
クリスマス演劇の動画をアップしました!

【今週の予定】
●3月13日(月)牧師週休日●3月19日(日)受洗準備会(9:00~10:10)、礼拝(10:30~12:00)、食事会、イースター・チャリティー演劇(14:00~15:00)、掃除
★3月19日(日)の説教
説教者:スパーリンク宣教師
聖書箇所:使徒言行録20章25節から35節
説教題:「しっかりと立つ教会」

イザヤ書53章
1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。2乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。9彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
11彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。12それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
預言者イザヤは、紀元前8世紀の人です。
この人は当時の歴代の王たちのために、神の言葉を伝える働きをした人でした。
この人はここで、イエス・キリストのことを預言しているんですね。
キリスト誕生の8世紀も前に、キリストの働きを預言しています。
けれども、イザヤは、ここで驚いているんですね。
最初から、こう言っています。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」。
自分が聞いた神の言葉を、イザヤは信じられないでいます。
みすぼらしいひとりの人。
その人に、多くの人の罪が負わせられた。
それによって、多くの人が救われた。
イザヤは、そんなことは信じられないと言うのです。
これを信じられないのはもっともです。
このイザヤ書53章は、まるで人間がいけにえにされたというような話ですね。
けれども、旧約聖書にはどこにも、人間をいけにえにしろというような話は出てきません。
そもそも、人間がいけにえになりうる、人間に他の誰かの罪を背負わせることができるということはどこにも書かれていないのです。
もっと言うと、聖書には、いけにえを求めない神の姿も描かれています。
旧約聖書のホセア書にはこのような言葉があります。
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(6:6)。
神はいけにえよりも愛を喜ぶ。
それなのに、このイザヤ書53章では、人間がいけにえになったというんですね。
しかしこれ、よく読んでみると、ただのいけにえではありませんね。
普通いけにえと言ったら死んで終わりです。
けれども、この人は死んで終わりではないですね。
最後の11節12節あたりですが、この人は自分が苦しんで死んだことで救われた人たちを見て、満足するんですね。
死んで終わりではありません。
それどころではないですね。
11節の後半に、「わたしの僕(しもべ)は(……)彼らの罪を自ら負った」と書かれています。
自ら、です。
自分から、です。
自分から人々の罪を背負うんですね。
そんないけにえはいません。
そもそも、普通の人間が誰か他の人の罪を背負うことなんてできません。
それも、多くの人の罪を自分一人で背負うことなんてできるはずがないのです。
ですから、この人はただの人間ではありません。
しかし、だからこそ、イザヤはそれを信じることができません。
ただの人間ではない方が、もっとはっきり言いますと、神が、私たちの罪や弱さを背負って苦しんでくださる。
私たちの代わりに罰を受けてくださる。
そんなことがあるでしょうか。
神がそんな弱い、みじめな姿を、人前にさらすことがあるでしょうか。
イザヤだけではありません。
そんなことは誰も信じられません。
4節の後半を見ると分かりますが、人は皆、苦しむこの人を見て、神が彼に罰を与えているんだと思っているんですね。
当然と言えば当然です。
人間は皆そうだと言ってもいいでしょう。
私たちは、弱さや苦しみについて、まして、死について、そこに積極的な意味を見出そうとはしないのが普通です。
弱さも苦しみも死も、マイナスの状態ですね。
そこに何かプラスの意味があると考えることは、私たちにとって自然なことではありません。
しかし、この方は違うんですね。
先ほど11節でみましたが、自分が人々の罪を背負って代わりに罰を受けるなら、多くの人が正しい者とされる、つまり、救われる。
だとしたら、自分が弱められて死んでも構わない。
これが神の考えなんですね。
私たちは、弱さも苦しみも死も、嫌がります。
何とかしてそれを避けようとします。
ある意味で、私たちがしているすべてのことは、弱さや苦しみや死を避けるためのことです。
けれども、神はそうではない。
神はご自分から、完全な弱さの中に立ち続けることができるんですね。
けれどもそれは、なんという力強さでしょうか。
一体どのような人間が、そのようなことをすることができるでしょうか。
私たちにはそうすることはできません。
私たちは、弱さを嫌がる。
それは、私たちが弱いからです。
弱いから、自分の弱さを認めることができず、弱さを何とかして避けようとする。
弱さに意味を見出すことができない。
だから、先ほどの4節ですが、弱めれている人を見ると、何かの罰なんだろう、と考えることしかできない。
それが人間ですね。
しかし、神はそうではない。
自分の命を捨てることができるほど、弱さに徹することができるんですね。
そこには私たちが想像することもできないほどの力強さがあります。
この、弱さに徹する姿に、神の強さが極まっているんですね。
しかし、それでもなお、思います。
この方の取り分、これは、どうでしょうか。
12節ですが、この人の報酬は、人なんですね。
この方によって救われた人々。
それだけがこの方の取り分です。
けれどもこの、救われた人々と言うのは、言ってみれば、この方が苦しんでいる時、その苦しみを理解しなかった人々ですね。
彼が苦しんでいるのは、罰が下ったんだと考えていた人たちです。
そのような人を、この方は受けることになります。
私たち人間の考えなら、そんなのは要らないというでしょう。
しかし、この方は違うんですね。
11節にある言葉ですが、この方はそれを知って満足するんです。
一体どれほど私たちを愛していれば、そのようになることができるんでしょうか。
私たちは、何よりも自分を愛しています。
だから私たちは弱さを避けますし、自分の弱さを認めることができません。
けれどもこの方はそうではない。
何よりも私たちを愛しておられる。
だから、私たちのためにどこまでも弱さに徹することができるんですね。
神は、私たちの考える神とは違っていたということです。
神は、強さによって人を救う神ではありませんでした。
人になられて、私たちの罪を、病を、痛みを負ってくださる方だったのです。
天の上におられたままで、私たちをしっかり立たせようと、高いところから引っ張り上げるような方ではなかったのです。
ただ、思うのです。
もし神が、天の上におられたままで、私たちをしっかり立たせようと、高いところから引っ張り上げるような方だったとしたら、私たちはまるで神の操り人形です。
そうではない。
神は私たちのことをご自分の操り人形としては見ておられない。
神は私たちを愛しておられる。
私たちの弱さも死も引き受けることができるくらいに、神は私たちを愛しておられる。
だから私たちは信じることができます。
私たちが弱さの内にある時、それは、神が私たちを見放した時ではない。
神はその時、私たちのそばにおられる。
神はその時、私たちを背負ってくださっている。
だから私たちは、自分の強さにこだわる必要はないんです。
強さにこだわるのは弱い証拠です。
神は、その弱い私たちを愛し、背負ってくださる。
神は私たちが弱さを乗り越えたところで私たちを待っておられるような方ではないのです。
私たちが弱さを乗り越えた時にだけ、良くやった、と私たちをほめてくださるような方ではないのです。
4節にありますね。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛み」。
これは発見です。
神の真のお姿の発見です。
それまでだれも考えもしなかった神の姿です。
だからこそ、救いがある。
神は、私たちの強さをほめる方ではありません。
私たちに強くなるようにと励ます方でもありません。
弱さを担ってくださる方なんです。
そのために、居ても立ってもいられずに、私たちのところにまで降りてきてくださる方なんです。
だから私たちは信じることができます。
私たちが弱い時、神は私たちの隣にいる。
そのようにして、神は私たちをご自分のものとしてくださるんですね。
それが12節ですが、私たちはこの方のものなんですね。
誰かのものとされる、それは、私たちには、弱さの響きを持つ言葉として聞こえます。
しかしそこにこそ、救いがあるんだと思います。
神は私たちと共にいてくださり、私たちを背負ってくださるだけでなく、私たちをご自分のものとしてご自分のもとに引き寄せてくださる。
これが、神の真のお姿です。
それまでだれも考えもしなかった神の姿です。
そこには、ご自分の命よりも私たちを愛する、という純粋な愛の結晶があるのです。
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