、神さまを友達にしなさいということなんですね。

新しい場所である神の国に入ることができるようにです。

 

イエス様がわざわざこんな話をなさったということは、この世の子らのような一生懸命さというのが、光の子らにはないということです。

この世の子らは「どんなことをしてでも居場所を確保する」という思いがあるのに、光の子らにはそれがないということですね。

「どんなことをしてでも神の国に入るんだ」という思いがない。

イエス様はそれを戒めるために、こんなたとえ話をなさったんです。

「この地上で与えられているすべてのものを用いて、なんとしてでも神の国に入りなさい」。

これが、イエス様の言いたいことなんです。

 

しかし、まだひとつ、このたとえ話でわからないことがあります。

このたとえ話の中の主人は、管理人に不正な行いをされて、かわいそうな気がします。

なんだか一人だけ損をしているような感じです。

これはどうなるんでしょうか。

これはこれでいいんでしょうか。

実は、この主人は、こんな不正をされても仕方のないような人なんです。

はっきり言って、この主人が大体不正な人なんです。

証拠があります。

この主人が貸していた油は「百バトス」ですね。

小麦は「百コロス」です。

「百バトス」は2,300リットルです。

「百コロス」はその十倍で、23,000リットルです。

ものすごい量です。

いったい何年くらいかけて、これだけ借りたんでしょうか。

油を使うといっても、当時は工場も車もありません。

また、小麦百コロスというのは、一人の人が、一生かかって食べきれないくらいの量です。

実はこれが、この主人が聖書に違反しているという証拠になります。

旧約聖書の申命記に、イスラエルでは、「七年目ごとに負債を免除しなければならない」という掟があるからです。

何かを借りていたとしても、七年経つと、もう返さなくていいんですね。

全部の借金が帳消しになるんです。

貧しい人が少しでも減るようにと、このようなルールがイスラエルの民には与えていました。

そこのところには、こういうふうに書かれています。

この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。

この主人がやったことというのは、この聖書の言葉を踏みにじるような行いです。

ですので、このたとえ話は、最初から最後まで全部、不正にまみれた話なんですね。

不正にまみれた、この世の話であるわけです。

 

ただ、この話はこの世を批判するだけでは終わりません。

ここから、イエス様はご自分の弟子たち、光の子らを励まします。

10節。

ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。

これはユダヤのことわざです。

といっても、どこの国にもこれに似たことわざはあるのではないかと思います。

イエス様は今度はこういう、誰にでも納得できることわざを持ち出してくるんですね。

ここから、イエス様は、弟子たちを納得させるために語りはじめます。

 

話の内容がここから少し変わってきていますね。

今までは、「神の国に入るために、この世で与えられたチャンスを活かして一生懸命やりなさい」という話だったんですが、今度は「小さなこと」とか「大きなこと」とか、「忠実」とか「不忠実」とか言われています。

こういうことをおっしゃるということは、光の子である弟子たちは、神の国に入るという大きなことを、この世の事柄と分けて考えてしまっていたということだろうと思います。

「サンデー・クリスチャン」という言葉がありますね。

日曜日はクリスチャンとしての自覚を持って過ごすけれども、それ以外の日は世の人と同じように生きている人たちを「サンデー・クリスチャン」と呼ぶんですね。

イエス様がおっしゃっておられるのは、それではいけないということです。

「神の国に入るために、この世の事柄に取り組みなさい」ということですから、ですから、事柄に大きいも小さいもないんですね。

どんなことであろうとも、すべては、神の国に入るために用いるべき事柄なんです。

そのために、いつでも神さまに対して忠実でなければならない。

不忠実という言葉は不正な管理人というときの「不正」という言葉と同じ言葉なんですが、神さまに対して不正であっては神の国には入れないんですね。

 

続けて、イエス様はこうおっしゃいます。

不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」。

これはユダヤ独特の言い回しです。

同じことを、2回続けて、違う言葉で言うんですね。

11節と12節は同じことを言っているんです。

ですから、11節の「不正にまみれた富」というのは、12節の「他人のもの」ということです。

光の子はこの世に属していませんから、「不正にまみれた富」、つまり「世の富」は「他人のもの」であるわけです。

わたしたちは言ってみれば、この地上で、神さまから預かったものを管理しているわけですね。

自分のものとしてではなく、他人のものとして。

ですから、今日、イエス様は、管理人のたとえ話をなさったわけです。

同じことをちがう言葉で言っているのは、それだけではありません。

11節の「本当に価値あるもの」というのは、12節の「あなたがたのもの」だということになります。

そして、「本当に価値あるもの」という言葉は、原文では、「まことのもの」という言葉です。

この「まこと」という言葉は、「不正」という言葉の反対の意味になります。

これはイエス様の言葉で言うと、永遠の住まい、神の国のことです。

ここでイエス様の言いたいことははっきりしていますね。

あなたがたがこの地上で管理を任せられているものを、神さまに対して忠実に用いるならば、神さまはあなたがたに神の国を与えてくださるんだよということです。

最後に、もうひとつ、イエス様は話をなさいます。

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。

一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない」というのは、これもやっぱりことわざです。

どこの国にもありそうなことわざですね。

神に仕えなさいということですね。

富を主人にしてはならないということです。

こんなことが言われるということは、弟子たちは、神だけでなく富をも主人にしていたということです。

「まことのもの」と「不正なもの」と、その両方に仕えることができると、弟子たちは考えていたということになります。

そんなことはできませんね。

「まことのもの」と「不正なもの」は、正反対ですから。

神の国とこの世は、どちらかしか選ぶことはできないんです。

 

もしここで、「皆さんは神の国とこの世と、どちらを選びますか」と聞いたとしたら、答えは簡単ですね。

しかし、そんな簡単なことのために、イエス様はここまで長々とお話しくださったんですね。

私たちが、なかなか神様に対して忠実でないからです。

ある意味、私たちは、このたとえ話の中の管理人に似ているのではないでしょうか。

私たちも、神様が与えてくださったいろいろな形での財産を、無駄遣いしていないでしょうか。

私たちは、すべての機会に、神様に対して忠実であることはなかなかできないんですね。

 

そうなりますと、さあ、これから大変だ、という気持ちになってしまいますが、考えてみると、私たちがなかなか自分の力では忠実になれないから、神の子であるイエス様が私たちのところに来てくださったんですよね。

そして、イエス様が私たちのためにしてくださったのは、この不正な管理人がしていたことと同じことではないですか。

イエス様は、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに十字架につけられてくださったわけですけれども、聖書では、罪というのは、借金にたとえられるんですね。

不正な管理人は不正な仕方で借金を減らしてくれたわけですが、イエス様は、私たちの借金を全部肩代わりしてくださったんです。

不正な管理人が借金を減らしてくれた金額は、油にしても小麦にしても、現在の日本円にして500万円分です。

けれども、私たちの罪の値段はそんなものではありません。

イエス様は、私たちの罪を借金にたとえるとき、それは金額にして1万タラントンだ、現在の日本円にして6,000億円だ、とおっしゃいます。

私たちはみんな、一人ずつ、6,000億円の借金を負っているんです。

それを全部、肩代わりしてくださった。

どうしたって私たちには返すことができない借金だから、代わりに返してくださった。

そして、私たちに永遠の住まいをもう用意してくださっている。

私たちはどれくらい、イエス様に感謝すればよいでしょうか。

どれくらい感謝すれば、きちんと感謝したということになるでしょうか。

とにかく、感謝しましょう。

感謝があるなら、特にそうしようと思わなくても、私たちは自然に、神の前に忠実であることができると思うんです。

私たちにはできないことをイエス様はしてくださって、私たちを救ってくださった。

それより大きな喜びってないですよね。

なんたって、6,000億円なんですから。

そのことを、いつも喜んで、感謝していたいと思います。

光の子として、生きていきましょう。