今週の説教「賛美しながら戻る」(ルカによる福音書17章11-19節)

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●4/27()コンディショニング・ストレッチ(13:0014:20)

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4/30()の説教:尾崎牧師

聖書ルカによる福音書1720-37

説教題「神の国とは何か」

 

 

 

ルカによる福音書1711-19

 

11イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。15その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。16そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。18この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」19それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

 

 

 

今日の場面ですが、イエス様はエルサレムに上っていきます。

 

その途中に、サマリアとガリラヤの間を通られた、ということですね。

 

これがどのあたりのことであるのか、一度、地図を見てみたいと思います。

 

聖書の一番最後の方のページに地図が出ていますので、聖書の最後の方を開いてください。

 

何枚か地図が出ていると思いますので、6番の地図を開いてください。

 

「新約時代のパレスチナ」という地図ですね。

 

イスラエルを含む、パレスチナの地図です。

 

この地図の中で、イスラエルはちょうど真ん中あたりになるのですが、まず、真ん中より少し上の方に湖があるのがお分かりになりますでしょうか。

 

ガリラヤ湖という湖なんですが、その湖の左斜め上あたりにガリラヤと太字で書いてありますね。

 

この太字が地方の名前です。

 

この地域がガリラヤ地方なんですね。

 

そして、このガリラヤ地方がイスラエルの一番北側の地方なんですね。

 

イエス様はこの地方で育ったんですね。

 

ガリラヤ湖の西側にナザレという村がありますが、イエス様はこの村で育ちました。

 

ですので、イエス様は今までは、このガリラヤ地方の中で人々に神様のメッセージを伝えていたわけです。

 

しかし、今はもう、エルサレムに上っていこうとなさっていますので、今は、サマリアとガリラヤの間におられるんですね。

 

サマリアという地方はどこにあるのかと言うと、この地図のちょうど真ん中より左側に、太字でサマリアと書かれていますね。

 

このあたりです。

 

ではエルサレムはどこにあるのかと言いますと、一番南の方に死海という湖がありますけれども、その西側ですね。

 

三つくらい町が並んでいる、その一番左にエルサレムという町がありますね。

 

このエルサレムの町は何という名前の地方になるかというと、その右側にユダヤと太字で書かれています。

 

ユダヤ地方です。

 

これが、イスラエルの一番南の地方になるわけです。

 

一番北側にガリラヤ、真ん中にサマリア、一番南がユダヤです。

 

イエス様はガリラヤからエルサレムに向かって旅をしておられますから、途中でサマリアを通ることになるわけですが、問題はこのサマリアなんですね。

 

ユダヤ人もサマリア人も、元は同じなんですが、サマリア人というのはユダヤ人が外国人と結婚してできた民族です。

 

外国人と結婚して、別の民族になってしまったんです。

 

そういうことですから、信仰もユダヤ人の信仰とサマリア人の信仰は少し違っていたんですね。

 

全く違うわけではないんですが、全く同じでもなかったんですね。

 

ユダヤ人はエルサレムに神殿を建てて、そこで礼拝します。

 

エルサレムが中心なんです。

 

それに対して、サマリア人は、このサマリア地方にゲリジム山という山がありますけれども、そこを中心にしていました。

 

もとはユダヤ人もサマリア人も同じだったんですが、そういうことで、もう別の民族だということになってしまっていたんですね。

 

今日の聖書の個所に戻りますけれども、そういうことがあったものですから、イエス様は重い皮膚病をいやしてあげたサマリア人のことを、18節で、外国人と呼んでおられますね。

 

ユダヤ人にとってサマリア人は外国人だったんです。

 

ただ、この場面では、そもそも場所がサマリアとガリラヤの間であるということもありますし、イエス様に重い皮膚病をいやしてもらった10人の人の中には、ガリラヤの人もいたようですね。

 

18節でイエス様は「この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか」と言っていますよね。

 

ということは、この外国人のほかに、ガリラヤの人もいたようです。

 

ガリラヤの人はイスラエルの一番北の、ユダヤから遠く離れた所に住んでいる人たちだと思われていましたけれども、信仰はユダヤ人の信仰です。

 

ですので、ユダヤ人はユダヤ人なんです。

 

それなのにここでは、10人の重い皮膚病の人たちが出てきますけれども、この人たちは、ユダヤ人もサマリア人も一緒にいたようなんですね。

 

どうしてここでは、サマリア人とユダヤ人が一緒にいたんでしょうか。

 

それは、この重い皮膚病というのがどういう病気だったのか、ということを考えれば分かるんですね。

 

重い皮膚病というと、皆さんはどんな病気を想像しますでしょうか。

 

なんだか大変なことになっていそうですね。

 

ここでつかわれている重い皮膚病という言葉は、人間の皮膚だけでなく、布や家の壁についても遣われる言葉なのですが、完全に崩れてしまっている状態を指す言葉です。

 

皮膚が完全に崩れてしまっているんですね。

 

ですから、ハンセン病などもこれに含まれます。

 

ただ、ハンセン病よりももっと広い意味でつかわれる言葉ですので、ここでは「重い皮膚病」と訳されているんです。

 

そして、この重い皮膚病という言葉は、「打たれた」という言葉から来ています。

 

「神に打たれた」ということですね。

 

ですから、この「重い皮膚病」にかかった人は、神から罰を受けたのだと見なされるわけです。

 

そうなりますと、大変です。

 

まず、神殿に入ることはできません。

 

礼拝することが許されない。

 

神様との交わりを断ち切られてしまうのです。

 

それどころか、町の中に住むこともできません。

 

人との交わりも断ち切られてしまうのです。

 

もし人に出会うことがあったら、この人たちは、「わたしは汚れた者です」と大声で呼びかけなければなりません。

 

出会った人がこの人たちに触ってしまうことがないようにです。

 

この重い皮膚病にかかった人に触ってしまうと、触った人も汚れてしまう、そういうふうに考えられていました。

 

こういうことですので、この場面に出てくる10人の人たちは、ユダヤ人もいればサマリア人もいたわけですけれども、この人たちがユダヤ人であるにしたって、サマリア人であるにしたって、この人たちは、世の中からはじき出されてしまった人たちなんですね。

 

それだけでなくて、神の前からもはじき出されてしまった人たちです。

 

そんな人たちが、10人集まって、身を寄せ合うようにして、一緒に生活をしていた。

 

そういうことではなかったかと思います。

 

ですから、この人たちは、イエス様がやってくるのを見たわけですけれども、イエス様に近寄ろうとはしないんですね。

 

遠くの方に立ち止まったまま、大声で呼びかけるんですね。

 

この人たちは人に近づいてはいけない人たちでしたから、そうするしかないわけです。

 

この気持ちというのは、私にも少しわかりますね。

 

私は一年前まで、半年間、病気をして実家に帰っていたんですが、最初は本当に落ち込んでしまって、もう半分あきらめてしまって、自分のことを祈れないんですね。

 

自分がよくなるようにと祈ることができない。

 

この教会の皆さんのことは祈れるんです。

 

神様、皆さんを守ってください。

 

祈れるんです。

 

ですけれども、自分のことを祈れない。

 

あきらめてしまっていたんでしょうね。

 

そんな具合でしたので、実家の近くの教会に通ってはいたんですけれども、教会に行っても、なんとなく心が落ち着かないんですね。

 

この重い皮膚病の人たちのように、神様の前から締め出されてしまっているとか、そういうことではないんですが、気持ちには安らぎがないんですね。

 

その教会は自分の町の教会で、自分がそこで信仰を与えられた教会だったんですけれども、自分の教会ではないんですよね。

 

その教会に籍を置いているわけではありませんから。

 

私の会員籍はこの光が丘キリスト教会にあるんですから。

 

そういうことでしたから、なんだかどこにも自分の居場所がなくなってしまったような気分でした。

 

けれども、ここが自分の居場所ではないと感じているということは、自分の居場所というのが確かにどこかにあるんだと、いや、どこかではなく、それは、この愛する兄弟姉妹たちがいる、自分が籍を置いているこの教会なんだと信じているということですね。

 

そのことに気づいたとき、自分のことを祈りました。

 

それはもう、この人たちと同じ祈りなんですね。

 

「イエスさま、どうか、わたしを憐れんでください」。

 

憐れんでくださいって祈ったんですね。

 

ほんとに自分が憐れだなあと思いましたからね。

 

考えてみると、私が自分のことを祈れなかったのは、自分が憐れな者だということを認めたくなかったからなのかもしれません。

 

認めたくないじゃないですか、そんなこと。

 

でも、認めたんですね。

 

ここに戻ってきたかったから。

 

そう考えますと、この人たちのこの叫び、心にしみる声ですよね。

 

「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」。

 

自分が憐れな者なんだ、と。

 

でも、人との交わり、神様との交わりに戻りたいんだ、と。

 

助けてください。

 

この叫び声に対して、イエス様はおっしゃいました。

 

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。

 

イエス様の方でも、近づいてきてくださらないんですね。

 

イエス様も遠くから声をかけるだけです。

 

以前、イエス様が重い皮膚病の人を癒してくださったときには、その人の手を取ったんですね。

 

誰も触りたがらなかったその手にわざわざ触れて、癒してくださったんです。

 

そんなことをしなくてもイエス様はその人を癒すことができたはずなんですが、わざわざその人に触ってくださった。

 

それなのに、今回は遠くから声をかけるだけなんですね。

 

どうして今回はこんなにもやり方が違うんでしょうか。

 

これは、今回は、この10人の人たちの信仰が見られているからなんですね。

 

イエス様は今回は、この人たちの信仰を見ておられるんです。

 

イエス様はこうおっしゃいましたよね。

 

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。

 

体を見せなさいと言っても、重い皮膚病の体なんですよね。

 

それを見せてどうするんだ、という話なんですが、この病気は「神に打たれた」ことからくる病気でしたので、病気の診断をするのはお医者さんではなくて祭司なんですね。

 

祭司がこの病気だと言ったらこの病気なんです。

 

祭司が治ったと言ったら治ったことになるんです。

 

ということは、イエス様としては、あなたたちの病気は治るよ、きれいになった体を祭司たちに見せて、人との交わり、神様との交わりに戻らせてもらいなさい、ということですね。

 

しかし、今はまだ、その癒しは起こっていないんですね。

 

この人たちは、「そこへ行く途中で清くされた」と書かれています。

 

イエス様が「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」、こう言ったときには、まだ治っていないんです。

 

重い皮膚病のままなんです。

 

この10人の人たちも、一瞬どうしようかと思ったんじゃないでしょうか。

 

けれども、この人たちは信じたんですね。

 

イエス様がこういうふうにしなさいと言ってくれた、だったら、そうすれば、治るはずだ。

 

そう信じたんですね。

 

そして、祭司たちのところへ行く途中で癒されたんですね。

 

ここには大事な聖書のメッセージがあると思います。

 

救われたから信じるんじゃないんですね。

 

救いの出来事が起こったから信じるんじゃないんです。

 

信じるから、救われるんですね。

 

信じるから、救いの出来事が起こってくるんですね。

 

大事なのは、まだ起こっていない出来事を、それが神様の御心だから、それが神様の言葉だからというそれだけで、信じることができるかどうか。

 

この人たちのように、信じて歩き出すことができるかどうか。

 

今、自分の目に見える事柄よりも、神の言葉の方を、信頼することができるかどうか。

 

それが信仰なんですね。

 

これが聖書のメッセージです。

 

ここで、この10人は素晴らしい信仰を見せてくれました。

 

信じて歩き出して、その途中に神の業が起こったんですね。

 

けれども、話はここで終わりではありません。

 

ここで終わったらハッピーエンドだったんですけれども、一人の人がイエス様のところに戻ってくるんですね。

 

神を賛美しながら戻ってくるんです。

 

でもそれは、一人だけなんです。

 

それも、この人はサマリア人、外国人です。

 

この人は戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏して、感謝しました。

 

イエス様を礼拝したんです。

 

この人の気持ちは、私にも少しわかるんですね。

 

半年間、ここを離れて、実家に帰らなければならなくなって、一年前にここに戻ってきて、教会の中に入ってきて、ちょうどその聖餐卓の前に正座して、祈って、その時の気持ちを思い出しますね。

 

もう、実家の町の教会で礼拝をささげているのとは全然違うんです。

 

戻ってくることができて、ここでささげる祈り、祈りの中での賛美、それが本当の賛美なんですね。

 

実家の町の教会でももちろん賛美歌を歌うということはあったわけなんですが、それとは違うんですね。

 

本当の賛美というか、本当の礼拝というか。

 

神様が自分を抱き寄せてくださった。

 

それへの感謝、賛美。

 

それが礼拝ですよね。

 

この癒された人も、それを味わっているんだろうと思うんですね。

 

この人だって、神殿に入ることは許されなかったんですけれども、自分たちで賛美したり、祈ったりしたことはあったはずですよね。

 

でも、この時の賛美と礼拝は、今までとは全く違ってたんじゃないですか。

 

形だけのことじゃなくて、本当に、神様を礼拝している、その思いにあふれていたんじゃないですか。

 

その人に、イエス様はこう言ってくださいました。

 

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

 

あなたは救われた、とイエス様はこの人に言ってくださいました。

 

この人は救われたんですね。

 

他の9人の人たちはどうだったでしょうか。

 

9人の人たちも、清くされたと書かれています。

 

癒されたわけです。

 

けれども、救われたと言われているのはこの人だけなんですね。

 

ここにも聖書のメッセージがありますね。

 

救いというのは礼拝にあるんですね。

 

癒しという目に見える出来事ではなくて、本当の礼拝という心の中のこと、そこに救いがあるんですね。

 

目に見える癒しというのは確かに大きなことですけれども、考えてみれば、癒しというのは神様からの一方的な事柄ですよね。

 

それに対して、礼拝というのは、神様がいて、私たちがいて、私たちが神様と向かい合うわけですよね。

 

この、神様に向かい合うということが何よりも大きなことなんでしょうね。

 

聖書では、人間のことが、神様の前からさまよい出てしまった存在として描かれますが、その人間が、神様の前に戻ってきて、神様と向かい合って、礼拝をささげる。

 

神様の元に戻る。

 

それが救いなんですね。

 

考えてみれば、いくら癒されても、いずれは死ぬわけですよね。

 

癒されただけだったら、いずれ、すべての希望は無くなるわけです。

 

けれども、神様の元に戻ることができているなら、神様は、私たちが生きている間も、死んでからも、私たちの命を超えて神様なんですから、私たちの希望は失われることはないわけです。

 

これが決定的なことですね。

 

神様の元に戻ることができているかどうか。

 

これに比べたら、癒しなんて小さいことですね。

 

神様の元で、神様に心からの礼拝をささげているということ、それがもう、本当に決定的なことなんだと思います。

 

この人は、イエス様のところに戻ってきました。

 

祭司のところに行って、治ったと宣言してもらって、社会に戻ることよりも、神様の前に戻ることを優先したんです。

 

この人の人生はここで、本当に新しくされたんだと思いますね。

 

それが救いです。

 

他の9人の人たちも、立派な信仰の行いをしましたよね。

 

本当に治るかどうかなんて分からないのに、イエス様の言葉に従った。

 

けれども、それでは、救われたというところまではいかないんです。

 

目に見える行いとか、目に見える癒しとか、そういうことが大事なんじゃないんです。

 

私たちはどうしても目に見えるものを大事にしてしまいますけれども、救いは、礼拝の中にあるんです。

 

その人が人の目にどうであるかなんて、関係ありません。

 

今日救われたこの人は、重い皮膚病の人ですよ。

 

誰からも見捨てられたような人です。

 

神様からも見捨てられたと思われていた人です。

 

それも、この人はサマリア人ですね。

 

ユダヤ人からすれば、この人たちは、ちゃんとした信仰を持っていない人たちだと思われていた人たちです。

 

そんな人たちにも、救いは開かれているんですね。

 

そして、考えてみれば、私たちは、この人と同じじゃないですか。

 

私たちも、この場所で、礼拝をささげている。

 

それも、この人は、祭司のところに行こうという自分の歩みを中断して、礼拝するために戻ってきた、それと同じように、私たちも人生の歩みを中断して、イエス様のところに戻ってきて、賛美して、礼拝している。

 

これ、神様の元に取り戻されているっていうことじゃないですか。

 

だからイエス様は、私たちにも同じように言ってくださいます。

 

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。

 

私たちはこの言葉に、新しい一週間へと押し出されていくんですね。

 

その一週間の中で、思い通りにいかないこともあれば、失敗することもあるでしょう。

 

けれども、また日曜日には礼拝に戻ってきて、「立ち上がって、行きなさい」とイエス様に励まされて、新しい一週間を歩き出すんですね。

 

私たちは、確かに、神様に取り戻されている。

 

その目に見えない確かさを信じて、私たちは、歩いていくんです。

 

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  • #1

    渡邉淑光 (土曜日, 17 9月 2022 10:20)

    はじめまして。広島県福山市在住の渡邉淑光と申します。日本基督教団神辺教会に属しています。
    現在、専任牧師がおらず代務体制ではありますが、代務牧師、応援牧師、教会員の立証で日曜日の午前中に礼拝をしています。
    この度、私が立証する中で、先生のこの箇所を一部参照させていただき引用させていただきたいと思い、誠に勝手ながらご連絡させていただいた次第です。
    私は若いころから病気をしていました。今回も昨日退院したばかりです。病気をしていると教会に戻れることの喜びを感じます。
    初めてのご連絡で勝手なお願い、大変申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
    引用は、きちんと説明いたします。どうか勝手なお願いよろしくお願いします。