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【今週の予定】
●3月27日(月)埼玉西部地区教師会(11:00~15:00)
ルカによる福音書16章14節から18節
14金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。16律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。17しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。18妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」
今日の話ですが、先週のイエス様の話を聞いていたファリサイ派の人の反応ですね。
「イエスをあざ笑った」、バカにして笑ったということなんです。
どうしてそんなことになってしまったのかというと、先週のイエス様の話ですね。
この前の話の一番最後のところ、今日の場面の直前のところで、イエス様はおっしゃっていますよね。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
そう言われています。
神を主人にしながら、富も主人にするということはできない。
神と富の両方に仕えるということはできない。
そういうお話がありました。
これはだれにとっても分かりやすい話ではないだろうかと思いますが、ファリサイ派の人たち、この人たちはユダヤ教の指導者ですが、この人たちはこの話をバカにして笑ったんですね。
この人たちは、ここに書かれている通り、「金に執着する」人たちでした。
この「金に執着する」という言葉は、「金を愛する」という言葉です。
心がお金に向かっている、そういう人たちだったわけです。
お金が目的になってしまっているんですね。
お金というのはそれを使って何かをする、という手段であるはずですが、それが目的になってしまっていたんです。
どうしてユダヤ教の指導者がこんなことになってしまったのかと思いますが、この人たちは、神を信じれば富も与えられると考えていたんですね。
神を信じるなら、神の前に正しい生き方をするなら、お金のことでも心配しなくて良くなると考えていたんです。
それは必ずしも間違ったことではありません。
神の前に正しい生き方をするなら神はその人のことを守ってくださる、その人の生活も守ってくださるという言葉は、旧約聖書にもありますし、そのように理解することのできるイエス様の言葉もあります。
ですから、ファリサイ派の人たちが神を信じれば富も与えられると考えたこと自体は聖書的に間違っているということではありません。
問題は、この人たちが、金を愛しているところにあります。
神を愛しているんじゃないんですね。
金を愛しているんです。
お金は、正しい生き方をした、正しい信仰をもった、神を愛した、その結果として与えられるものなのに、そればっかりを目的にしてしまっているんですね。
お金は後からついてくるものなのに、そのことだけを考えているんです。
だから、イエス様の話についていけないんですね。
イエス様は、お金を否定したわけではないですよね。
イエス様はこう言ったんです。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。
神を主人にしながら、富も主人にするということはできない。
お金は後からついてこない、と言ったわけではないんです。
何を自分の主人にするのか、と言っただけです。
それなのに、ファリサイ派の人たちはそれをバカにして笑うんですね。
神を愛さず、金を愛しているからです。
まして、この人たちは、人に自分の正しさを見せびらかすような人たちだと言われていますね。
イエス様がそのことを指摘していますけれども、要するに、イエス様をみんなの前であざ笑うことで、周りの人たちに自分の正しさを示して、見せびらかそうとするんですね。
そうやって、自分がほめられたいんですね。
つまりこの人たち、人からの報いを求める人たちなんです。
自分は正しい。
正しい信仰を持っていて、正しい行いをしている。
だから、自分には報いがあるはずだ。
この人たちの心の中にはいつもこういう考えがあるんですね。
だから、お金を求めるんです。
自分は正しい人間だから、報いとしてお金が与えられて当然だ。
そういうふうに考えるんです。
ですので、この人たち、自分では正しいつもりでいるんですが、もう完全に神様のことはそっちのけで、お金を主人にしてしまっている、お金に仕えているという感じですね。
そしてそれに、自分では気づいていない。
イエス様はこの人たちに言いました。
「神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」。
「忌み嫌われる」という言葉が出てきました。
聖書ではこの言葉は偶像礼拝にもつかわれる言葉です。
神でないものを神にしてしまうことを聖書では偶像礼拝と言いますが、偶像礼拝という言葉とセットになって、この言葉、神が「忌み嫌われる」という言葉がつかわれるんですね。
イエス様は、この人たちが、自分では正しい信仰を持っているつもりなのに、実際のところお金を神にしてしまっている、偶像礼拝をしてしまっているということを見抜いておられるわけです。
けれどもここでイエス様は、それをストレートにおしかりになることはありませんでした。
しかりつける代わりに、こう言ったんですね。
「律法と預言者は、ヨハネの時までである」。
これも分かりにくい言葉ですが、当時の人たちはすぐに分かったと思いますね。
まず、「律法と預言者」というのは旧約聖書のことです。
ファリサイ派の人たちは、自分は聖書に従った生活をしていると考えていたわけなんですが、その人たちに、旧約聖書はヨハネの時までだ、と言ったんですね。
ではヨハネとはだれなのかというと、イエス様が登場してくる準備をした人です。
この人はイエス様よりも先に世に出ていたんですが、もうすぐイエス様が来られることを知っていて、「天の国は近づいた」とメッセージしていたんです。
こういうことですから、イエス様としてはこういうお考えなんですね。
旧約聖書はヨハネの時までだ、あなたがたファリサイ派の人たちは、旧約聖書の言葉を守って、その言葉を行って、天国に入ろうとしているけれども、その時代はもう終わった、ということです。
では今はどういう時代なのかというと、この続きのところですね。
「それ以来」、つまりヨハネ以来、「神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。
今は、神の国の福音が告げ知らされている時代なんです。
ここで「神の国」という言葉が出てきていますが、聖書では「神」という言葉と「天」という言葉は同じように使われますから、「神の国」というのは天国ということですね。
ただこれは、必ずしも死んだ後になってしか入れないところではありませんでして、「国」という言葉は「支配」という言葉ですので、「神の国」というのは神様のご支配ということになります。
この世は、罪の支配のもとにある。
「罪」という言葉は「的外れ」という言葉なんですが、ファリサイ派のように、自分は正しいつもりで的外れになってしまっている。
そのような罪に、人間はみんな支配されている。
けれども、そこに神の国が近づいて来た。
神の国の方から近付いてきた。
神様のご支配が近づいてきた。
私たちを、罪の支配から救い出すために。
これ、まさに、福音ですよね。
「福音」というとなんだか意味が分かりませんが、原文では、「良い知らせ」という言葉です。
簡単な言葉なんですが、実はこれは専門用語でして、ちょっとびっくりするかもしれませんが、戦争の専門用語なんですね。
ある国とある国が戦争をした。
例えばですが、アテネという国とペルシャという国が戦争をした。
マラトンという場所で戦争をした。
この戦争にアテネが勝つんですが、マラトンという場所はアテネから離れていましたから、戦争に勝ったということを伝えるために、足の速い人が走ってそれを伝えに行くんですね。
マラトンからアテネまで走って行くんです。
これが後にマラソンというスポーツになっていくんですが、その、勝ったという知らせ、これが、「良い知らせ」なんですね。
まさに良い知らせですよね。
その知らせを聞く人は、アテネの町にいてその知らせを聞くんですから、その知らせを聞く人は自分が戦ったわけではないんですね。
自分が戦ったわけではないんですが、勝ったという知らせを聞いたんですね。
これは、神の国の福音も同じですよね。
ファリサイ派の人たちは、自分で頑張って、正しい行いをして、そこに入ろうとしていた。
まあ、この人たちは自分では正しい信仰を持っているつもりで、実際のところお金を神にしてしまっていたんですが、とにかく、自分の力で頑張ろうとしていた。
けれども、そういう状況ではなくなったんですね。
神の国が、神の国の方から、こちら側に近づいて来たんですから。
そこで、「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。
ということは、どういうことか。
だれもが入ろうとしているんです。
つまり、だれにでも入る資格はあるんです。
正しい行いをする、ということが条件ではないんですね。
入りたいと思っている人が入るんです。
神の国はそういうところだと言うんですね。
けれども、続けてこう言われています。
「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」。
旧約聖書の言葉は永遠だ、ということですね。
さっきは旧約聖書はもう昔のものだ、と言われたんですが、これは一体どういうことなのか、という気持ちになりますが、旧約聖書の言葉は永遠です。
神様の御心は変わらない。
神様が何を尊び、何を忌み嫌われるか、それは変わりません。
問題は人間の側にあります。
ファリサイ派の人たちは、旧約聖書の言葉を守っているつもりなんですけれども、的外れなんですね。
それが問題なんです。
それは聖書を読む人間の側の問題です。
神様が間違っているわけではありません。
大事なのは、心なんですね。
心の中に、本当に神様に従う気持ちがあるか。
正しいと思ってもらいたくて、人にほめてもらいたくて、自分の行いを人に見せびらかしているんじゃないか。
神様を主人にしているつもりで、何か他のものを主人にしてしまっていないか。
もしそんなことになってしまっているんだとしたら、その人は神の国、神の支配にはふさわしくないですね。
罪の支配を喜んで受け入れているんですから。
ただ、人間というのはそういうところで間違いやすいんですね。
聖書は、人間は皆罪びとだ、人間は皆的外れだと言います。
その一つの例が、最後の18節です。
「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。
離婚の話ですね。
イエス様はここで、離婚してはいけないと言っているように見えます。
実は、ファリサイ派の人たちは、簡単に離婚をゆるしていたんですね。
旧約聖書の申命記の24章1節にこんな決まりがあったんです。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。
こういう言葉がある、ということでファリサイ派の人たちは発見したように喜びまして、簡単に離婚を許していたんです。
「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった」ら、もう離婚していい、というふうに、ファリサイ派の人たちは教えていました。
そうなりますと問題は、妻の恥ずべきこと、妻の恥ずかしいこと、これは一体何なのか、ということになりますが、あるファリサイ派の人は、これについて、料理をこげつかせたこと、これがもう恥ずかしいことで、これでもう離婚していい、というふうに教えていたんですね。
とにかく、何かちょっとしたことでも、それはダメだ、それなら離婚だ、ということになるわけです。
しかし、結婚というのは、そもそもどういうものだったでしょうか。
結婚は神様が定めてくださった制度で、神様が、二人を一つにしてくださることですよね。
それなのに、簡単に離婚しようとするとはどういうことでしょうか。
もちろんこれは、離婚がいけないということではありません。
現実的に、そうするより他ない状況もあるわけです。
だからこそ、先ほどお読みした申命記24章1節のような離婚の手続きが定められているわけです。
けれども、そのような言葉があるからといって簡単に離婚するとなると、どうでしょうか。
それは神様の御心を踏みにじることにはならないでしょうか。
これがファリサイ派の人たちの問題ですね。
ファリサイ派の人たちは聖書の文字は守るんです。
守ろうとするんです。
けれども、そこにある神様の御心は考えないんですね。
神様を愛していないからです。
そう考えますと、この離婚の話も結局は偶像崇拝の話につながります。
神様は神以外のものを神にすることを忌み嫌われるわけですが、この偶像崇拝のことが、聖書の中で、姦淫の話、不倫の話として描かれることが良くあるんですね。
大事なのは結局そこですね。
神様を愛すること。
神様を主人にすること。
神の国に入る、神様のご支配に入るというのはそういうことだと思います。
イエス様も今日、「神はあなたたちの心をご存じである」とおっしゃっていますけれども、大事なのは心ですね。
まして、私たちには、本当の福音が告げ知らされています。
福音。
良い知らせ。
私たちが、自分で戦って勝ち取ったたわけではないんですが、私たちに与えられた、良い知らせ。
イエス様が、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに十字架で罰を受けてくださって、私たちを罪の支配から解放してくださった、という知らせを、私たちはもう聞いています。
私たちはもう、神の国にいるんです。
神様のご支配の中に、もう入れられているんですね。
私たちが、戦って勝ち取ったわけではないんです。
私たちは、自分の町にいて、その知らせを聞いただけです。
けれども、私たちは、その勝利に、イエス様の勝利に、あずかっている。
このようにしてこの場所で、神と向かい合って、神の御心に聞くことをゆるされている。
そのために、イエス様はムチで打たれました。
釘で手足を貫かれました。
6時間もその状態で、十字架につりさげられました。
簡単に勝利したわけではないんです。
想像できないほどの恐怖と苦痛に耐えてくださった。
どうしてそこまでしてくださったのか。
私たちを愛していたからです。
私たちを愛していたから、罪に支配されている私たちをもう見ていられなかった。
何としてでも助けたかった。
神様のもとに連れ戻したかった。
ご自分の命よりも、私たちの方が大事なんです。
それが御心なんです。
だから、私たちのために命を投げ捨てて、私たちのために救いを勝ち取ってくださった。
私たちはその福音に、生かされているんです。
生きているんじゃないんです。
生かされているんです。
神を、愛しましょう。
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