今週の説教「十字架の上で」(ルカによる福音書23章32-43節)

【今週の予定】

●4/13()コンディショニング・ストレッチ(13:0014:20)

●4/15()牧師週休日

●4/16()イースター礼拝(10:3012:00)、一品持ち寄り愛餐会、教会設立式の会場設営、掃除

4/16()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書241-12

説教題「キリストを探す」

ルカによる福音書2332節から43

 

32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 

39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

 

 

 

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

十字架の上での、イエス様の言葉です。

 

この彼らとは誰でしょうか。

 

十字架の周りには多くの人がいました。

 

今お読みしたところでは「議員たち」という人たちがいますね。

 

この人たちは、イエス様を十字架に付けさせた人たちです。

 

十字架という刑罰は、ローマ帝国の死刑の方法なのですが、この議員たちはユダヤ人でした。

 

この人たちは、イエス様に民衆の人気が集まるようになって、そうなると自分の立場が危うくなると考えて、イエス様を亡き者にしてしまおうと考えたのでした。

 

しかし、イエス様は民衆からの人気がありましたから、自分たちで手を下せば、自分たちの人気が下がることになります。

 

そこで、ありもしない罪をでっちあげて、当時、地中海を支配していましたローマ帝国にイエス様を訴えて、ローマ帝国に死刑にさせたのです。

 

イエス様の頭の上に掲げられた札は、その、ありもしない罪を記しています。

 

「これはユダヤ人の王」。

 

そういうふうに書かれていました。

 

これは、ユダヤの議員たちがそのようにローマ帝国に訴えたんですね。

 

つまり、あの男は、自分が王であると名乗っていますよ、それをローマ帝国が放っておいていいんですか、ということです。

 

ローマ帝国はこのような、ユダヤの議員たちの陰謀に乗せられてしまったんですね。

 

その議員たちは今や、イエス様をあざ笑って言います。

 

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

 

これと同じことを、ローマの兵士たちも言います。

 

「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

 

民衆はその様子を見つめています。

 

この人たちも、気持ちは同じでしょう。

 

こんなことになるということは、メシアではなかったのだ、救い主ではなかったのだ。

 

民衆もそのように考えていたに違いありません。

 

そうでなければ、こんなところに黙って立っていることはできないでしょう。

 

一緒に十字架にかけられた犯罪人の一人も、同じことを言います。

 

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 

イエス様の周りには、敵意があふれていました。

 

そんな中で、イエス様の声はかき消されてしまいそうです。

 

実際、先ほどお読みしたイエス様の言葉は、カッコの中に入れられています。

 

この形のカッコの中に入っているということは、この部分が、聖書の原本にあったのかどうかがはっきりしないということなんですが、実際のところ、この部分を無くしてしまっても、話はつながります。

 

この段落に書かれているのは、イエス様に対する敵意だけです。

 

そんな中で、イエス様は声を振り絞って言うんですね。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

彼らは確かに、自分の罪深さを知りません。

 

自分が何をしているのかを知りません。

 

そのような人々のために、イエス様は祈ります。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

この言葉によって、心の向きを変えられる人が現れます。

 

それは、議員でも兵士でも民衆でもなく、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人であったというのです。

 

この事実には考えさせられます。

 

しかし、ここに聖書のメッセージがあります。

 

この犯罪人という言葉ですが、この言葉は原文では「悪いことをした人」という言葉です。

 

「悪いことをした人」というのなら、議員も兵士も民衆も皆同じでしょう。

 

彼らは皆、自分が何をしているのか、知らないのです。

 

もっと言うなら、聖書は、人間はみな罪びとだといいます。

 

聖書で言う罪という言葉はもともとは「的外れ」という言葉なんですが、それは言い換えれば、自分が何をしているのか知らないということでしょう。

 

そのような人の一人が、ここで言うのです。

 

もう一人の犯罪人は言っていました。

 

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 

それに対して、この人は言います。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」。

 

この人は、自分が神の前に立たされていると感じています。

 

イエス様がただの人ではない、神からの救い主であることに気付いているのです。

 

だからこの人は驚いています。

 

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」。

 

この人は、自分が、イエス様と同じ刑罰を受けていることに驚いています。

 

この人は、一体どうしてイエス様が救い主であることに気づいたのでしょうか。

 

それが、イエス様の祈りの言葉だったと思うんですね。

 

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

十字架の上にあげられて、このようなことを言うことができる人がいるでしょうか。

 

このような状況でこのようなことを言えるとしたら、それは、まったく神に従っている人だけのはずです。

 

しかも、神のことを父と呼んでいます。

 

このような状況でこのようなことを言えるとしたら、それは、神の子だけのはずです。

 

犯罪人の一人だった人は、そのことに気づいたのでしょう。

 

彼の目に映っていたイエス様の姿は、救い主には似つかわしくない姿です。

 

十字架にかけられた犯罪人の姿です。

 

それも、十字架にかけられる前には、鞭打たれています。

 

その鞭は木の棒の先から革ひもが何本も出ていて、その皮ひもの先には、とがった金属がいくつもつけられていました。

 

鞭打たれただけで死んでしまう者もあったといいます。

 

ですので、イエス様は、全身血まみれで、もう、死んでしまった方が楽なくらいの状態で、十字架に釘づけにされているのです。

 

犯罪人の一人であったこの人にとって、その姿は、神の子が人の罪を引き受けている姿でした。

 

十字架の周りには、人々の罪が渦巻いています。

 

議員たちの、兵士たちの、民衆の、多く人々の罪が、イエス様を十字架につけたのです。

 

しかし、神の子は、それを全く引き受けておられるのです。

 

この人はイエス様に言いました。

 

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。

 

この言い方は少し間違っています。

 

御国、神の国というのは、行くものではなく来るものです。

 

神の国、国という言葉は原文では支配とも訳すことができる言葉なのですが、神の国はやってくる、イエス様と一緒にもう、始まっている。

 

まだまだ完成してはいないけれども、いつの日か、この地上に完成する。

 

それがイエス様の宣べ伝えた神の国です。

 

御国、神の国というのは、行くものではなく来るものです。

 

それをこんなふうに間違えているということは、この人は、イエス様から教えを受けたことがなかったのでしょう。

 

けれどもこの人は、十字架のキリストを見て、それだけで、信じたのです。

 

キリストはお答えになられました。

 

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

この話を聞くと、なんと都合の良い話か、と思ってしまいます。

 

この人は、死刑にされるほどの犯罪を犯したのに、どうして、と思ってしまいます。

 

けれども、聖書は、人間はみな罪びとであると言います。

 

ですから、都合の良い話でなければ、人間は誰も救われないのです。

 

私たちは、キリストを通して赦しをただ受けるのです。

 

そして、キリストは、望む者には誰にでも、たとえ十字架の上の、もうあと数時間しか命のない罪びとにも、救いを与えてくださるのです。

 

もう今さらどうすることもできない人にも、キリストは言ってくださいます。

 

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

「わたしと一緒に」です。

 

キリストは私たちと共にいてくださるのです。

 

ですから、私たちは、こう信じることができます。

 

絶望しかないような状況においても、キリストは私たちに出会ってくださる。

 

人の罪も、私の罪も引き受けてくださるキリストが、私に出会ってくださる。

 

それでこそ、私たちは救われるのです。

 

私たちは皆それぞれに、自分の十字架というものがあるのではないかと思います。

 

けれども、私たちは、誰からも見捨てられたとしても、もう自分ではどうすることもできなくても、そこでこそ、キリストは私たちに出会ってくださいます。

 

そして、私たち自身を引き受けてくださるのです。

 

そのためには、鞭打たれても、十字架につけられても構わない。

 

それがキリストのお気持ちなのです。

 

私たち一人一人に向けられたお気持ちなのです。