今週の説教「隠れた宝」(マタイによる福音書13章44~50節)

【今週の予定】

●5/19()牧師週休日

●5/21()礼拝(10:3012:00)、お茶会、小会(13:00-15:30)、掃除

★5/21()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書189-14

説教題「義とされて帰る」

マタイによる福音書1344-50

 

44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 

 

 

 

イエス様がなさった、天の国のたとえ話です。

 

それが三つ、並んでいますね。

 

一つ目は、畑に宝が隠されている、というたとえ話です。

 

ここでいきなり、あれ、と思いますね。

 

どうして畑に宝を隠すんでしょうか。

 

これは私たちには不思議なことですが、この時代には銀行はありませんし、家にもオートロックなんていうような設備もありませんので、ツボに入れて土の中に埋めておくのが一番安全な方法だったんですね。

 

その、土の中、畑の中に埋められた宝をある人が見つけました。

 

ということはおそらく、その人はその畑を耕していたんでしょうね。

 

けれども、その畑は自分の畑ではなかった。

 

ということは、その人は雇われてその畑で働いていたんでしょうね。

 

そして、畑を耕している時に、偶然その宝を見つけた、ということでしょう。

 

けれども宝を見つけたことをすぐに人に知らせるんじゃなくて、そのまま隠しておいて、自分の持ち物を全部売り払ってお金に換えて、そのお金でその畑を買った。

 

きっと、畑を買うときには、ここの土がとても良いと気付いたので、とかなんとか言ったんでしょうね。

 

とにかく畑を買って、畑に埋まっている宝を自分のものにした、ということですね。

 

これ、当時の法律ではそうすることができたみたいです。

 

土地に埋まっているものはその土地の持ち主のもの、ということになったようです。

 

これ、今の日本の法律では無理みたいなんですね。

 

土地に埋まっているものを見つけたら、警察に届け出なければいけないそうです。

 

逆に、他人の土地であっても、埋まっているものを見つけたら、見つけた人にも半分くらいの権利があるようです。

 

とにかく、これが天の国だ、天の国を手に入れるということだ、とイエス様は言うんですね。

 

ここで、「天の国」という言葉ですが、「天」という言葉は聖書では「神」と同じようにつかわれます。

 

そして、「国」という言葉は「支配」と訳すことができるんですね。

 

ですので、天の国というのは神の支配のことです。

 

神の支配に入るということはこういうことなんだよ、とイエス様は言うわけです。

 

まずそれは、隠されたものであるということですね。

 

神の支配は隠されている。

 

なるほど、確かにそうでしょう。

 

聖書はこの世は罪に支配されているといいます。

 

罪というのは自己中心のことですね。

 

誰もかれも自分中心にしか物事を考えない。

 

そんな罪に、この世は支配されている。

 

別に聖書に聞かなくたって、そんなことは誰にでもわかります。

 

まさに、神の支配は隠されている。

 

けれども、それを偶然に見つけることがあるんだということですね。

 

畑に隠された宝を見つけた人は、別に宝を探すために畑を耕していたわけではありません。

 

畑を耕すという、いつもの仕事をしている中で、偶然にそれを見つけたんですね。

 

そんなふうに、いつもと変わらない毎日の中で、ちょっとしたきっかけで、神様が生きて働いておられる、という神様の支配に気づかされることがあるというんです。

 

そうすると、どうするか。

 

持ち物をすっかり売り払って、それを手に入れるんですね。

 

この、持ち物をすっかり売り払うというのは、二つ目のたとえ話も同じです。

 

二つ目のたとえ話では天の国が真珠であると言われていますけれども、当時は養殖の真珠はありませんから、真珠というのはどれもものすごく値段が高かったんだそうですね。

 

その真珠たった一つのために、持ち物をすっかり売り払ってそれを買うんです。

 

この点では最初の話と二番目の話は同じなんですね。

 

持ち物をすっかり売り払って、手に入れたんです。

 

けれども、最初の話と二番目の話で、違う点もありますね。

 

この真珠の話の場合、商人は良い真珠を探していたんですね。

 

畑の話では、畑を耕していた人は宝を探していたわけではありませんけれども、二つ目の話の商人は真珠を探していたんです。

 

こういうものがあるはずだ、とか、見たことがないくらい素晴らしいものがあるはずだ、と思って、探していたんです。

 

そして、その真珠は隠されていたわけではありません。

 

売られていたんです。

 

売られているのを見つけたんです。

 

この商人はその真珠の価値は本物だ、と思って、持ち物をすっかり売り払って、それを手に入れたんですね。

 

二つの話には違うところもあれば、同じところもあります。

 

ただここで大事なことは、これは、財産を捨てなければならないという話ではないんですね。

 

財産を持っていたら神の国に入れないということではないんです。

 

これは畑を買った人も真珠を買った人も同じですが、この人たちは二人とも、結局はもともと持っていた以上の財産を手に入れたわけですよね。

 

宝とか真珠とかが、自分の持ち物全部よりも値打ちがあると思ったからこそ、この人たちは持っている物を全部売ったんです。

 

この人たちは財産を増やしたんですね。

 

ただ、大事なことは、この人たちの熱心ですね。

 

この人たちは、本気でそれを求めたんですね。

 

だから、持ち物をすっかり売り払うなんていう、なかなかできないこともやってのけることができたんですね。

 

ただ、本気で求めると言いましても、それは大変な覚悟をしていた、とか、いやいやそうしたとかいうことではありませんよね。

 

畑に宝を見つけた人は喜びながら帰ったと書かれています。

 

本気で、とは言っても、苦しい思いでそれを求めるのではないんですね。

 

喜びなんです。

 

ものすごい値打ちのあるものを見つけられたという喜びなんですね。

 

これ、今の私たちに当てはまることではないかと思います。

 

私たちも今、このように礼拝をしていて、神様と向かい合っていて、ということは、もう天の国、神様の支配に入れられているんですけれども、それって、私たちが、かつてはまだ見ていなかった神の国に触れて、それを信じて、受け入れたから、今こうしているんですよね。

 

そして、神の国に入ったことを喜んでいるから、こうやって今日もここに通ってきたわけですよね。

 

だからこうして、喜んで礼拝をしているんですね。

 

私たちが教会に来るようになったきっかけは、偶然かもしれないし、自分から求めていたのかもしれない。

 

それは人によってさまざまだと思いますね。

 

私の場合は、偶然とも言えますし、求めていたとも言えるんじゃないかなと思いますね。

 

実家の近所に教会があることは知っていたんですけれども、中に入ったことはなくて、日曜のお昼頃に教会の前を自転車で通りかかったところ、教会の庭にご婦人が出ておられて、庭仕事をしておられて、そのご婦人に、なぜかこちらから声をかけてしまったんですね。

 

ご婦人は当然驚いておられましたけれども、こちらから声をかけたものですから、何か話をしなければいけないと思って、「ここではどういうことをやっているんですか」とかそんなことを聞いて、そうこうしている内に教会の中から牧師さんが出てこられて、ぜひ礼拝に来てくださいと誘われたんですね。

 

それがきっかけでした。

 

それは、偶然といえば偶然かもしれません。

 

でも、一度誘われて行ってみるということがあったとしても、そのまま通いつづけるということはなかなかないですよね。

 

私の場合は通いつづけたんです。

 

どうしてかというと、その教会の牧師さんと話がしたかったから。

 

その牧師さんも私も、よく本を読むんですが、読んできた本がとても似通っているので、話が合うんですね。

 

人は誰でも、自分と話の合う人との出会いを求めますけれども、私の場合はそれが、その牧師さんだったんです。

 

そう考えると、私は、求めていた、というふうに言えるのかもしれません。

 

偶然かもしれませんし、求めていたのかもしれない。

 

いずれにせよ、導かれていた、最初から神様の御手の内にあったということなのかなあと思います。

 

そしてそれが、三つ目のたとえ話ですね。

 

この話は今までの二つとは少し違っていて、世の終わりの話なんですが、世の終わりに神様の支配が完成するときのことを、網で魚を捕ることにたとえられているんですね。

 

網の中に、良い魚と悪い魚がいる。

 

神様の支配にふさわしい魚もいれば、そうでない魚もいる。

 

逆に言って、ふさわしい魚も、そうでない魚も、網の中に入れられている。

 

私たちの目には、この世は罪が支配していて、神の支配は本当に隠されているようにしか思えないけれども、実は全部、海の中の網という、言ってみれば隠れた仕方で、全部神の支配、神の網の中に入れられている。

 

最初から全部、御手の内にある。

 

そして、ふさわしい魚とそうでない魚を終わりの日にえり分けてくださる。

 

神様が。

 

それは私たちがすることではないんですよね。

 

神様がなしてくださること。

 

そう考えますと、今日の最初の二つのたとえ話も、神様がそうしてくださる、という話として読むこともできるんじゃないかな、と思いますね。

 

畑に隠されていた宝を見つけた話も、良い真珠を見つけた話も、これは、神様が私たちを見つけてくださった話として読むこともできるんじゃないかと思います。

 

神様が、私たちのことを尊く思ってくださっていて、何としてでもそれをご自分のものにしてくださろうとして、本気で、全力を尽くして、私たちを手に入れた。

 

そういう話として読むこともできるんじゃないかと思います。

 

旧約聖書のイザヤ書の434節に、こういう言葉がありますね。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴」い。

 

私たちは高価で尊いんですね。

 

神の目に。

 

だから、神様が持ち物をすっかり売り払ってでも、私たちを求めてくださる。

 

そう考えますと、この礼拝という場所はすごい場所ですね。

 

神様を本気で見出して、本気の神様に見いだされた者が集まって、神様と向かい合う場所。

 

それがこの、礼拝です。

 

どうぞ喜んでください。

 

こんなに満たされた場所はほかにありません。

 

ここだけです。

 

この場所は、私たちと神様の本気が交じり合う、他にはどこにもない場所なんです。

 

その場所に置かれていることを、大いに喜びましょう。