今週の説教「信仰の復活」(ルカによる福音書24章13-35節)

●4/20()コンディショニング・ストレッチ(13:0014:20)

●4/22()教会設立式(13:30-15:30)

●4/23()礼拝(10:3012:00)、食事会、信徒の学び会(13:00-13:45)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)

★4/23()の説教:尾崎純牧師

聖書:ルカによる福音書1711-18

説教題「賛美しながら戻る」

ルカによる福音書2413-35

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 

 

 

 

 

二人の弟子たちが、エルサレムから離れていきます。

 

この日の朝、イエスさまが復活なさったというのに、エルサレムから離れていきます。

 

イエスさまが復活したことを最初に知ったのは婦人たちでした。

 

その婦人たちから、弟子たちはもう話を聞いています。

 

それなのにこの二人は、エルサレムから出ていきます。

 

歩きながら二人はイエスさまが復活なさったことについて話し合っています。

 

話し合ってはいますが、エルサレムから離れていきます。

 

信じてはいなかったわけです。

 

そこに、イエスさまが近づいてこられます。

 

信じることができない弟子たちに、イエスさまの方から、近づいてこられます。

 

そして、三人で一緒に歩き始めます。

 

けれども弟子たちは、それがイエスさまだとは気づきません。

 

「二人の目は遮られてい」たと書かれています。

 

二人には分からないようにされていたということでしょうか。

 

しかし、どうしてこんな大事なことを隠すんでしょうか。

 

それは、その人がイエスさまだと分かったときに明らかになります。

 

今はまだ、エルサレムから離れていく道のりの途中です。

 

ここでどういったやりとりがなされているのか、聞いてみたいと思います。

 

イエスさまも、弟子たち二人のことをわかっていないふりをしていますね。

 

「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。

 

こんなことを言って、わかっていないふりをしています。

 

その言葉に、二人の弟子は暗い顔をして立ち止まりました。

 

暗い顔をして。

 

弟子たちは答えます。

 

「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。

 

イエスさまは、これに対して、また知らないふりをなさいます。

 

「どんなことですか」。

 

弟子たち二人は説明します。

 

「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」。

 

今、二人は、イエスさまのことを証しているつもりです。

 

ですが、これは証になっているでしょうか。

 

イエスさまのことを預言者であると言っています。

 

確かにそうです。

 

イエスさまは神さまの言葉を伝えたわけですから預言者であると言うことはできます。

 

しかし預言者と言ったのでは、イエスさまを理解していることにはなりません。

 

旧約聖書に預言者はたくさん出てきますが、それらの預言者たちは、神さまの言葉を伝えただけでした。

 

復活した人なんて、預言者にはいません。

 

けれども、この弟子たちは、復活を信じられないんです。

 

だから、イエスさまのことを救い主である、メシアであると言えない。

 

預言者であるとしか言えない。

 

ですから彼らの証は、ちょっと情けない証ですね。

 

イエスさまが十字架にかけられると自分たちは逃げ出してしまったのに、こんなふうに言っています。

 

「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです」。

 

まるで、自分の責任はないと言わんばかりです。

 

続けて、こんなふうに言います。

 

「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」。

 

過去形ですね。

 

望みをかけていたのに、失望に終わったと言いたいんですね。

 

外国に支配されているイスラエルの国を解放してくださるメシアだと思っていたのに、イエスさまはそれができないまま死んでしまったと。

 

当時の人たちは、メシアというのは外国に支配されているイスラエルの国を解放してくれる人だと思っていました。

 

要するに、強い王さまだと思っていたんですね。

 

イエスさまはそうではありませんでしたので、弟子たちは、イエスさまはメシアではなかったと考えてしまったわけです。

 

けれども、メシアが強い王さまだというイメージは、人間が自分の思いで作り上げていったイメージです。

 

確かに救い主について、旧約聖書にそういうふうに書かれている部分はありますが、人々は、自分が望むイメージに合うような部分だけを、メシアについての預言だと考えていました。

 

けれども、27節のイエスさまの言葉にあるとおり、聖書全体を御心に従って読むなら、メシアが単なる王さまではないことは明らかです。

 

聖書が一番関心を寄せているのは、人間の罪とそれに対する神の裁きです。

 

ですから、救い主というのは、罪の赦しをもたらす人であるはずです。

 

その人こそ、イエスさまでした。

 

けれども、この弟子たちにはそれがわかりません。

 

こんなことを言っています。

 

「そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。

 

この「三日目」という言葉に、イエス様の予告を思い出しますね。

 

「三日目に死者の中から復活する」。

 

弟子たちは、イエスさまからその話を聞いていました。

 

だとしたら、三日目の今日、弟子たちは、期待して待っているはずではないですか。

 

どうしてこの弟子たちは、約束どおり復活したという話を聞いたのに、エルサレムから出ていこうとしているんでしょうか。

 

この「三日目」は、「三日目に死者の中から復活する」といったときの「三日目」ではありません。

 

実は、ユダヤ教で言うところの三日目です。

 

ユダヤ教では、死んだ人の魂は、三日間、死体の上をただよって、それから天に上ると考えられていました。

 

要するに、この弟子たちの気持ちはこういうことです。

 

三日間たったので、もうイエスさまの魂は天に上ってしまったので、もうこれ以上、エルサレムにいても仕方ありません。

 

そういう考えなんですね。

 

そのあと続けて22節から24節まで、復活したと聞いたという話をこの弟子たちはしますけれども、これはそう信じて言っているんではないんですね。

 

信じているんだったら、エルサレムから出て行くはずはありませんから。

 

ですから、この二人の弟子たちの言葉は、証のようでいて、まったく証ではないんですね。

 

その正反対です。

 

「信じたかったけれども、やっぱり信じられない」。

 

弟子たちはそう言っているんですね。

 

そんな弟子たちに対して、イエスさまは言います。

 

今まで何度も、予告なさっておられたことをもう一度言います。

 

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。

 

そうして、ご自分について聖書に書かれていることを説明なさいます。

 

けれども、ご自分のことを話しておきながら、イエスさまはまだここでは、ご自分のことを明らかにはなさいません。

 

もう自己紹介してもよさそうなものですが、まだ隠しているわけです。

 

ただ、弟子たちは、イエス様の話に感動したのでしょう、イエスさまを無理に引き止めて、その日は一緒に泊まることになります。

 

そして、夕食の席になります。

 

イエスさまはパンを取って、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになります。

 

最後の晩餐と同じですね。

 

ここで、不思議なことが起こります。

 

「二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。

 

パンを受け取ると、イエス様の姿が見えなくなったというのです。

 

これはどうしてでしょうか。

 

最後の晩餐の時に、イエスさまはおっしゃっておられました。

 

「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」。

 

パンはイエスさまの体です。

 

パンを与えられるということは、イエスさまがご自分の体を与えてくださったということです。

 

そして、イエスさまが私自身になるということです。

 

だから、見えなくなるんですね。

 

いなくなるわけではありません。

 

もう、肉の目で見る必要はなくなるわけです。

 

自分自身なんですから。

 

だからこのとき弟子たちは、その人がイエスさまだとわかったんですね。

 

イエスさまがご自分自身を本当に与えてくださって、自分自身の内側にイエス様が入ってきてくださったからです。

 

このとき、遮られていた目が開かれたんですね。

 

このことが明らかになるために、この時まで、弟子たちの目は遮られていたんです。

 

イエスさまは、最後の晩餐の席で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃっていました。

 

ですからわたしたちもそのようにするんですね。月に一度、イエスさまからパンをいただくわけです。

 

イエスさまはご自分自身を私たちに対してまことに与えてくださった、そのことに、わたしたちの目が開かれているためにです。

 

二人の弟子たちは、こんなことを言い合っていますね。

 

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。

 

何によって、彼らの心は燃やされたんでしょうか。

 

イエスさまご自身の証によってです。

 

イエスさまがご自分でご自分を証してくださることによって、彼らは火をつけられたんですね。

 

イエスさまが火をつけてくださったわけです。

 

すぐに出発して、エルサレムに戻ります。エルサレムでは11人の使徒たちがイエスさまが本当に復活なさったと語り合っていました。

 

そこでこの二人は何をしたでしょうか。

 

今度こそ証をしたんですね。

 

証というのはこういうものなんでしょうね。

 

イエスさまがご自分でご自分をわたしたちに明らかにしてくださったから、わたしたちは証をすることができるんですね。

 

それも、この二人の弟子たちに対してそうしてくださったように、イエスさまの方から私たちのところに来てくださるから、わたしたちは証をすることができるんですね。

 

この弟子たちは、イエスさまから離れていこうとしていた人たちです。

 

そんな人たちにも、イエスさまは出会ってくださるんですね。

 

それも、イエス様の方から来てくださる。

 

そして、ご自分自身を明らかにしてくださる。

 

そうするとこの二人にどういう変化が起こりましたか。

 

この弟子たちは、イエスさまが死んでしまったと思って、打ちひしがれて、悲しみの中、旅をしていたんでした。

 

けれども、イエスさまがご自分を明らかにしてくださると、二人はすぐにエルサレムに戻るんですね。

 

喜びに満たされて。

 

悲しみの旅が、喜びの旅に変えられるんですね。

 

それが、イースターの出来事です。

 

イースターは、ただ、イエス様が復活したというだけの話ではありません。

 

イースターは、わたしたちがもう、希望をまったく失ってしまったとしても、イエスさまがわたしたちに希望を与えてくださるということなんです。

 

それも、イエスさまの方からやってきてくださって、私たちの信仰を復活させてくださるんです。

 

ただ、そのために大事なことがあると思うのです。

 

確かにこの弟子たちは、希望をまったく失っていました。

 

イエスさまが死んでしまったと思っていました。

 

復活を信じていませんでした。

 

もうエルサレムにいる理由はないと思って、エルサレムを離れました。

 

ですが、その旅の途中、この弟子たちは、何をしていましたか。

 

イエスさまの話をしていたんですね。

 

復活したなんて信じられない。

 

イエスさまはメシアではなかった。

 

そう思っていても、それでもなお、イエス様のことが忘れられなくて、イエスさまの話をしていたんです。

 

信仰を完全には失ってはいなかったんですね。

 

信仰といっても、これは、本当にわずかな信仰です。

 

けれども、そんなわずかな信仰も、イエスさまはかえりみてくださるんですね。

 

イエス様の方から、私たちのところに来てくださる。

 

そして、心を希望に燃え上がらせてくださる。

 

悲しみの旅を、喜びの旅に変えてくださる。

 

私たちにもそれぞれに、悲しみの旅があります。

 

悲しみの旅をしなければならない人生の時があります。

 

イエス様は救い主ではなかったのか、と思ってしまうような時があります。

 

どうぞその時、イエス様のことを頭に思い描いてください。

 

イエス様は必ずあなたの隣に来てくださいます。

 

そのことを、今日、イエス様は約束してくださっているのです。