今週の説教「金持ちと貧しい人」(ルカによる福音書16章19-31節)

【今週の予定】

●4月5日(水)監督宣教師と牧師の懇談会(16:30~18:00)、加入準備会(18:00~19:15)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30~20:30)
●4月6日(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00~14:20)
●4月7日(金)東部中会第一回定期会(8日〔土〕まで)
●4月9日(日)キリスト教講座(9:00~10:10)、礼拝(10:30~12:00)、お茶会、ゴスペル練習(13:00~14:30)、掃除
★4月9日(日)の説教
説教者:尾崎牧師
聖書箇所:ルカによる福音書17章1節から10節
説教題:「しなければならないこと」

ルカによる福音書1619-31

 

19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

 

 

 

 

今日の場面ですが、イエス様がある物語を語ってくれているわけですが、実はこれ、とても珍しい場面です。

 

何が珍しいのかと言いますと、この物語に出てくる貧しい人ですね。

 

この人には、ラザロという名前が付けられているんです。

 

これがとても珍しいんです。

 

イエス様がたとえ話なんかをなさる中で、その登場人物に名前を付けているのは、実はここだけなんですね。

 

ということは、なんだかここに意味がありそうです。

 

このラザロ、という名前ですが、エリエゼルという名前を短くしたもので、意味は、「神が助ける人」という意味になります。

 

神様がこういう人を助けてくださるんだ、ということをイエス様は強調したかったんでしょうか、わざわざここで名前を付けているんですね。

 

そうなりますと、今日の物語を聞いた私たちは思います。

 

このラザロを神様は助けてくださったわけだけれども、この物語に出てくるお金持ちは、ラザロを助けなかったんだろうか、とそう思ってしまいます。

 

そして、このお金持ちはラザロを助けなかったから、このお金持ちは地獄に落ちたんだ、と思ってしまいます。

 

実際、この場面から、そういう説教をすることが多いようなんですね。

 

人を助けるというような良い行いをしないと、こういうことになるよ、だから、困っている人を見たら助けてあげましょうね、という話になるんですね。

 

けれども、そうなんでしょうか。

 

このお金持ちはラザロを助けなかったんでしょうか。

 

私は、そうは言えないと思います。

 

なぜかというと、ラザロは、お金持ちの家の前で横たわっていたんですよね。

 

どうしてかというと、お金持ちの家の「食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと思っていた」からです。

 

ここで、「腹を満たしたいものだと思っていた」なんて書かれていますから、ああ、そう思っていたけれども、そういうふうにはならなかったんだろうな、と思ってしまいそうになりますが、ラザロは、お金持ちの家の前に横たわっていたんです。

 

そこにいようと自分で決めたんですね。

 

この「横たわっていた」という言葉は、原文では「置かれていた」という言葉です。

 

「置かれていた」なんていう言葉を聞くと、これは聖書の他の場面にもあることですけれども、ああこの人は歩けないんだな、だから、誰かがここに連れてきて、ここに置いたんだな、と思ってしまいそうになりますが、この人は歩けない人ではありません。

 

体中できものだらけだったわけですが、歩けないとは書かれていません。

 

ですので、もし、このお金持ちが自分には何も食べ物をくれないということなんだったら、ラザロはわざわざここにいる必要はありません。

 

どこか他の、食べ物をもらえるところに行けばいいんですね。

 

それなのに、ここにいるんです。

 

そして、お金持ちとしても、もしこのラザロに何もしてあげるつもりがないんだったら、ラザロを追い払えばいいんじゃないですか。

 

それなのに、そうはしないんです。

 

追い払わないんです。

 

だからラザロはここにいられるんです。

 

ということは、このラザロが「置かれていた」というのは、お金持ちがラザロをここに置いてやっていた、ということなのではないかと思うんですね。

 

お金持ちがここにラザロがいることを許してやって、食べ物をあげていた、ということではないかと思うんです。

 

だから、このお金持ちは後になって自分が地獄のようなところに落とされてしまった時に、炎の中で苦しみながら、こんなことを言っていますね。

 

「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」。

 

このアブラハムというのは神の民であるイスラエルの人たちの先祖です。

 

信仰の父と呼ばれる人ですね。

 

その人に対して、お金持ちは何と言っていますか。

 

「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」。

 

こんなことを言っているんですね。

 

もし、このお金持ちが、ラザロに何もしてあげなかったんだとしたら、この人、こんなことを言う資格はありませんよね。

 

「ラザロをよこしてください」、これは、自分がラザロを助けていたからこそ言えることです。

 

もしこの人がラザロに何もしてあげていないのにこんなことを言ったんだとしたら、怒られますよ。

 

「お前はラザロが苦しんでいる時に何もしてあげなかったじゃないか。今さらラザロに助けを求めるなんて、どういうつもりだ」、そんなふうに言われてしまいそうです。

 

けれども、アブラハムはそういうふうに答えてはいないですよね。

 

だとしたらやっぱり、このお金持ちはラザロを助けていたんでしょうね。

 

つまりこの人は、少なくとも困っている人に対しては、良い行いをしていたんです。

 

けれども、この人は今、地獄としか言えないようなところに落ちてしまっているんですね。

 

それに対して、ラザロは今、宴会の席についているんです。

 

パーティーをしているんです。

 

まるで天国ですよね。

 

そして、ラザロはラザロで、良い行いをしたとは別に書かれていないんですね。

 

では一体、この二人を分けたものは一体何だったのでしょうか。

 

25節のアブラハムの言葉ですね。

 

「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。

 

この言葉はどのように受け取ったらいいんでしょうか。

 

良いことがあるとその逆に、後で悪いことがある。

 

悪いことがあるとその逆に、後で良いことがある。

 

それだと困りますよね。

 

良いことがあると不安になってしまいます。

 

けれどもこれ、読み進めていくと、そんな簡単な話ではないですね。

 

もう少し先のところを読んでみましょう。

 

27節でお金持ちはなんと言っていますか。

 

「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。

 

このお金持ちは、このままだと、自分の兄弟も大変なことになると思っているんですね。

 

そこで、ラザロを自分の兄弟たちのところに遣わしてくれとお願いしています。

 

けれども、アブラハムはこれにもダメだ、というんですね。

 

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」。

 

こういうふうに言って断るんです。

 

「モーセ」というのは旧約聖書の登場人物で、預言者というのも旧約聖書に何人も出てくる人たちですが、モーセも預言者たちも、神の言葉を伝えた人たちです。

 

ですので、「モーセと預言者」と言ったらこれは、旧約聖書のことなんですね。

 

だからここのところの、「モーセと預言者がいる」という時の「いる」という言葉は、原文では「持っている」という言葉なんですね。

 

つまり、お前の兄弟たちは聖書を持っているじゃないか、それを読みなさい、ということですね。

 

では、聖書を読んでいれば天国のようなところに行けて、聖書を読んでいなければ地獄のようなところに行くことになるんでしょうか。

 

この後のところを読んでみると、これも、そんな簡単な話ではないようです。

 

お金持ちは30節で、こんなことを言っています。

 

やっぱりラザロを遣わしてください、ということで、こう言うんですね。

 

「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。

 

こういうふうに言いました。

 

どうしてこの人が地獄のようなところに落とされたのか、これで分かりますね。

 

この人は悔い改めてなかったんです。

 

そして、この人は、自分の兄弟たちも悔い改めていないと思っているんです。

 

だから、自分の兄弟たちのところに、ラザロが行ってほしいんですね。

 

けれども、悔い改めると言われても、何を悔い改めればいいのか、という気持ちになりますね。

 

私たちには皆、良い面もあれば悪い面もあります。

 

このお金持ちがそうしたように、私たちだって困っている人を助けることもあるでしょう。

 

では私たちは何をどう悔い改めれば良いのでしょうか。

 

これは、「悔い改める」という言葉が分かりにくいんですね。

 

この言葉は、旧約聖書の言葉で言いますと、「立ち返る」という言葉なんです。

 

何に立ち返るのか。

 

神に立ち返るんですね。

 

人間は神から離れてしまっている。

 

神に背中を向けている。

 

そこから、神に立ち返りなさい、ということなんです。

 

これが大事なところですね。

 

このお金持ちにも良い面もあれば悪い面もあったでしょう。

 

そして、良い行いとして、ラザロを助けてあげるということもあったわけです。

 

しかし、それは、天国のようなところに行くか、地獄のようなところに行くかという時に問題にはならないんですね。

 

良い行いをすること自体はもちろん素晴らしいことですが、最終的にどこに行くのか、天国のようなところに行くのか、地獄のようなところに行くのかという時には、良い行いをしたということは取り上げてはもらえないんです。

 

大事なのは、神に立ち返ったか、立ち返らなかったか。

 

それが、26節にこういう言葉が書かれていますが、どうしたって渡ることのできない大きな淵なんですね。

 

神に立ち返ったか、立ち返らなかったか、それがもう決定的なことなんですね。

 

このお金持ちは、自分の考えで良い行いをすることもあったわけですが、神に立ち返ってはいなかったんです。

 

聖書はそれが人間の罪だと言うんですが、この人は結局、自分中心だったんですね。

 

自分中心に物事を考えて、行動していた。

 

神様からは離れてしまっていた。

 

この人の心の中に神様はいなくて、単に自分の判断で、ラザロを助けてあげただけだった。

 

これが良くなかったということなんですね。

 

大事なのは、心の中のことなんです。

 

自分中心ではなく、自分の心の中心に、神様がいるということ。

 

自分よりも上に、神様がいるということを認めるということなんですね。

 

アブラハムの言葉の中に、そういう感覚の言葉が見えますね。

 

25節の言葉ですが、こういうことを言っていますね。

 

「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」。

 

「もらっていた」と言っているんですね。

 

自分の置かれた立場や状況は、もらうものなんですね。

 

私たちはそれを自分の力で作り出したものだと考えたり、自分の力が足りなかったからこうなってしまったと考えたりしますけれども、それは自分中心の考え方ですね。

 

そうではないんですね。

 

神中心に考えるのなら、「もらっていた」ということになります。

 

このお金持ちは、自分がお金を持っていることを、自分の力でお金を稼いだんだと考えていたんじゃないですか。

 

もちろん、ある面ではそれは正しいんでしょうが、自分よりも上に神様がいるということを認めているのなら、「もらっていた」ということが見えてくるはずだったのではないかと思います。

 

人間の力なんて言っても、本当の意味で私たちが自分の力でどうにかできることは本当に限られていますよね。

 

人間のほとんどの面は、どの家に生まれてくるか、とか、誰と出会うか、という、私たち自身では決められないことによって決まってしまうものだと思うんですね。

 

そう考えるなら、自分よりも上に神様がいるということも認めることができるはずじゃないですか。

 

けれども、このお金落ちは、そうすることができなかった。

 

神に立ち返ることができなかったんですね。

 

これで、ラザロが天国のようなところに行ったことも分かりますよね。

 

ラザロは、最初から自分の力に頼れないんですよね。

 

自分中心であったのでは生きていけない人です。

 

誰かに頼るしかない人なんです。

 

そのようにして生きていく中で、ラザロは、自分が神様の恵みによって生かされていることに気づいていったんじゃないでしょうか。

 

ラザロはそんなふうにして、神様に立ち返ったんですね。

 

だから、今は報いを受けているんですね。

 

天国のようなところでパーティーをしているんです。

 

神に立ち返った報いです。

 

それに対して、お金持ちは、たくさんのものを神様からいただいていたのに、立ち返らなかった報いを受けることになったんです。

 

そうなりますと、私たちとしては、自分が立ち返っているのかどうか、ということが心配になりますね。

 

聖書を読めばいいんでしょうか。

 

持っているだけではダメなんですよね。

 

心から聖書に聞かなければいけない。

 

けれども、どうやらこれは簡単なことではないようですよね。

 

何しろ、お金持ちは、自分の兄弟は全員ダメだと言っているんです。

 

当時の人たちはみんな、毎週一度は会堂に集まって、聖書に耳を傾けていたんです。

 

でも、聞いているだけではダメだ、ということなんですね。

 

立ち返らなければいけない。

 

自分の兄弟たちを立ち返らせるために、ラザロに行かせてください、死んだ人が現れて、立ち返れ、と言ったのなら、自分の兄弟たちも信じるでしょう、とお金持ちは言うんですが、これも違うということをアブラハムは言うんですね。

 

確かにそうでしょうね。

 

この人の兄弟たちは聖書の話を聞いてはいるんです。

 

でも、本当の意味では聞いていない。

 

立ち返るつもりがないということですよね。

 

立ち返るつもりがないんだったら、奇跡が起こったとしても、奇跡に驚くことはあっても、立ち返ることはないですね。

 

では一体私たちは、どうすればいいんでしょうか。

 

私たちは、今聖書の話を聞いておりますけれども、それは、話を聞きたくて聞いているんですよね。

 

そして、話を聞きたくて、わざわざここまで出かけてきたんじゃないですか。

 

これは、お金持ちの兄弟たちのように、周りのみんなが行くから自分も仕方なく行く、ということではないですよね。

 

私たちはみんな、話を聞きたくて自分からここにやってきたんです。

 

それも、キリスト教会でされる話というのは、結局のところ、神様はあなたを愛している、あなたをご自分のもとに迎え入れたいと思っている、そのために、神様が何をしてくださったのか、という話ですよね。

 

それを私たちは聞きたいと思ってここに来るんです。

 

だったら、私たちはラザロじゃないですか。

 

神様が私たちに何をしてくださったのかという話を聞きたい。

 

これは、自分の力に頼れないということを認めているということですよね。

 

そして、そんな話がされている場所に毎週やって来るということは、神様の恵みによって自分が生かされていることを喜んでいるということなんじゃないですか。

 

私たちはその意味で、みんなラザロなんです。

 

ラザロ、「神が助ける人」。

 

私たちは神に助けられている。

 

私たちは神に助けられた。

 

だから今ここで、聖書に耳を傾けているんです。

 

私たちだって、ラザロのように地面に横たわって倒れてしまうことがないとは言えません。

 

けれども、神に立ち返る人を、神様は助けてくださるんですね。

 

イエス様が今日、一番言いたかったことは、そういうことではないですか。

 

だから、この話だけは、登場人物にラザロという名前を付けたんじゃないですか。

 

私たちは、ラザロのようにボロボロになってしまったとしても、大丈夫です。

 

神様は私たちを放ってはおきません。

 

考えてみれば、イエス様は、私たちの罪を代わりに背負って十字架につけられる時、まさにそんな、ボロボロの姿をさらしたわけじゃないですか。

 

イエス様は、私たちの苦しみや悲しみをよくご存じです。

 

そのイエス様が、私たちを放っておくだなんていうことは考えられません。

 

放っておけないんです。

 

何とかして助けたいんです。

 

何としてでも、自分の命を投げ出してでも、助けたいんです。

 

だから、これは確かなことです。

 

私たちは、ラザロなんです。

 

神様に助けられる人なんです。

 

そのことを、喜びましょう。

 

神様がこれからも、私たちを助けてくださいますように。