今週の説教「キリストに出会う」(ルカによる福音書24章1-12節)

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★4/23()の説教:尾崎純牧師

聖書:ルカによる福音書1711-18

説教題「賛美しながら戻る」

 

 

ルカによる福音書241-12

 

1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 

 

 

 

 

今日の場面はイースターの朝の出来事です。

 

この日の朝、婦人たちはイエス様のお墓に行くんですね。

 

週の初めの日と書かれていますが、これはつまり日曜日ですね。

 

日曜の朝、婦人たちはイエス様のお墓に向かいました。

 

この婦人たちは今までずっとイエス様に従ってきた人たちです。

 

その婦人たちが、良い香りのする油を持ってお墓に行きます。

 

これは当時の習慣なんですが、お墓の中のイエス様のお体に、良い香りのする油を塗って差し上げようということですね。

 

つまり、この婦人たちは、今もイエス様の弟子として、イエス様に従おうとしているんですね。

 

けれどもここで思います。

 

男性の弟子たちはどこへ行ってしまったんでしょうか。

 

これは他の福音書を読むと分かりますが、男性の弟子たちはドアに鍵をかけて、家の中に閉じこもっていたんですね。

 

自分たちの先生であるイエス様が逮捕されて、十字架につけられてしまった。

 

もしかしたら、イエス様の弟子である自分も同じことになってしまうかもしれない。

 

それが怖くて、家の中に閉じこもっていたんです。

 

ですので、ここでは、女性たちがイースターの出来事の証人にされます。

 

女性が証人にされるんです。

 

ここには聖書のメッセージがあるんだと思いますね。

 

実は、というか、これはお分かりいただけるでしょうけれども、当時、女性の立場というのはものすごく低かったんですね。

 

「こういう出来事を見ました」という女性の証言は、奴隷の証言と同じレベルでしか扱われなかったんですね。

 

女性は奴隷と同じだったんです。

 

けれども、そういう人が証人として用いられるんですね。

 

考えてみると、これは、クリスマスも同じですよね。

 

クリスマスの時も、証人として用いられたのは羊飼いたちでしたよね。

 

この人たちも立場の低い人たちです。

 

何しろ、この人たちには戸籍がなかったんですね。

 

人間として登録されていなかったんです。

 

人間であって人間でないような人たちです。

 

そのような人たちがクリスマスの証人として用いられたんですね。

 

ただこれは、ただ単に弱い立場の人たちが用いられたということではないんだろうと思います。

 

イースターの婦人たちも、クリスマスの羊飼いたちも、イエス様のところに行ったわけですね。

 

神様が選んだのはそういう人たちなんです。

 

イエス様のところに行こうとする人。

 

イエス様に従おう、従い通そうとする人。

 

そういう人を神様は用いるんですね。

 

ただこれは、そうでなければならない、みんながそうならなければならないということではありません。

 

そういう人を通して、多くの人に喜びが広がっていくということですね。

 

何と言ってもこの人たちは証人なんですから、証人ということは、自分が見たことを人に伝えるのが役目ですね。

 

この人たちが人に伝えて、それが広がっていって、そこに喜びが広がっていく。

 

イースターもクリスマスも、その点では同じです。

 

ただ、今日のこの場面は、どうでしょうか。

 

祝福を喜んでいるような人は誰もいないですね。

 

まず、婦人たちですが、この人たちは証人とされた人たちなのに、喜べないでいます。

 

これは当然と言えば当然かもしれませんが、婦人たちはまず、途方に暮れたということですね。

 

途方に暮れた、どうしていいか分からなくなった。

 

イエス様のお体に香油を塗って差し上げようと思っていたのに、イエス様のお体がどこにも見つからなかったからです。

 

そこに、二人の天使が現れました。

 

そして、天使たちはイエス様が復活なさったことを知らせます。

 

そして、イエス様が生きておられた時に、前もって三度も繰り返しておっしゃっておられたことを天使たちは伝えます。

 

「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

 

イエス様は十字架の死とその後の復活を予告しておられたんですね。

 

これを聞いて、婦人たちはイエス様の言葉を思い出しました。

 

思い出したということは、逆に言うと、この時まで忘れていたんですね。

 

イエス様は三度も繰り返して十字架と復活の予告をしておられたのに、それを忘れていたわけです。

 

こんなにも大事なことを忘れていたんですね。

 

これは、そういうことを考えたくなかった、ということではないかと思います。

 

イエス様が十字架におかかりになる、死刑にされてしまうということを考えたくなかったのではないかと思います。

 

もし、ご自分の死を予告するイエス様の言葉を真正面から考えてしまうと、イエス様と一緒にいる喜びは失われてしまいます。

 

今イエス様と一緒にいるという喜びを、婦人たちも弟子たちも失いたくなかったんでしょうね。

 

それは、言い方を変えれば、今喜んでいる自分を失いたくなかったということです。

 

もっとはっきり言うと、これは誰にでもあることではないかとも思いますが、イエス様のことよりも今の自分の喜びが大事だったということです。

 

つまり、イエス様ではなくて、今の自分を失いたくなかったんですね。

 

今のままでいたかったんです。

 

だから、イエス様の言葉と向き合いたくなかったのです。

 

天使たちから話を聞いてもまだ、婦人たちはその言葉を受け止めることができなかったようです。

 

婦人たちはお墓から帰って弟子たちのところに行きますが、この婦人たち、復活の知らせを聞いて喜んでいたかというと、そうではなかったようですね。

 

この婦人たちは男性の弟子たちに、「一部始終を知らせた」と書かれています。

 

「一部始終を知らせた」んです。

 

最初から最後まで、見てきたこと、聞いたことを全部話したということですね。

 

お墓に行くと、石がのけてあって、イエス様の遺体がなくて、天使が現れて、イエス様が復活なさったことを聞いた、と全部を話したわけです。

 

もし、婦人たちが喜んでいたんだとしたら、そんな話し方をするでしょうか。

 

喜んでいたんだとしたら、「イエス様は復活なさった」ということをとにかく言うのではないでしょうか。

 

その話は、弟子たちにはたわ言のように思われました。

 

ただ、このとき、男性の弟子たちにしたって、イエス様の言葉を思い出したはずです。

 

それでも弟子たちは信じないんですね。

 

死んだ人間が生き返るはずはないという常識に捕らえられていたんでしょうね。

 

自分の常識にこだわっているんですね。

 

これも、今のままの自分でいたいということの現れではないかと思います。

 

もし、自分の常識に反することを認めてしまうなら、今のままの自分ではいられなくなります。

 

これも、もしかすると誰にでも当てはまることなのかもしれませんが、弟子たちが今置かれている状況は決して良いものではないのに、それでも、彼らは今の自分にこだわるんですね。

 

けれどもここで、一人だけ、お墓に向かって走り出した人がいました。

 

ペトロです。

 

このとき、ペトロだけは今の自分に留まっていなかったんですね。

 

走り出したんです。

 

どうしてでしょうか。

 

ペトロだけはここに至るまでに特別な体験をしていました。

 

ペトロだけは自分自身を打ち砕かれる体験をしていました。

 

ペトロは最後の晩餐の席で、イエス様にこう言っていました。

 

「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております」。

 

堂々と立派な信仰を明らかにしたわけです。

 

それに対してイエス様はおっしゃいます。

 

あなたは、鶏が鳴く前に三度、わたしのことを知らないと言うだろう。

 

その通りになりました。

 

イエス様が逮捕されると、ペトロは他の弟子たちと一緒に逃げ出してしまいます。

 

その後、裁判を受けるためにイエス様は引かれていくんですが、その後をペトロはこっそりついて行って、その時周りにいた人から「あなたはあの人の弟子ではないのか」と問われて、それを三度、否定してしまうんですね。

 

そこで、鶏が鳴きました。

 

イエス様の予告の通りになったわけです。

 

その時、イエス様はペトロをじっと見つめました。

 

ペトロは外に出て激しく泣いたと書かれています。

 

ペトロは自分自身を打ち砕かれる体験をしていました。

 

ペトロだけは、今の自分へのこだわりはありません。

 

そのペトロが、墓に走ったんですね。

 

ペトロだけが、今のままの自分ではいけないという思いが与えられていたからです。

 

けれどもこれは大変なことです。

 

イエス様にもう一度会う資格が、ペトロにあるでしょうか。

 

イエス様にもう一度会うということは、罪人である自分を見つめたイエス様のあの眼差しの前にもう一度立つということです。

 

三度、イエス様を否定した時に自分を見つめたイエス様の目に、もう一度見つめられるということです。

 

それでも、ペトロは走り出しました。

 

この背後に、イエス様の祈りがあったことを思います。

 

イエス様は最後の晩餐の席でこのようにペトロにおっしゃっておられました。

 

「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

 

このようになることをイエス様はすべてご存知の上で、祈っておいてくださったのです。

 

ペトロは走ります。

 

ペトロが向かった先はお墓でした。

 

イエス様はそこにはいないと聞いていたお墓です。

 

ペトロにしても、イエス様が復活したという確信があったわけではなかったということでしょう。

 

ということは、喜びにあふれていたわけではないでしょう。

 

そこにイエス様がおられないことを確認することしかできません。

 

ここにも聖書のメッセージがあるんだと思いますね。

 

自分に打ち砕かれる体験をして、今のままの自分ではいけないと思ったとしても、それでは十分ではないんですね。

 

人間はどうしたって間違った方向にしか向かわないということです。

 

ですからこの後、イエス様の方からやってきてくださって、弟子たちに出会ってくださいます。

 

イエス様の方から、会いに来てくださるのです。

 

このことを通して、婦人たちや弟子たちは教えられたのではないかと思います。

 

罪の中にある私たちの方から、イエス様に近づくことはできないんですね。

 

けれども、イエス様が確かに生きておられるということを信じるとき、イエス様の方から私たちのところに来てくださるんですね。

 

そしてそれは、自分自身を打ち砕かれる体験を経た上でです。

 

自分を砕かれて、今の自分に居座ろうとする心を捨てた時、自分に死んで、自分を十字架につけて、その上でイエス様を求めるとき、イエス様は私たちのところに来てくださるんですね。

 

私たちに準備が出来た時、イエス様は必ず私たちのところに来てくださいます。

 

イエス様からすれば、私たちのところに来てくださるのは当然のことです。

 

何しろイエス様は、私たちのために死んで、復活してくださったんです。

 

私たちのためにです。

 

今のままでいたいと考えて、罪の中に居座っている私たちのためにです。

 

イエス様としてはもう、何でもしてくださるおつもりなんですね。

 

だから今日の場面でも、婦人たちや弟子たちに、イエス様はご自身が復活したことを、わざわざ知らせてくださっていますよね。

 

お墓をふさいでいた大きな石が転がしてありましたよね。

 

これについて、イエス様がご自分の手で石を転がしてお墓の中から外に出てくるのを想像しそうになりますが、イエス様はそんなことをする必要はないはずですね。

 

復活したイエス様は特別な体を持っておられて、鍵がかかった家の中にも自由に出入りできたということが、他の福音書に書かれています。

 

ですので、復活したイエス様がお墓の中から出てくるために、わざわざ石を転がす必要はありません。

 

石が転がされていたのは、イエス様が外に出るためではなくて、婦人たちがお墓の中に入って、イエス様のお体がそこにないということを確認できるようにするためです。

 

イエス様が復活したということに、自分で気づくように、そうしてくださったんですね。

 

そうして、考えを変えられていって、自分を砕かれていって、今の自分に居座ろうとする心を捨てていって、復活のイエス様を求めるようにと、導いてくださっているんですね。

 

同じことは私たちにも言えます。

 

私たちも復活のイエス様に出会うことをもっと熱心に求めていいんだと思うんですね。

 

何しろ、私たちは日曜日に礼拝をしています。

 

旧約聖書の時代には、礼拝をする日は一週間の最後の日、土曜日でした。

 

けれども私たちは日曜日に礼拝をします。

 

日曜日が、イエス様の復活した日だからです。

 

イエス様の復活した日に、復活したイエス様に出会う、その意味で、キリスト教会は日曜日に礼拝をささげるんですね。

 

その私たちに、復活のイエス様が出会ってくださらないことがあるでしょうか。

 

イエス様は私たちにも出会ってくださいます。

 

この後弟子たちに出会ってくださったように、私たちにも出会ってくださいます。

 

それがどんな出会いかは分かりません。

 

何しろ、この後のところを読みますと、復活したイエス様のお姿は、以前とは違っていたということのようです。

 

ですから、どんな形で私たちがイエス様と出会うのかは分かりません。

 

道ですれ違う人かもしれない。

 

たまたま入ったお店の店員さんかもしれない。

 

もしかしたら、昔からよく知っている人かもしれない。

 

いずれにしても、これだけははっきり言えます。

 

イエス様は、私たちのことを命がけで愛しておられる。

 

だからこそ、イエス様は、私たちに出会いたいと願っておられる。

 

そのイエス様に出会う、イースターになりますように。