今週の説教「気を落とさずに」(ルカによる福音書18章1-8節)

【今週の予定】

●5/15()東部中会教師会(13:30-17:00)

●5/16()礼拝(聖餐式あり、9:00-10:00)

●5/17()学び会(ローマの信徒への手紙、18:00-19:00)、聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:3020:30)

●5/18()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●5/19()牧師週休日

●5/21()礼拝(10:3012:00)、お茶会、小会(13:00-15:30)、掃除

★5/16()の説教:尾崎牧師

  聖書:マタイによる福音書1344-50

  説教題「隠れた宝」

★5/21()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書189-14

説教題「義とされて帰る」

 

 

ルカによる福音書181-8

 

1イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 

 

 

 

 

今週のお話は、祈りについてですね。

 

祈ることの大切さを私たちに教えてくれている場面です。

 

祈ることの大切さを、私は先週の日曜日に思い知らされました。

 

先週はバーベキューをやりましたけれども、私たちのバーベキューでは、いつもなかなか炭に火がつかないんですね。

 

なので、肉はカセットコンロとフライパンで焼いて食べて、肉を食べ終わったあたりで炭に火がついて、炭火で焼き芋を作る。

 

焼き芋のためだけの炭。

 

そういう感じだったと思うのですが、今年は私はインターネットで調べまして、10分で炭に火を起こす方法というのを知ったんですね。

 

ですので、今年はもう安心してくださいということを申し上げていたんですが、実際やってみると、10分では炭に火はつかないんですね。

 

最初真っ黒だった炭が白っぽくなってきて、なんとなく温かくはなっているんですが、炭が真っ赤にならないと肉は焼けないわけです。

 

もうどうしようかと思いました。

 

けれども、参加してくださった方の中に、焼肉屋さんで働いておられたことのある方がいらっしゃって、助けてくださって、今年は炭火で肉を焼いて食べることができました。

 

先週、説教の中で、神の国、これは神の支配とも訳せる言葉なんですが、それが見えるとか見えないとか、そういう話が出てきまして、その中で、私は、神様は隠れたところで働いてくださる方だということを申し上げましたけれども、まさに神様が隠れたところで働いてくださって、私の失敗をフォローしてくださったんだなあと感謝しています。

 

これは本当に私の失敗だったなあと思いますね。

 

どうしてかというと、今日のイエス様のお話は祈りの話ですけれども、思い返してみると、私は、このために祈ってなかったんですね。

 

バーベキューのためには祈るんです。

 

楽しく過ごせるように祈るんです。

 

でも、自分が調べたこの方法で炭にすぐに火が付くように、そのことは祈らなかったんです。

 

それは自分はもう調べて知っているから大丈夫だ。

 

そんなふうに考えていたんでしょうね。

 

先週の説教の中で、神の国、神の支配というのは連れて行ってもらうところ、原文でいうと、迎え入れられるところで、自分の力で入るところではないので、神様にゆだねようというお話をしたんですが、私は炭に火をつけるというところでは、神様にゆだねていなかったんですね。

 

自分の力でできると思っていたんです。

 

ゆだねて祈るということの大切さを思い知らされました。

 

それでも神様は隠れたところで働いてくださって、人を遣わしてくださって、助けてくださったんですから、本当に感謝だなあと思います。

 

助けてくださった方に神様の祝福があるようにお祈りいたします。

 

 

 

先週の話はそれくらいにして、今週の話に入りますけれども、気を落とさずに絶えず祈る、ということが今週のテーマですね。

 

祈りが聞かれていないと思うことってありますよね。

 

そうなると気を落としてしまって、祈れなくなってしまう。

 

神様は聞いてくださっていないんだと思って落ち込んでしまう。

 

そんな私たちにイエス様はおっしゃるんですね。

 

気を落とさずに、絶えず祈りなさい。

 

祈りは必ず聞かれる。

 

でもなかなか、そうすることができない。

 

これはよく思い出してみると、私にも覚えがありますね。

 

ずっと以前、仕事が本当に大変な時期がありました。

 

以前は伝道所でしたから、結局、大体の仕事は自分でしなければならない。

 

本当にたくさんの仕事がありました。

 

後から考えてみると、毎月大体、300時間くらい仕事をしていました。

 

これ、毎月の仕事時間が300時間というのは過労死の判定ラインになるそうです。

 

もちろん、もう少し無理なく働けるようにと祈っていました。

 

でも、なかなか楽にならない。

 

そうしている内に倒れてしまったんですね。

 

「祈りが聞かれなかった」。

 

その時はそう思いました。

 

でも、神様の側に何か理由があるんだろうとも思っていました。

 

ただ、祈りが聞かれなかったわけだから、もうその祈りは祈れない。

 

実家に帰ってからは、この教会の愛する兄弟姉妹を守っていてくださいと、そればかり祈っていました。

 

気を落としてしまった、ということですね。

 

もうダメだったんだと思って、あきらめてしまったんです。

 

 

 

けれども、イエス様は今日、気を落とさず絶えず祈りなさいとおっしゃるんですね。

 

気を落とすことはない、と。

 

祈りは聞かれる、と。

 

そして、たとえ話をなさいます。

 

ある裁判官がいました。

 

その人は、神を畏れず人を人とも思わないような人でした。

 

「神を畏れず」、「人を人とも思わない」。

 

考えてみるとこれ、神を畏れないということと人を人とも思わないということは、つながっていることですね。

 

神様というのは、すべてをご存じで、どんなことでもできる方です。

 

私たちとは比べ物にならないくらい大きな存在です。

 

だから神様を畏れ敬うのですが、その神様が、私をお造りになられたし、他の人たちもお造りになられたんですね。

 

そう考えるなら、他の人を尊重することができますね。

 

心の中に神様を思い描いているなら、人を人とも思わないなんていうことはない。

 

けれどもこの裁判官は、神を畏れていないので、だから、人を人とも思わないんですね。

 

考えてみると、別に聖書を読んでいなくても、人を大事にする人って、自分よりも大きなもの、自分よりも大きな存在、もしかすると大きな理想を見上げている人ですね。

 

自分より大きなものを考えようとしない人は、人を人とも思わないですね。

 

この裁判官はそういう人でした。

 

それが罪だと聖書は言うんですが、本当に自分中心だったんです。

 

この裁判官のところに、一人のやもめがやってきます。

 

やもめというのは夫を亡くした妻のことですね。

 

当然、弱い立場の人です。

 

この女の人は裁判官にお願いするんですね。

 

「相手を裁いて、わたしを守ってください」。

 

一体これが具体的にどういう内容だったのかは分かりませんが、この人は何度も何度もこの裁判官のところにやってきたようです。

 

このところを原文で見ますと、何度も何度もという意味になる言い方がされているんですね。

 

ということは、この女の人の言葉、「相手を裁いて、わたしを守ってください」という言葉は、なんだかこれだけ聞きますと一体この人はどういう人なんだろうという気分になりますが、少なくともこの女の人は自分が無茶なことを言っているつもりはなくて、自分が正しいと信じていたということのようですね。

 

そして、この女の人が正しいということは、裁判官も認めていたことではないかと思うんです。

 

この裁判官は女の人の訴えをなかなか聞こうとしなかったんですが、その理由は、この女の人が間違ったことを言っているからということではないんですね。

 

そういうふうには書かれていません。

 

この裁判官が女の人の訴えを聞こうとしないのは、4節に書かれていますが、「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」からですね。

 

つまり、この裁判官にとってこの女の人はどうでもいい存在で、だから、取り合おうとしないんですね。

 

もう少し想像してみますなら、この女の人が裁いてくれと言っているその相手は力のある人で、裁判官としては、だったらその相手の方に味方した方が自分にとって得だと考えていたのかもしれません。

 

とにかく、この女の人は何度も何度も裁判官のところにお願いに行ったのに、取り合ってもらえなかったんです。

 

これをイエス様は祈りがなかなか聞かれないということのたとえとしてお話になりました。

 

祈りが聞かれない。

 

裁判官が取り合ってくれない。

 

それは、この裁判官の罪のためですね。

 

神を畏れず、人を人とも思わない。

 

自分中心。

 

罪ですね。

 

しかも、この裁判官を裁く人はこの町にいない。

 

この町は罪に支配されているんですね。

 

イエス様はこの前のページで、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とおっしゃってくださいましたけれども、神の国、それは神の支配とも訳せる言葉ですけれども、イエス様は神の支配を持ってきてくださったんですが、それはまだ完成してはいないんですね。

 

今はまだ、罪の支配と神の支配がせめぎあっている状況です。

 

神の支配が完成するのは世の終わりですね。

 

ですから私たちは、気を落とさずに祈り続けるより他ないわけです。

 

そしてこの女の人は、気を落としてしまっても仕方のない状況の中で、祈り続けたんですね。

 

 

 

私自身のことを振り返ってみると、私は、祈りがなかなか聞かれなくて倒れてしまった時、気を落としてしまって、あきらめてしまったんです。

 

けれども、この女の人は何度も何度も裁判官にお願いしたんです。

 

聞いてもらえるまでお願いしたんです。

 

どうしてそうすることができたのかなあと考えてみました。

 

先週、私たちは、自分中心に考えるのではなく、神様にゆだねるということの大切さを学びましたね。

 

考えてみれば、かつての私のように気を落としてしまうというのは、本当にゆだねていないからそうなってしまうのではないでしょうか。

 

本当にゆだねているのなら、責任は自分にはないわけですから、うまくいかなくても自分が気を落としてしまうことはないですね。

 

ということは、気を落としてしまうっていうのは、本当の意味ではゆだねてお任せしていないんですね。

 

そこへいくと、この女の人は、完全にこの裁判官にゆだねていたんですね。

 

この女の人はやもめです。

 

夫を亡くした人です。

 

頼る人がいないんです。

 

もうこの裁判官に頼むしかないんです。

 

他に頼れる人がいない。

 

自分にも力がない。

 

だから、何度でも何度でも頼むんです。

 

「わたしを守ってください」。

 

自分にも他の誰かにも頼れない。

 

だから、完全にこの裁判官にゆだねている。

 

私自身のことを考えてみれば、私が気を落としてあきらめてしまったのも、ゆだねることができていなかったからでした。

 

ゆだねているつもりで、ゆだねていなかったんですね。

 

どこかで、自分の力で何とかできると思っていた。

 

それは自分中心の考え方ですね。

 

それだったら、何度も何度も、この女の人みたいにお願いしつづけることはできないですよね。

 

私も、倒れて、もう本当に全部なくしてしまって、自分にも誰にも頼れなくなったところで、もう一度祈りだしました。

 

自分の働きについて、もう一度祈ることができるようにされていきました。

 

そうすると、祈りが聞かれていくんですね。

 

再び立ち上がる力が与えられていくんですね。

 

何にも無くしてしまったときに、神様の力が働いていく。

 

考えてみれば、私たちが自分の力でどうにかしようと考えていたんでは、神様の力は働けないですね。

 

先週もお話しましたけれども、神様は人間を尊重なさいますから、私たちが自分の力で、と考えている内は、神様はそこに無理にご自分の力を働かせようとはなさいません。

 

だから、私たちの側に何もなくなったところで、祈りが聞かれて、神様が働いていく。

 

パウロがそうでしたよね。

 

新約聖書の後半になりますが、いろんな教会にあてて手紙を書いたのがパウロです。

 

キリスト教会が生まれたばかりの時代に、一番大きな働きをした人です。

 

けれどもそのパウロはどうやら体に何かの病気か障害があったようなんですね。

 

それが具体的にどんなものであったのかははっきりしないんですが、それさえなければもっと働けるのに、と思って、一生懸命それが取り去られるように祈った。

 

けれども、その祈りは聞かれなかった。

 

パウロの体は弱いままだった。

 

でも、何度も何度も祈る中で、「神様の力は人間の弱さの中に働くのだ」という御心に気づかされるんですね。

 

パウロは最初、弱さを受け入れられなくて、それが取り除かれるように願っていたんです。

 

それは言ってみれば、自分中心の祈りだった。

 

そのパウロが、いつしか自分の弱さを誇るように変えられていくんです。

 

そこに神様が働いてくださることに気づいたから。

 

実際、パウロは体に弱いところがあるなんていうことを全く感じさせないくらい、ものすごく力強く働いたんですね。

 

パウロは他の誰よりも伝道に力を発揮しました。

 

祈りは確かに聞かれたんです。

 

祈った通りにはならなかったけれども、そこにも確かに、神の支配は実現した。

 

こういうふうに聞かれることもあるんですね。

 

 

 

とにかく、イエス様も言っていますよね。

 

この裁判官は、神を畏れず、人を人とも思わないような人なのに、この女の人の言うことを聞いてくれた。

 

こんな裁判官でも願いつづければ聞いてくれるのに、神様があなたがたの願いを聞いてくださらないことがあるだろうか。

 

78節にありますね。

 

神様はあなたがたのことをいつまでも放っておくはずはない。

 

速やかに裁いてくださる。

 

この裁判官のように、願いを聞いてあげるべきなのに、ダメだダメだと言って先延ばしにするようなことはないんですね。

 

時が来れば、一番いいタイミングになったらすぐにその場で裁いてくださる。

 

罪の支配を打ち倒して、神の支配を実現してくださる。

 

だから、気を落とさずに祈りつづけなさい。

 

7節の言葉ですが、あなたがたは神に選ばれているんだ。

 

神様がご自分の選んだ人の祈りを聞かないことがあるだろうか。

 

すべてゆだねて、祈りつづけなさい。

 

 

 

最後の最後、8節の後半で、イエス様はこう言いますね。

 

「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」。

 

「人の子が来るとき」、それは世の終わりのことですね。

 

世の終わりに神の国、神の支配が完成するときのことです。

 

イエス様はその時またこの地上に来られます。

 

けれども、そのとき、「果たして地上に信仰を見出すだろうか」。

 

これ、見出せるか見出せないか分からないと言っているんじゃないんですね。

 

イエス様は神の子、神様ですから、すべてご存知です。

 

ですのでこれは、分からないと言っているんじゃないんですね。

 

イエス様はこう言っておられるんです。

 

「あなたがたは信仰に留まりなさい」。

 

気を落とすな、あきらめるな。

 

神様があなたを選んだんだ、あなたは大丈夫だ。

 

自分の力で選ばれたんじゃない。

 

神様が選んでくださったんだ。

 

だから、気を落とすことなんてない。

 

大丈夫だ。

 

それがイエス様のお気持ちなんです。

 

祈りつづけましょう。

 

気を落とすことなんて私たちにはないんです。

 

神様はご自分が選んだ人を責任をもって面倒を見てくださる方です。

 

その神様に信頼して、すべてゆだねて、祈りつづけましょう。

 

祈りは必ず聞かれます。

 

そして、イエス様が来られるとき、それがいつになるのかは分かりませんが、「祈って待っていましたよ」とお答えしましょう。