今週の説教「神の国とは何か」(ルカによる福音書17章20、21節)

 ●5/3()学び会(ローマの信徒への手紙、18:00-19:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:3020:30)

 ●5/7()礼拝(10:3012:00)、バーベキュー(光が丘公園)

 ★5/7()の説教:尾崎純牧師

 

 聖書:ルカによる福音書1722-37

 

説教題「何を思うべきか」

 

 

ルカによる福音書172021

 

20ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 

 

 

 

 

今日の話ですが、これはいわゆる世の終わりの話ですね。

 

世の終わり、この世界の最後の日。

 

それは、いつか必ずやってきます。

 

聖書を読んだことがない人だって、そのことは認めなければなりません。

 

地球にあと何年くらい人が住めるのか、というと、175000万年後までだそうです。

 

175000万年後になると太陽のサイズが大きくなってきて、その熱で地球には生き物が住めなくなってしまうんだそうです。

 

けれども、そんな先の話なんだったら私たちは気にしなくていいわけです。

 

もっと心配なことには、宇宙の気まぐれで、地球はいつ消し飛んでしまってもおかしくないんだそうですね。

 

太陽のサイズが大きくなってくるという話をしましたけれども、星にも寿命があって、星の寿命が尽きてしまう前に、星のサイズが大きくなってくるんだそうです。

 

大きくなって大きくなって、最後に大爆発。

 

その時、ものすごいエネルギーのレーザービームが発射されるんだそうです。

 

もしそれが地球に直撃してしまったり、地球の近くを通ったりしたら、それでもう終わりなんだそうです。

 

これはある科学者が言っていることなんですが、「地球は、どこから打ってくるか分からないスナイパーに狙われているようなもの」なんだそうです。

 

いつ、世の終わりが来るか分からない。

 

ですので、今日が最後になっても悔いはないというつもりで、今日、世の終わりの話を聞きたいと思います。

 

今日の話ですが、神の国はいつ来るのか、とファリサイ派の人たちは聞いています。

 

世の終わりには神の国が来ると旧約聖書に預言されていました。

 

神の国と言う時の国という言葉は支配とも訳すことができる言葉なんですが、世の終わりには神様の支配が実現するんですね。

 

それがいつになるのか知りたい。

 

神の国はいつ来るんですか。

 

神様の支配が実現する日を待ち望んでいたんです。

 

それに対してイエス様はどうお答えになっていますでしょうか。

 

まず、神の国は目に見えるものではないということですね。

 

そして、神の国はあなたがたの間にあるのだと、つまり、神の国はすでに来ているんだと言っています。

 

しかし、あなたがたの間にあるというのは一体どういうことでしょうか。

 

あなたがたというのはファリサイ派の人たち、ユダヤ教の指導者だった人たちですが、その人たちの間に、何がありますか。

 

この人たちの間におられるのはイエス様ですね。

 

神の子イエス様が人々の間におられる。

 

だからここに、神の国、神の支配はある。

 

そういうふうにおっしゃるんですね。

 

なるほど、そういうふうに言うことはできるでしょう。

 

イエス様は今までにも、病気をいやしたり悪霊を追い出したりなさってきました。

 

これは神様の支配ですよね。

 

病気の支配、悪霊の支配から、神様がその人を解放した。

 

その人は神様の支配に入れられた。

 

そういうことです。

 

ただ、このお答えは、聞いていた人たちはちょっと残念に思ったかもしれないですね。

 

神の国はいつ来るのか。

 

そういうことを聞きたいということは、これは、神の国が来るときには何か大きな出来事が起こるんだと思っているということですよね。

 

それなのに、もう今、ここにあるよ、わたしだよ、そんなふうに言われてしまった。

 

これはちょっと聞いていた人たちは残念だったかもしれません。

 

ただ、考えてみれば、支配というのは目に見えるものではないですね。

 

健康そうに見えて病気に支配されている人もいますし、悪霊に取りつかれているのかどうかなんて、目では見えません。

 

ですから、神の国というものを、私たちが勝手にイメージしてしまうのは良くないですね。

 

そもそも、人間に思いつくようなものなら、神のものではないんじゃないでしょうか。

 

人間に思いつくようなものなんだったら、人間がやればいいんです。

 

神様に頼る必要なんてない。

 

そこへいくと、今、イエス様は、ご自分がいるところに神の国はあると言っているわけですけれども、イエス様はまさに、人間の考えを超えた方ですよね。

 

なにしろ、神が人になられたんですよね。

 

これは人間には思いもつかないことですね。

 

考えてみれば、この世の宗教って、全部、人が神になろうとしているんですよね。

 

一生懸命頑張って努力して修行して、自分を高めていくんですよね。

 

そしてそれって、この世の宗教だけじゃなくて、世の中全部そうじゃないですか。

 

学校でも、家の中でも、会社でも、一生懸命頑張って努力して修行して、自分を高めろっていうそういう話ばっかりですよね。

 

でも、イエス様だけは違うんですよね。

 

神様が人のところに降りてこられた。

 

それも、人になって、人のところに降りてこられた。

 

そんな話聞いたことがないですよ。

 

でも、イエス様からすると、人になる必要があったんですね。

 

人間の代表として、人々の罪を代わりに背負って、人々の代わりに罰を受けるおつもりだったから。

 

イエス様が十字架で罰を受けてくださったから、私たちはもう罰を受けることはない。

 

そこに、神の国に私たちが入っていく道が開かれていくんですね。

 

こんなこと、人間は誰も考え付かなかったことでした。

 

旧約聖書をよく読めば、書かれていたんですが、誰も本当の意味では理解できなかったんですね。

 

それは仕方のないことかもしれません。

 

神様のなさることは人間の考えなんて超えているんです。

 

だから、神様なんですね。

 

私たちが自分の力で頑張ってなんとかしなきゃいけないって、考えていても、神様は私たちの考えなんかはるかに超えたところで私たちを救ってくださる。

 

今、イエス様は私たちの目には見えないわけですけど、今も確かにイエス様は私たちの間にいる。

 

私はいつも礼拝の最後にマタイによる福音書の一番最後のところを読むんですけれども、イエス様は約束してくださっていますよね。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 

イエス様は天に昇って行かれたわけですけれども、洗礼を受けた時に私たちに与えられた聖霊という形で、イエス様は私たちと共にいてくださっている。

 

そういう形で、私たちの間にいる。

 

だから大丈夫なんです。

 

私たちも、良くないものに支配されているように感じることはあります。

 

病気であったりとか、人から支配される、苦しめられることもありますよね。

 

考えようによっては、自分で自分を苦しめていることだって、ないとは限らない。

 

私たちは時として、まだ起きていないことで心配することがあります。

 

けれども、未来のことを勝手に想像して心配するような時、それが現実に起こる確率は1割くらいなんだそうです。

 

9割は起こらない。

 

それなのに心配するなんていうのは、自分で自分を苦しめているんですよね。

 

あるいは、昔のことを思い出して、嫌な気分になることだってありますよね。

 

そういうのだって、自分で自分を苦しめてるんだと思いますね。

 

昔のことというのは、もう今は、そういうことは現実には起こっていないことなんです。

 

それなのに、わざわざそれを思い出して、苦しい思いをしてしまう。

 

そんな私たちの現実の中に、イエス様は来てくださっているんですね。

 

時としてつらく悲しい私たちの現実の中に来てくださって、人間の考えなんか超えたところで、神様が、この私のために働いてくださるんですね。

 

その神様の力はどんな力よりも強いです。

 

イエス様が十字架にかかられた時、それは、見ようによっては神が人の罪に負けた、そういう出来事ですよね。

 

ですがそこに、人の考えを超える仕方で、神様の御心が実現していたんです。

 

その十字架に、神の国への道が私たちにも開かれていったんです。

 

ですから、悪い力に支配されていると感じることがあっても、私たちは大丈夫なんです。

 

その時その時は私たちには理解できないかもしれないけれども、必ず神の支配が実現する。

 

それを私たちは信じていいんです。

 

約束されていることなんだから。

 

考えてみれば、私たちの教会自体、そうじゃないですか。

 

S宣教師が教会設立のお祝いのあいさつ文に書いておられましたけれども、私たちの教会はそもそも、この教会の建物を建てる見込みもないままに始まったんですね。

 

けれども、今ここにこうして、立派な会堂が立っている。

 

そこに至るまでに不安もあったと思いますよ。

 

でも、こうして教会堂が建てられて、ここに私たちは安心して集まることができる。

 

これ、どうしてここに教会が建てられることになったのかは謎なんだそうです。

 

なぜかというと、この教会が建てられることになった当時、それは14年前のことですけれども、その頃にはもう、中国で伝道できるようになってきていましたから、日本に教会を建てるよりも中国に教会を建てるほうが良かったんですね。

 

中国のほうが日本よりも物価が安いです。

 

私たちの教会は土地と建物で16000万円したと聞いていますけれども、中国の田舎のほうに行くと、それくらいのお金があれば、大きな教会を10個くらい建てられるそうなんです。

 

それだけでなく、中国の教会は日本の教会よりもはるかに多くの人を集めていました。

 

今、中国ではクリスチャンが日本の人口と同じくらいいるそうなんですね。

 

ですので、私たちの教会を建ててくれたアメリカとしても、日本より中国と考えていたんです。

 

実際、日本に教会を建てさせてくださいとお願いに行ったときには、ものすごく冷たい態度をとられたそうなんです。

 

それで、もう駄目だろうな、と思っていたそうなんですが、なぜか、OKという返事をもらえたんだそうです。

 

不思議ですね。

 

でも分かりますよね。

 

神様が働いてくださったんですね。

 

私たちにはそれが具体的に何であったのかは分かりませんけれども、きっとそうなんですね。

 

教会が立つ前は、この近所のマンションの一室で礼拝をしていたそうですが、そこに集まっていた人々の間にも、イエス様は確かにいてくださったんですね。

 

そしてそれは、今もですよね。

 

私たちの教会は、今まで何年も、会員の数で言うと10人台半ば、156人で来ました。

 

それが、2015年の年末に初めて20人になった。

 

去年の年末には24人になった。

 

今年のイースターで25人になった。

 

それも、2015年の年末に初めて20人になったときには、牧師である私は病気でここにいなかったんですよね。

 

それなのに、会員の数が増えた。

 

こういうことって、普通起こらないんです。

 

私はこういう話は聞いたことがありません。

 

牧師がいなくなると、教会というのは必ず弱るんです。

 

でも、私たちの教会は弱らなかった。

 

むしろ、強められた。

 

不安はあったと思いますよ。

 

どうして、という思いもあったと思います。

 

私にもありましたから。

 

でも、お一人お一人、本当に一生懸命奉仕してくださって、教会を守ってくださった。

 

そこに神様が力ある御手を置いてくださったんじゃないですか。

 

今も、私たちと共に、イエス様はいてくださっているんですね。

 

私が実家に帰っていたことも、無駄ではなかったです。

 

実家に帰っていた時、両親と一緒に教会に行くようになったんですね。

 

両親はそれまで、教会にはほとんど来なかったんですが、礼拝に来てくれるようになった。

 

でも、私がこちらに戻ってきてから、両親はなかなか教会に行かなくなったんですね。

 

私がいなくなってしまったから。

 

でも、最近、私の出身教会の長老さんから連絡があって、両親は毎月一度は礼拝に来ているんだそうです。

 

誰にも言われなくても、教会に行くようになったんですね。

 

やっぱり、神様の力は働いているんですね。

 

たとえ私たちがあきらめそうになっても、そんなマイナスの力よりももっと強い力で、神の国は私たちの間にあるんです。

 

私たちの思いを超えて、私たちの現実を超えて、神の支配を実現してくださるんです。

 

まして、今、イエス様は、ファリサイ派の人たちに対して、この話をしてくださっているんですよね。

 

ファリサイ派の人たちというのはユダヤ教の指導者ですが、イエス様の敵ですよ。

 

この人たちはイエス様のことを憎んでいたんです。

 

自分たちよりもイエス様のほうが人々に人気があるから、イエス様のことを嫌っていたんですね。

 

そして、この人たち、最後にはイエス様を十字架につけてしまう人たちなんです。

 

それなのに、イエス様はおっしゃるんですね。

 

「神の国はあなたがたの間にある」。

 

私はあなたがたとも共にいる。

 

そういうふうにいってくださるんですね。

 

これ、考えられないことじゃないですか。

 

普通だったらこんなこと言いませんよ。

 

「あなたがたは神の国に入れない」、そういうふうに言われてしまっても仕方ないんじゃないですか。

 

それなのに、イエス様は、この人たちにもこう言ってくださるんですね。

 

これはもう、その人がどうだとかこうだとかいう問題じゃないんですね。

 

人間の側に何があるかなんていう問題じゃない。

 

神の国が人の世にいきなり突入してきたっていうような、そんな感じの出来事。

 

もう本当に、人間を超えた出来事です。

 

人間の言葉で説明できないくらい、強い力なんです。

 

人間なんかをものともせずに、でも、人間を命がけで救う、神の力。

 

それが私たちのところにやってきた。

 

神が人になってやってきた。

 

そして、今も共にいてくださっている。

 

そんな、神様の出来事。

 

神様中心の出来事。

 

人間の心の中心にやってくる、神様中心の出来事。

 

それがイエス様、神の国、神の支配なんです。

 

ですので、神の国は世の終わりに完成するわけなんですけれども、私たちはそれがいつになるかなんて考えなくていいんですね。

 

いつになっても大丈夫です。

 

たとえ今日でも大丈夫です。

 

力あるイエス様が共にいてくださっている。

 

いつか必ず、神様の支配を、私たちの考えを超えた仕方で、私たちの間に実現してくださる。

 

いつなのかなんて、問題じゃないです。

 

神様の支配はもう始まっていて、いつかそれが、罪の支配、悪の支配を打ち破って、完成する。

 

その時も、私たちは、神の国にいる。

 

それで充分です。

 

それだけが、本当に大切なことなんだと思います。

 

未来のことも過去のことも考えなくていいんです。

 

今、私たちの間に、イエス様はいてくださっている。

 

それ以上に望むことがあるでしょうか。

 

一番大事なことを、イエス様は約束してくださっているんです。