今週の説教「しなければならないこと」(新約聖書、ルカによる福音書17章1-10節)

【今週の予定】

●4/11()牧師ラジオ収録(お茶の水、11:30-12:00)

●4/12()加入試問会(18:30-19:00)、受難週礼拝(19:3020:30)

●4/13()コンディショニング・ストレッチ(13:0014:20)

●4/15()牧師週休日

●4/16()イースター礼拝(10:3012:00)、一品持ち寄り愛餐会、教会設立式の会場設営、掃除

 ★ 4/16()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書241-12

説教題「キリストを探す」

ルカによる福音書171節から10

 

1イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

 

5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

 

7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

 

 

 

 

 

今日の話ですが、なんだか関係のない話が並んでいるように見えますね。

 

最初のところに太字でタイトルが付けられていますけれども、「赦し、信仰、奉仕」となっていて、それを見ましてもやっぱりなんだかバラバラに話がされているような感じです。

 

では一体どうしてイエス様はこういうふうにお話になったのか、どういうお考えなのか、そういうことを考えながら、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

まず、今日の話ですが、誰に対してイエス様はお話になったのかというと、弟子たちに対してですね。

 

弟子たちに対して話をするんです。

 

まず最初に、人をつまずかせるなということですね。

 

つまずくという言葉が出てきましたが、この言葉が聖書の中で出てくるときには、それは、信仰をつまずかせるということです。

 

道を歩いていて石につまずくということがありますけれども、そういうふうに、信仰の道を歩いている人をつまずかせて、立ち止まらせてしまう、もしかしたら、転ばせてしまうようなこと。

 

それがつまずかせるということです。

 

そういう残念なことにならないようにとイエス様は言うんですね。

 

けれども、それは避けられないことなんだ、とイエス様は言っています。

 

これはもう本当に、これこそ残念なことですね。

 

私たちはイエス様の後について歩いて行こうとしているのに、誰か他の人をつまずかせてしまうということは必ずあるんだということですね。

 

逆に言って、私たちが誰か他の人につまずかされることだって、あることなんですね。

 

「つまずきは避けられない」、イエス様ははっきりと言っています。

 

私たちは、信仰の道を歩く時、お互いがお互いの足を引っ張ってしまう、お互いにお互いの邪魔をしてしまうということがあるんですね。

 

実際、これについて、残念な話を聞いたことがあります。

 

ある教会に、ある人が通ってくるようになったそうです。

 

その人はクリスチャンではなかったんですが、教会に来るようになった。

 

けれども、いつまでたっても洗礼を受けてクリスチャンになるということがなかった。

 

ある時、その人に、どうしてクリスチャンにならないのか、と聞いてみると、その人は答えたんだそうですね。

 

「イエス様は素晴らしい方だと思うけれども、でも私は、あの教会に集まっているあの人たちみたいになりたくないんです」。

 

そういうふうに言ったというんですね。

 

では一体私たちはどんなことに気を付けていったらいいんでしょうか。

 

イエス様の話を読んでいて気が付くことには、つまずきやすい人とそうでない人がいるようですね。

 

2節にありますが、イエス様は、「これらの小さい者の一人をつまずかせる」と言っています。

 

つまずきやすいのは小さい人なんですね。

 

これは信仰が小さい人ということですね。

 

そういう人は当然、つまずきやすいわけです。

 

ではどのようにして、私たちは信仰の小さい人をつまずかせてしまうんでしょうか。

 

それが、34節に書かれていますね。

 

34節では、赦しなさいと言われています。

 

そうなんです。

 

赦さないことがつまずきになるんですね。

 

信仰の小さい人が罪を犯した時に、その人を赦さないことがつまずきになるんです。

 

罪を犯すということ自体は、これは聖書に書かれていることですけれども、誰にでもあることですね。

 

罪というのは神様に背くことですけれども、私たちは毎日、思いと言葉と行いで、罪を犯しているわけです。

 

何かの形で、私たちはみんな、神様に背いているわけです。

 

けれども、信仰が少しづつ大きくなっていけば、他の人に分かるような形で罪を犯すことは少なくなっていきますね。

 

けれども、信仰の小さい人はまだまだそうではありませんから、思いと言葉と行いのどれかというと、言葉や行いで罪を犯すことがあるわけです。

 

他の人にも分かるような形で、神様を悲しませてしまうようなことをすることがあるわけなんです。

 

そしてそういうことが起こった時、私たちはそれをなかなか赦すことができない。

 

そうなると、小さい人はつまずいてしまう。

 

そこで、赦してやりなさいと繰り返し言われているんですね。

 

ただ、それに先立って言われているのが、戒めなさいということですね。

 

注意しなさい、警告しなさいということですね。

 

何もなしに赦すのではないんですね。

 

戒めて、そして、その人が「悔い改めれば、赦してやりなさい」ということなんですね。

 

ですので、逆に言って、戒めるのは、赦すためなんですね。

 

自分の心の中にある怒りを外に出すために戒めるのではないんですね。

 

そうではなくて、赦すために戒めるんです。

 

戒めることが目的ではなくて、赦すことが目的なんです。

 

ですから、自分が怒って相手を怒鳴って、怒りが収まったからもうそれでいいとか、そういうことではないんですね。

 

だからここで、有り得ないようなことが言われていますよね。

 

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。

 

これ、とんでもないことですよね。

 

一日に七回ということは、二時間に一回くらいのペースですよね。

 

二時間に一回くらい、「すいません、またやっちゃいました、もうしません。反省します」って言ってこられても、それは本当に悔い改めているのか、と疑いたくもなりますね。

 

それなのに、本当にこんなふうに赦すことができるということがあるとしたら、それは、赦すことが目的になっている場合だけだと思います。

 

だから結局、ここで言われているのは、赦しの心を持ちなさいということですね。

 

こういうことが言われるということは、私たちは人を戒めることを目的にしてしまっているということになるんだと思いますが、そうではなく、赦しを目的にしなさい、赦すことを目的にしなさいと言われているんですね。

 

また考えてみれば、私たちが赦しの心を持つからこそ、相手は悔い改めるんだと思うんですね。

 

赦しの心なしに戒めたって、相手は悔い改めませんね。

 

必ず反発します。

 

私たちが赦しの心を持って、赦すために戒めるからこそ、相手は悔い改めるんだと思うんですね。

 

ただ、そうは言われても、なかなか簡単にそれができるようにはならなさそうですよね。

 

とても難しいチャレンジになりそうです。

 

だからここで弟子たちは言うんですね。

 

イエス様に対して、わたしどもの信仰を増してくださいとお願いしています。

 

よほど大きな信仰がなければそんなことできないんじゃないかと思って、そう求めるんですね。

 

けれどもイエス様はそれに対してどうお答えになったか。

 

からし種一粒ほどの小さな小さな信仰で十分だ、と言ったんですね。

 

信仰を大きくしなくてはできないことではない、ということなんですね。

 

ほんのちょっとでも信仰があれば、それはできる、ということですね。

 

では、ほんのちょっとでも信仰があるということ、これはどういうことなんでしょうか。

 

私たちはどういう信仰を持てばいいんでしょうか。

 

それが最後の話、しもべの話ですね。

 

最後の話は結局、あなたは自分が神のしもべであるということを自覚していますか、という話ですね。

 

神様と私たちとの関係は、主人としもべの関係なんですね。

 

ですので信仰というのは、神のしもべとして生きることなんです。

 

ただ、そうは言っても、なんだかはっきりしませんね。

 

しもべというのは奴隷のことです。

 

奴隷というとなんだか、大変な重労働を一日に何時間もさせられそうな気がします。

 

私たちは我慢して我慢して、そんな大変な思いをしなければならないんでしょうか。

 

実は、当時の奴隷というのはそういうものではなかったんですね。

 

私たちが持っている奴隷のイメージは、近代の奴隷のイメージです。

 

200年とか300年前の奴隷のイメージです。

 

聖書の時代の奴隷は違ったんですね。

 

例えば、エジプトのピラミッドは奴隷が作ったんですが、その奴隷たちの出勤簿が残されています。

 

出勤簿というのは仕事に来た時にチェックするリストですね。

 

そこには仕事を休んだ場合には仕事を休んだ理由も書かれているんですが、それがなんと、「二日酔いのため」と書かれていたりするんですね。

 

前の日にお酒を飲みすぎてしまって、今日は体の具合が悪いです、だからお休みします、ということですね。

 

私たちがイメージする奴隷は、「二日酔い」では休めないですよね。

 

そもそも、お酒なんて飲めるのか、という感じですよね。

 

では、奴隷とはどのようなものだったのかといいますと、それは、「雇われ人」ということです。

 

わかりやすく言いますと、土地を持っていないので、土地を持っている人に雇われて働く、ということです。

 

もちろん、主人の指示通りに動かなくてはなりません。

 

けれども、主人は奴隷が働くために必要なモノを提供しなければならないという義務を負っていました。

 

主人の配慮があるので、奴隷はスムーズに働くことができたわけです。

 

ですから、古代には、自分から進んで奴隷になる人もいたんです。

 

要するに、ここで言われている主人と奴隷の関係というのは、現代の会社とサラリーマンの関係と同じです。

 

聖書の時代の人が現代のサラリーマンを見れば、「サラリーマンというのは私たちの時代で言うところの奴隷だ」と言うんだろうと思いますね。

 

ですので、ここで言われているのは、あなたがたはサラリーマンで、神様は社長なんだ、ということですね。

 

その自覚を持ちなさい、ということなんです。

 

こうなりますと、だいぶん話は変わってきますね。

 

サラリーマンというのは言われたとおりに仕事をするんですけれども、その代わりに給料をもらって、休みをもらって、会社にいろいろ面倒を見てもらっているんですよね。

 

仕事をするために必要な知識や技術も教えてもらって、トレーニングも受けさせてもらって、会社に養われているんです。

 

それと同じように、あなたがたも神様に養われているんだよ、ということですね。

 

そのことに気づきなさいということですね。

 

サラリーマンが会社の手の内に置かれているように、あなたがたも神様の手の内に置かれているんだよ、ということです。

 

それに気づいていることが信仰なんですね。

 

そして、そういう信仰があるのなら、赦すために戒めるということができるようになるんだと思いますね。

 

考えてみればこれ、赦すために戒めるというのは、神様がなさったことですね。

 

私たち罪びとを赦すために、神様ご自身が人間として生まれてくださって、私たちの罪を代わりに背負って十字架にかかってくださった。

 

だからもう私たちは裁かれない。

 

神様に逆らって、神様の前から迷い出てしまっていた人間が、神様とつながって生きていくようにされた。

 

だからこそ私たちは悔い改めるんですね。

 

神様が命がけで私たちを赦したいと思っておられることを知るからこそ、私たちは悔い改めるんです。

 

そして、だからこそ、私たちは、神様が私たちになさってくださったのと同じように、赦すために戒めるということをしていくようにされるんだと思います。

 

社長がやっていることを社員がまねるんですね。

 

そうは言っても簡単なことではないかもしれません。

 

けれども、今日、約束の御言葉が与えられていますね。

 

6節ですが、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。

 

ほんのわずかでも、自分は神様の御手の内にあって養われているという気持ちがあれば、考えられないようなことだって起こるんだということですよね。

 

要は、神様と同じように、赦しの心で戒めるときには、神様の力が働くということなんです。

 

それを約束してくださっているんです。

 

そして、それを目指すとき、私たちは、もう、弟子とは呼ばれないで、5節にあるように、「使徒」、遣わされた者、神様のもとから派遣された者、と呼ばれるようになるんじゃないですか。

 

出かけていきましょう。

 

私たちそれぞれに、派遣される場所があります。

 

その場所で、神様と共に働きましょう。

 

その時、考えもしなかったような素晴らしいことが起こる。

 

そのことを、神様は約束してくださっているんです。