今週の説教「何を思うべきか」(ルカによる福音書17章22節から37節)

今週の予定

●5/10()牧会事例研究会(16:00-17:00)学び会(ローマの信徒への手紙、18:00-19:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:3020:30)

●5/11()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●5/13()牧師週休日

●5/14()母の日、礼拝(10:3012:00)、お茶会、掃除

★5/14()の説教:尾崎牧師

聖書ルカによる福音書181-8

説教題「気を落とさずに」

 

 

ルカによる福音書1722-37

 

22それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。25しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。26ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。27ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。28ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、29ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。30人の子が現れる日にも、同じことが起こる。31その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。32ロトの妻のことを思い出しなさい。33自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。34言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。35二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」37そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 

 

 

♱底本に節が欠けている個所の異本による訳文:36畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。

 

 

 

 

 

おはようございます。

 

今日の場面は先週の続きで、段落の途中の22節からですね。

 

ここのところから、イエス様は、弟子たちに対してお話になります。

 

先週はイエス様はファリサイ派の人たちに対してお話になられたんですが、ここからは弟子たちに対する言葉になります。

 

話の中身としては、世の終わりの話の続きですね。

 

世の終わりの日のことが、ここでは、「人の子の日」と言われています。

 

この「人の子」という言葉は、イエス様がご自分を指してつかった言葉です。

 

ですのでつまりこれは、イエス様の日ということです。

 

イエス様は世の終わりの日にもう一度この世にいらしてくださることになっていますので、世の終わりの日のことを、私の日だ、というふうに言ったんですね。

 

ただ、その日のことを、イエス様は弟子たちに対して、あなたがたはその日を見ることはできないと言っています。

 

世の終わりの日というのは神の国、神様の支配が完成する日ですので、弟子たちとしてはそれを見たいわけなんですが、それを見ることはできないんですね。

 

これは、先週イエス様がファリサイ派の人たちに話したこととも重なってくるんですが、神の国というのは、目で見てどうのというものではないんですね。

 

けれども、私たちとしては、どうしても目に見える事柄に興味があるわけです。

 

ファリサイ派の人たちもイエス様の弟子たちも、目で見たいわけです。

 

けれども、世の終わりの日というのは目で見るものではないようですので、イエス様はここで、弟子たちに対して注意をしていますね。

 

それが23節ですが、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。

 

こういう話は全部嘘だよ、ということですね。

 

どうしてそう言えるのかというと、世の終わりの日というのは、その日がもう来ているのかまだ来ていないのか分からないような、分かりにくいものではないんですね。

 

目では見えないんだけれども、分かりにくいものではない。

 

24節にこうあります。

 

「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。

 

稲妻、雷にたとえられています。

 

ですので、一瞬にして、誰でもはっきりそれと分かる、ということのようです。

 

ということは、誰かから教えてもらう必要はないわけですね。

 

「見よ、あそこだ」、「見よ、ここだ」、そんなふうに教えてもらう必要はないんですね。

 

その日が来れば、誰にでもはっきり分かるんです。

 

そういうことですから、見れるものならそれを見たいとか、いつ来るのかとか、そういうことは考えなくてもよさそうなんですね。

 

ファリサイ派の人たちや弟子たちはこの目で見たいということで頭の中がいっぱいになりそうだったみたいですけれども、頭の中に入れておくべきことはもっと他にあるんだっていう感じですね。

 

その、本当に頭の中に入れておくべきことが25節ですね。

 

イエス様が排斥されるということですね。

 

これは確かに起こったことでした。

 

今イエス様はエルサレムに向かっておられますが、エルサレムでイエス様は陥れられて、死刑にされてしまいます。

 

ではいったいどうして、そんなことになってしまったんでしょうか。

 

イエス様を十字架につけた人たちのどこに問題があったんでしょうか。

 

そのこととつながってくるのがその次の26節からのところです。

 

この26節から、もう一度世の終わりの話になって、それがずっと最後まで続いていきます。

 

ですので、十字架の話とはまた違ってしまうんですが、人々の心には共通点があるんですね。

 

26節からのところでは、まず、ノアの話とロトの話がされていますね。

 

この二人とも、ノアもロトも、旧約聖書の創世記の登場人物です。

 

ノアは創世記の6章、ロトは19章に出てきます。

 

そして、この二つの話には、共通点があるんです。

 

ノアの話もロトの話も、人間の罪に対する神様の裁きが迫っている場面なんですが、そんな場面なのに、ノアの話でもロトの話でも、多くの人々は普段通りなんですね。

 

イエス様が27節で、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していたと言っていますけれども、28節では、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」していたと言っていますけれども、もうそういう感じで、普段通りの毎日をただただ繰り返していたんです。

 

人間の罪に対する神様の裁きが迫っているのに、全くいつも通り。

 

目に見える今の自分の生活だけ考えて生きていたんです。

 

これ、イエス様を十字架につけた人たちも、同じじゃないですか。

 

ファリサイ派の人たちは、イエス様に人気が集まって、多くの人がイエス様のもとに行くようになって、そうなると自分の立場がどうなるかわからない。

 

ファリサイ派の人たちはユダヤ教のリーダーだったんですけれども、自分たちのところに人が来なくなってしまったら、自分たちはどうなるのか。

 

それで、ファリサイ派の人たちは、嘘をついてイエス様をローマ帝国に訴えた。

 

ローマ帝国は当時、イスラエルを支配していましたから、ローマ帝国にイエス様を死刑にさせようとした。

 

そうすればイエス様を殺しても、自分の人気は下がらないですね。

 

自分たちの手でイエス様を殺してしまうと自分の人気が下がってしまうでしょうけれども、ローマ帝国に死刑にさせるんだから、自分の人気は下がらない。

 

これ、ノアの話やロトの話に出てくる人たちと同じじゃないですか。

 

この人たちも、目に見える今の自分の生活だけ考えて生きていたんです。

 

とにかく、今の自分のままでいたい。

 

今の自分を守りたいってことですよね。

 

そして、ローマ帝国の責任者であるポンテオ・ピラトも、たくさんの人たちが死刑にしろと言うものだから、これで死刑にしなかったら自分の立場はどうなってしまうか、そうなるとみんなもう自分に従わなくなるんじゃないか、と考えて、この人はイエス様に罪がないことを知っていたのに、死刑にしてしまった。

 

やっぱり、同じなんです。

 

目に見える今の自分の生活だけ考えて生きていたんです。

 

今の自分を守りたかったんです。

 

ノアの話もロトの話も、イエス様が排斥される話も、人々の心は全部一緒なんです。

 

目に見える今の自分の生活を守りたいという気持ちが、イエス様を十字架につけたんだし、目に見える今の自分の生活を守りたいという気持ちばっかりの人たちは、ノアの話でもロトの話でも、滅ぼされてしまうんですね。

 

考えてみればこれ、イエス様を十字架につけた人たちも、ノアの話やロトの話で滅ぼされた人たちも、自分中心ですよね。

 

自分中心、それは聖書で言うところの罪ですよね。

 

そして、考えてみればこれは、今日のイエス様の弟子たちとか、先週のファリサイ派の人たちも同じようなものですよね。

 

神の国が目で見て分かるものだと勝手に思っている。

 

これは、目に見える今の自分の生活の中で、その範囲内で、神の国を考えているから、そんなふうに思い込んでいたということじゃないですか。

 

問題はこれですね。

 

今の自分のことばかり、目に見えることばかり大事にしてしまう。

 

そんな心でいたのでは、本当に神の国を見ることはできませんね。

 

何しろ神様は、隠れたところで働いてくださる神様です。

 

隠れたところ、私たちには見えないところで働いてくださるんです。

 

聖書のどのページを見ても、神様が、誰にでも見えるような仕方で、大っぴらに働いたなんて言うことはありません。

 

神様はいつも、私たちに見えないところまで見通して、その上で、私たちに見えないところで働いてくださる。

 

そうするのは、神様が私たちを愛しているからです。

 

言葉を変えるなら、私たちを尊重してくださっているからです。

 

だから、私たちが無理やりにでも自分を変えなければいけなくなるような、大っぴらななさりかたはしないんですね。

 

イエス様は先週、21節でおっしゃってくださっていましたね。

 

「神の国はあなたがたの間にある」。

 

あなたがたというのはファリサイ派の人たちのことなんですが、この人たちの間にも、イエス様は来てくださっている。

 

もちろん、私たちの間にもイエス様はおられます。

 

イエス様は、マタイによる福音書の最後のところで約束してくださっていますよね。

 

「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」。

 

この言葉の後でイエス様は天に昇って行かれましたが、私たちに与えられた聖霊、神の霊という形で、イエス様は今も、私たちと一緒にいてくださっている。

 

その目に見えない現実を見出すことができるか。

 

隠れたところでのお働きを、見出すことができるか。

 

目に見えることが大事なんじゃないんです。

 

目に見えない現実を見出すことが大事なんです。

 

けれども私たちは、なかなかそうすることができない。

 

目に見えるものにこだわってしまう。

 

だからイエス様は、31節からのところで、終わりの日が来た時にこういうことはしてはいけないと注意を与えておられますよね。

 

家財道具を取りに戻ってはいけない。

 

家に帰ってはいけない。

 

32節で「ロトの妻のことを思い出しなさい」と言われていますけれども、ロトの妻は後ろを振り返ってはいけない、前だけ向いてとにかく走りなさい、走って、裁きから逃げなさいと言われていたのに、自分の町を、自分の家を、振り返ってしまって、裁きを受けてしまったんですね。

 

私たちは本当に、目に見えるものに弱いです。

 

これは、東日本大震災の時のことを思い出しますけれども、地震が起こって、これから津波が来ると分かって、みんな車で逃げようとしたんですね。

 

そうなりますと当然、渋滞して、車は前に進まなくなります。

 

そうなったら車を捨てて逃げなければ仕方ないはずなのに、多くの人が車を手放すことができなくて、車と一緒に津波にのまれてしまったんです。

 

けれどもこれ、私たちも、同じ状況になれば、同じようにしてしまうんじゃないでしょうか。

 

私たちもどうしても、目に見えるものにこだわって、自分で自分を生かそうとしてしまう傾向があるんじゃないかと思います。

 

33節の話になりますが、自分の命を自分で生かそうと思うなら、目に見える今の自分の生活を自分で守ろうとするなら、目に見えるものがどうしても必要になります。

 

けれども、それでは結局自分を救うことはできない。

 

考えてみればそうですよね。

 

どのみち、いずれ私たちの命はなくなってしまう。

 

いくら自分で自分を生かそうと思っても、いつか死ぬ時がやってくる。

 

それは避けられない。

 

だったら、隠れたところで神様が働いてくださっている、目に見えないところで神様が働いて、私を生かしてくださっている、そういう考えで生きていく方が賢いんじゃないですか。

 

神様は、私たちが生きている間も、死んでからも、私たちの神様なんですから。

 

そういう思いでいられれば、目に見えるものにこだわることはなかったでしょう。

 

でも、なかなか私たちはそうできない。

 

どうしても悪い癖があって、自分で自分を生かそうとしてしまう。

 

私たちは本当のところ、自分で生きようとしているから生きているわけではありませんよね。

 

そんなこと考えなくたって、私たちは生きている。

 

自分の力で生きているわけではないのに、命を与えられて、生かされているのに、自分で自分を生かそうと勘違いしてしまう。

 

大事なのは、そこのところで考えを変えることですね。

 

33節で、「それを失う者は、かえって保つのである」と言われていますけれども、これは、私の、自分の命だ、そういうふうに考えて、自分で自分を生かそうという考えを捨てることができたら、それはもう、自分自身に従うのではなく神様に従うということですから、そういう人を神様は守ってくださるという約束ですね。

 

そのために今も、イエス様は私たちと一緒にいてくださっているんじゃないですか。

 

イエス様が私たちを見殺しにすることになるのなら、わざわざ一緒にいませんよ。

 

助けたいんですよ、私たちを。

 

そのために、十字架につけられても構わない、多くの人の罪を代わりに背負って、代わりに罰を受けることで、そこから、神の国が大きく広がっていくんだから構わない。

 

一人でも多くの人に、目に見えない仕方で広がっている神の国を味わわせてあげたい。

 

それがイエス様のお考えなんですから。

 

その方が一緒にいてくださるっていうことは、必ず助けるよっていうことなんです。

 

そのお気持ちに、私たちは乗っかりたいですね。

 

車に乗って逃げようとするより、そのお気持ちに乗っかりたい。

 

もし私たちにそれができているなら、私たちは、神の国に迎え入れてもらえることでしょう。

 

34節からのところで、救われる人もいれば、救われない人もいるということが言われていますけれども、ここに出てくる「連れて行かれる」という言葉は、原文では、「迎え入れられる」という言葉です。

 

神の国に迎え入れられる。

 

そして、「残される」という言葉もありますが、これは原文では、「見捨てられる」という言葉です。

 

一緒に生活していても、一緒に仕事をしていても、神の国に迎え入れられる人もいれば、見捨てられる人もいるんですね。

 

要するにこれは、一人ひとりの心の中が見られるんだよということです。

 

一人一人が判断されるんだよ、ということです。

 

ここで、36節が本文から抜けていまして、代わりに小さいマークがついていますけれども、これは36節の言葉が、もともとの原本にその言葉があったのかどうか分からないということなんですね。

 

この36節はこの福音書の最後のページに書かれていますけれども、言われていることは同じことです。

 

一緒にいても、一人一人が判断されて、神の国に迎え入れられる人もいれば、見捨てられる人もいる、ということです。

 

大事なのは、この、「迎え入れられる」とか「見捨てられる」っていう言葉づかいですね。

 

「迎え入れられる」、「見捨てられる」。

 

連れて行ってもらえるか、もらえないか。

 

要するにこれ、これが大事なことですけれども、自分の力で入るところじゃないっていうことですよね。

 

神の国は自分の力で入るところじゃないんです。

 

だから、大事なのは、神様にゆだねるという気持ちがあるかどうか。

 

これは自分の命だ、だから自分で自分を生かそう、目に見える今の自分の生活を守ろう、そういうふうに考えずに、これは与えられた命だ、自分は神様に生かしていただいている、今も、目には見えない神様が、隠れたところで私のために働いてくださっている、その神様にお任せしよう。

 

そういうふうに考えることができるかどうか。

 

そこにかかっているんですね。

 

それなのに、これ、最後の最後で、弟子たちの質問、どうですか。

 

「主よ、それはどこで起こるのですか」。

 

まだそんなことを言っているのか、という感じですね。

 

目に見えるところにこだわってしまう。

 

イエス様はお答えになりました。

 

「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」。

 

これ、当時のことわざです。

 

条件が整えば、自然に出来事は起こるという意味になります。

 

死体という条件があれば、そこにはげ鷹が集まってくるという出来事が起こる。

 

条件があれば、それにふさわしい結果が起こる。

 

この言葉で、イエス様は、弟子たちの質問に対して、はっきりとは答えていないわけですが、事情が整ったらいつか必ず起こるよ、とお答えになっているわけです。

 

けれどもこのことわざ、あんまりいい印象のことわざではありませんよね。

 

これだとなんて言うか、お前たちはどっちかっていうと見捨てられるほうだよ、と言っているようにも聞こえます。

 

弟子たちに対して、お前たちはそのままじゃいかんよ、というお気持ちなんでしょうね。

 

大事なことは、神様におゆだねして、目に見えない神様のお働きを見出そうとしているかどうか。

 

それが、この時の弟子たちはまだできていなかったんですね。

 

でもこれ、そんなに難しいことじゃないと思うんです。

 

神様は隠れたところで働いてくださっている。

 

それは、探そうと思えば私たちの現実の中にいくらでも見つかると思うんですね。

 

私は、2015年の10月から、病気をして実家に帰っていました。

 

その年の年末くらいから回復しだしたんですが、10月とか11月とかは、本当に何の希望もなかったんですね。

 

真っ暗だった。

 

でも、11月のある日、その日は体調が良かったので、近所の小さい丘に登ってみたんですね。

 

そうすると、この会堂くらいの広さの原っぱがあって、もう11月ですから、他の草花は全部枯れているんですが、全部枯れて、その原っぱは茶色のじゅうたんみたいになっているんですが、その真ん中に一本だけ、ユリが咲いていたんですね。

 

ユリって春から夏にかけて咲くものですよ。

 

それなのに、一本だけ、11月にユリが咲いていた。

 

考えてみればユリって、復活の象徴ですよね。

 

そういう賛美歌を私たちも歌っていますけれども、ユリって、球根から生えてくるじゃないですか。

 

球根って、茶色で、枯れたような色で、そこに命があるようには見えませんよね。

 

それなのに、春になるとそこから芽が出て、茎が伸びて、花が咲く。

 

そういうことで、ユリは復活のシンボルなんです。

 

そのユリが、11月に一本だけ、なぜか、枯れた雑草だらけの原っぱに咲いていたんです。

 

それを見た時、思いました。

 

帰ってこれるんじゃないか、ここに戻ってこられるんじゃないか。

 

実際にここに帰ってくるにはもっと長い時間がかかったわけですけれども、帰ってこれたんですね。

 

そういうことって皆さんの周りにもあると思うんですね。

 

見落としているだけで、神様が働いてくださっていることって、たくさんあると思うんです。

 

そういうことを、ぜひ、探してみてください。

 

それを探している内に、気が付いたら神の国に迎え入れられるのではないか、と思っています。