今週の説教「義とされて帰る」(ルカによる福音書18章9-14節)

【今週の予定】

●5/24()聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:3020:30)

 

●5/25()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)、牧師週休日

 

●5/28()礼拝(10:3012:00)、食事会、信徒の学び会(13:00-13:50)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)掃除

 

5/28()の説教:尾崎純牧師

 

聖書・ルカによる福音書1815-17

 

説教題「子どものように」

 

ルカによる福音書189-14

 

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 

 

 

 

先週、私たちは、神様にゆだねて祈る、ということの大切さを教わりました。

 

一週間たって、いかがでしょうか。

 

ゆだねて祈る、できていますか。

 

もし私たちに、これは自分の力でできるという思いがあるんだったら、神様の出番はないですね。

 

神様は人間の思いを尊重なさいますから、人間の思いを押しのけてまで、無理やり働いたりはなさいません。

 

だから、大事なことは、ゆだねて祈ること。

 

全部お任せして、お願いすること。

 

私たちがそうやって祈るなら、神様の出番です。

 

神様は私たちのために一生懸命働いてくださいます。

 

そういう祈り方をこれからもしていきたいですね。

 

 

 

今日の話は先週の続きみたいなものですね。

 

今日も、祈りの話です。

 

それも、今日、イエス様は結構大変な人たちに対してお話しなさいますね。

 

どんな人たちかというと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」。

 

これはなかなか大変ですね。

 

こういう人たちに対しても、イエス様はあきらめずにお話しなさったんですね。

 

これ、ここに、「うぬぼれる」という言葉が出てきていますけれども、この言葉は原文では「自分を信頼する」という言葉です。

 

自分は正しい人間だと考えて、自分を信頼している人たち。

 

考えてみるとこれ、私たちも気を付けないといけないかもしれないですね。

 

自分は正しい人間だと考えて、自分を信頼しているっていうのは、多かれ少なかれ、私たちにも当てはまるのではないでしょうか。

 

私たちは普段そんなにそれを表に出さないですけれども、その思いが強すぎると、だんだんこの人たちみたいに、他人を見下すようになっていってしまうのではないかと思います。

 

ですからここのところは、私たちとしても気を付けたいんですね。

 

自分のことだと思ってこの話を聞きたい。

 

そして、今日のたとえ話ですが、このたとえ話の中に、こういう人、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」が出てくるんですね。

 

それが、ファリサイ派の人です。

 

ファリサイ派というのはユダヤ教のグループの一つです。

 

「ファリサイ」という言葉は「分離する」という言葉から出来てきた言葉であると考えられています。

 

何から何を分離するのかといえば、世間の人たちから自分たちを分離するんですね。

 

つまり、自分たちはそこいら辺の普通の人間とは違うんだぞ、ということです。

 

どうしてそういうふうに言えるのかというと、この人たちはユダヤ教のルールを細かいところまで全部、一生懸命守ろうとしていたんですね。

 

普通の人たちよりも何倍も何十倍も熱心だったんです。

 

だから、その点で、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」わけなんです。

 

なんかちょっと寂しいですけどね。

 

 

 

そして、今日のたとえ話には、このファリサイ派の人と正反対の人も出てくるんですね。

 

それが徴税人です。

 

この徴税人というのがどういう人たちだったのかということなんですが、徴税人というのは、人々から税金を取る仕事です。

 

そう言いますと、今で言う税務署の人なのかなあと思ってしまいそうになりますが、事情は少し違っていました。

 

徴税人は、神に背く罪人の代表であるように思われていたんですね。

 

どうしてかというと、この人たちは、ローマ帝国のための税金を集めていたからです。

 

イスラエルの人々から税金を集めて、イスラエルの国に収めるのではなくて、当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に税金を収めていたんですね。

 

つまり徴税人というのは、神の民であるイスラエル人からお金を奪って、外国人、異邦人に届けるという仕事なんです。

 

集められたお金は、イスラエルの人々を支配するために使われるわけです。

 

しかも、徴税人は、決められた金額だけをローマ帝国に収めれば、残ったお金は自分のものにしていいことになっていました。

 

ですから徴税人は、必要以上に多くの税金を人々から取るんですね。

 

それで、自分のふところにため込むわけです。

 

徴税人はみんなお金持ちだったと言われています。

 

人からしぼり取ったお金で、自分は豊かな生活をしていたんですね。

 

こういうことですから、徴税人というのは皆に嫌われていたんです。

 

そして、これがローマ帝国がずる賢いところなんですが、ローマから派遣されてきた徴税人が現地の人から税金を取るということになりますと、ローマ帝国が嫌われてしまいますから、そうならないように、現地の人を雇って徴税人にするわけです。

 

ですのでこの徴税人というのはイスラエル人なんですね。

 

徴税人になればいくらでもお金持ちになれますから、嫌われてもいいからやりたいという人はいます。

 

そういう人たちがこの仕事についたんですね。

 

そして実際、この人たちは、イスラエルの中では、罪びとの代表だというふうに見られていました。

 

ですから、世間の人たちからしたら、ファリサイ派の人たちと徴税人は、もう正反対なんです。

 

ファリサイ派の人たちは熱心な人たちだ、と思われていました。

 

それに対して徴税人は、罪びとの代表だったんです。

 

 

 

けれども、この徴税人も、祈るために神殿に上ったんですね。

 

そして、その時の祈りの内容も、この二人は正反対なんですね。

 

このファリサイ派の人たちのお祈りの言葉、これを皆さんどう聞きますでしょうか。

 

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。

 

これ、祈りの言葉なんです。

 

自分はほかの人たちとは違って悪いことをしていません、と。

 

自分はだれよりも熱心です、と。

 

実はこれ、ユダヤ教では普通の祈りなんです。

 

ユダヤ教では、こうやって、私は正しい人間です、立派な人間です、と祈ったんですね。

 

ユダヤ教というのはルールを守ったかどうかが全てです。

 

旧約聖書の中に、ルールというふうに受け取れるような言葉がいろいろあって、それを守ったかどうかが全てなんです。

 

ですから、ルールを守っているんだったら、こんなふうに祈ることもできたんですね。

 

 

 

それに対して、この徴税人の祈りはどうでしょうか。

 

もう、ファリサイ派の人の祈りと正反対ですね。

 

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。

 

それだけ。

 

自分は正しい人間でも、立派な人間でもありません。

 

その私を、神様、憐れんでください。

 

一言だけです。

 

それも、この人は、これを、「遠くに立って」祈りました。

 

神殿の真ん前には行けなかったっていう感じですね。

 

それだけでなく、この人は「目を天に上げようとも」しなかった。

 

目を天に上げるというのは、神様に顔を向けるということで、ユダヤ教では祈りの時に、普通、そうするものだったんですね。

 

けれども、それもしない、できない。

 

しかもこの人はこの短い祈りを、「胸を打ちながら」祈ったんですね。

 

これは悲しみを表す動作です。

 

もう、自分の罪深さを心の底から悲しんでいるんです。

 

そして、言うんですね。

 

「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。

 

この、「憐れんでください」という言葉は、原文では「許してください」という言葉です。

 

私は神様に背く罪びとです。

 

ですが神様、私を許してください。

 

 

 

そして、ここでイエス様は言うんですね。

 

「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。

 

イエス様の周りにいた人たちはこの言葉にものすごく驚いたと思いますね。

 

ファリサイ派の人たちは、世間では、まじめで熱心な人たちだと思われていました。

 

この人たちというのは、学校でいうところの模範的な生徒です。

 

成績優秀で、委員とか係なんかの仕事も誰よりもきちんとする、そういう感じです。

 

それに対して徴税人はどうだったか、この人たちは、学校でいうところの、なんというか、成績を上げるためにカンニングをするような生徒ですね。

 

そういうふうに世間の人たちから思われていたんです。

 

それなのに、徴税人が義とされて、つまり、神の前に正しいとされて、ファリサイ派の人は義とされなかった、つまり、罪びとだとされてしまった。

 

これは聞いていた人たちはものすごく驚いたと思いますね。

 

なにしろ、ユダヤ教というのは旧約聖書をルールブックのように見ていて、それを守ったかどうかが全てです。

 

ですから、徴税人なんかが義とされることなんて、最初からありえないことなんですね。

 

だいたい、「義とされる」ということなんですけれども、こんなこと、ユダヤ教ではありえないんです。

 

ルールを守ったら義なんです。

 

神の前に正しいんです。

 

守らなかったら義ではないんです。

 

それだけなんです。

 

だから、義でない人が「義とされる」なんてことは最初からありえないんですね。

 

 

 

だからここで、最後の最後にイエス様は、その理由を言うんですね。

 

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

 

これ、大事なことは、私たちが神の前に高ぶらないこと、神の前にへりくだることですね。

 

神様にきちんと向き合うということが大事なんです。

 

そうすることができれば、私たちは、自然にへりくだることができると思うんです。

 

考えてみれば、ファリサイ派の人のまずかったのはそこですね。

 

この人、神様に向かい合っていないじゃないですか。

 

この人の祈りは、他の人と自分を比べているだけですね。

 

ですからこの人、そもそも祈っていなかったんです。

 

神様に心を向けていないんです。

 

他の人と自分を比べているだけなんです。

 

他の人と自分を比べて、高ぶっているんですね。

 

今日最初に出てきた言葉でいうと、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している」

 

この「うぬぼれる」という言葉は、「自分を信頼する」という言葉でした。

 

神様なんかそっちのけなんです。

 

自分を信頼している。

 

それで満足している。

 

それだけ。

 

これだともう、神様の出番なんてどこにもないですよ。

 

だからこれは、単に高ぶってはいけない、とにかくへりくだりなさいということではないんですね。

 

ファリサイ派の人とは反対に、他の人と自分を比べて、へりくだる、自分を低くする、低くさせられてしまうということだって私たちにはあると思うんですけれども、それはへりくだっているからいいかというと、そうではないんですね。

 

それは、人と比べてのことだから。

 

大事なのは、他の人と自分を比べるんじゃなくて、心を神様に向けることなんです。

 

それが祈りだとイエス様はおっしゃっているんです。

 

だから、この徴税人は義とされたんですね。

 

この人は他の人と比べたら全然罪びとなんですけれども、この人の祈り、この態度、どうですか。

 

神様に心を向けて、低くなって、心の底から神様にお願いしているんですね。

 

「神様、罪びとのわたしを許してください」。

 

この人はファリサイ派の人とは違います。

 

本当に祈っているんです。

 

本当に心を神様に向けている。

 

大事なのは、祈るときに、他の人と自分を比べる気持ちを持たないこと。

 

神様にだけ、向き合うこと。

 

考えてみるとこれ、本当にありがたいことが言われているなあと思いますね。

 

人と比べないでいいよ、こっちを向きなさい。

 

神様は私たちにそう言ってくださっているんですね。

 

私たちだって、自分中心で神様に背くこともある罪びとなのに、こっちを向きなさい、と言ってくださっている。

 

人と比べないでいいよ、こっちを向きなさい。

 

私たちは、愛されている。

 

 

 

それでも私たちって、気を付けていないと徴税人のつもりがファリサイ派になってしまうこともあると思うんですね。

 

考えてみると、今日の話を最初に読んだとき、私は、このファリサイ派の人を見て、「じぶんはここまでひどくはないな」と思ってしまったんです。

 

でも、それって、ファリサイ派の人と考え方、一緒じゃないですか。

 

自分と人とを比べて、自分のほうが良い。

 

それってファリサイ派と一緒です。

 

まして、もしそこで、「神様、わたしはこのファリサイ派の人のように、人を見下す者でないことを感謝します」なんて祈ったとしたらどうですか。

 

いやもちろんそんなことは祈りませんでしたけれども、とにかく私たちが、徴税人のつもりでファリサイ派になってしまうことってあると思うんです。

 

これは私は自分が神学校で勉強していた時のことを思い出すんですけれども、私はもともと神学校に入る前に大学で哲学を勉強したことがあったんで、聖書を読むときも、自分の持っている哲学の知識で読み解こうとするところがあったんですね。

 

それは、その時の私にとっては、神様の声を聞き取るために大事なことだと思っていたんです。

 

しっかり神様に向き合うために大事なことだと思っていました。

 

今考えてみると、それって、神様を自分の引き付けて理解しようとすることで、もう完全に間違っているんですけれども、その時は気づかなかった。

 

徴税人のつもりで、ファリサイ派だったんです。

 

そして、この話には続きがありまして、私と一緒に勉強していた人の中には、私のそういう聖書の読み解き方が気に入らない人がいたんですね。

 

そして、水曜の夜なんですが、神学校では水曜の夜に礼拝をします。

 

そして、礼拝した後に、三、四人で一つのグループを作ってお互いのことを祈りあうんですね。

 

その時、私のことが気に入らない人と、二人きりになってしまったんです。

 

本当は三、四人で一つのグループなんですが、二人きりになってしまった。

 

そうすると彼はこう祈ったんですね。

 

まあ、私のことを心配して祈ってくださったのかもしれませんけれども、こんなふうに祈りました。

 

「神様、私たちが、世の中の哲学で聖書を理解するのではなく、信仰で聖書を理解することができますように」。

 

……ってこれ、私、信仰がないことにされちゃったんです。

 

いやこの人も、ご自分は徴税人のつもりだったんじゃないですか。

 

でも、本当のところ、ファリサイ派ですよね。

 

いや、そういうふうに決めつけるのがファリサイ派かもしれないから、気を付けなければいけないんですが、とにかく、徴税人のつもりでファリサイ派になってしまうことって、自分では気づいていないだけで、良くあることではないかと思うんです。

 

 

 

でも、そこへ行くと、本当に今日の話、ありがたいですよね。

 

先週の話は裁判官の話でしたけれども、今週の話も、同じですね。

 

今日の徴税人の祈りですけれども、このお祈り、罪びとを裁く方である神様に向けて祈っているんですよね。

 

「神様、罪びとのわたしを許してください」。

 

これ、裁判官である神様に対して祈っているんです。

 

でも、この祈り、裁判官に対して言う言葉としては、どうですか。

 

罪を裁くのが裁判官ですよね。

 

それなのに、許してくださいって祈っている。

 

そんな祈りってありますか。

 

でもこれ、私たちは祈っていいんですね。

 

神様はある面では裁判官ですが、むしろ、私たちを許したいんです。

 

裁判官は、先週は守ってくださった。

 

今週は許してくださった。

 

神様は私たちのためなら、どんなことでもなさるおつもりなんです。

 

何しろ神様は、ご自分の一人息子であるイエス様を人間にならせて、地上に送ってくださって、そのイエス様が人間の代表として、私たちの代わりに十字架で罰を受けることすら、お許しになられた。

 

すべて、私たちを救うために。

 

今日読んだ聖書の場面ではまだその出来事は起こってはいないんですが、私たちは、その十字架の出来事がすでに起こったことであると知っています。

 

だから私たちは、安心して神様に祈ることができますね。

 

今日の徴税人はものすごく辛い気持ちで祈りをささげましたが、私たちは神様がどんな方か知っているんですから、喜んで、安心して、神様に向かい合うことができる。

 

おゆだねすることができる。

 

大きいことでも小さいことでも、守ってください、許してください、助けてください、と祈ることができる。

 

もう、こうなったら人と比べてどうのという話ではないですね。

 

ただ、私たちを無限に愛してくださる神様にひたすら心を向けて、祈る。

 

今日の徴税人のように、本当に一言だけしか祈れないこともあるかもしれません。

 

でも、そんな一言、私たちが心の底からしぼりだした一言を、神様は聞いてくださるっていうのが今日の話なんです。

 

 

 

こういう話を聞いたことがあります。

 

生きている希望がなくなって、電車に飛び込んで自殺未遂をした女性がいたそうです。

 

けれども死ぬことができなくて、両足と片手を切断して、病院のベッドに寝かされて、その人は何日も何日も天井ばかり見つめていました。

 

その人の病室へ聖書を持ってきて、聖書の話をする人もいたそうなんですが、その人は自分の体がどうなってしまったかを知って、余計に生きることがいやになってしまって、どうにかして死ぬことは出来ないものかと考えました。

 

その人は眠れないと言って睡眠薬をもらって、ある程度薬をためてから、一度に飲んで死のうと考えました。

 

けれども、それを飲もうと決心したその夜、その人は何回か話を聞いた聖書のことを思い出したのです。

 

その夜、その人は初めて祈りました。

 

ほんの短い祈りです。

 

「神様、もし本当にいるのなら救ってください」。

 

その夜に死ぬつもりだったのに、いつの間にかその人は眠ってしまい、気がつくと朝になっていたそうです。

 

薬は飲んでいないのに、久し振りにぐっすり眠ったそうです。

 

そしてその朝から、周りのもの全てが昨日とは違って、輝いて見えた。

 

「もし神さまが本当にいるのなら救って下さい」。

 

この短い祈りからこの人は全く変えられていったんですね。

 

短い祈りであっても、神様が聞きもらすことはないんです。

 

むしろ、短い祈りでいいんです。

 

これは私にも分かりますが、本当に神様に向き直ったら長い祈りはできません。

 

心を神様に向けて、心の底から、ほんの一言。

 

ほんの一言でいいんです。

 

その祈りを、神様は聞いてくださいます。

 

だって、神様が聞き逃すはずがないじゃないですか。

 

神様は、私たちを愛しているんですから。