
【今週の予定】
●5/31(水)聖書を読む会(ウェストミンスター小教理問答、19:30—20:30)
●6/1(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
●6/2(金)コーヒーブレイク案内者訓練会(聖書を読んで自由に意見を出し合う試み、10:00-14:00、参加費1,000円〔昼食代込〕)
●6/3(土)牧師週休日
●6/4(日)ペンテコステ礼拝(聖餐式、10:30—12:00)、会堂内片付け、食事会、小会(13:00-15:30)、掃除
●6/4(日)の説教:尾崎牧師
聖書・使徒言行録2章1-4節
説教題「新しい人生」

ルカによる福音書18章15節から17節
15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
先週、レーナ・マリアさんのコンサートに行かせていただきました。
レーナ・マリアさんのコンサートがあることは私の方からもお知らせいたしておりましたが、この人はゴスペル・シンガーなんですが、体に重い障がいを負っておられる方なんですね。
両腕がない。
そして、左足が右足の半分の長さしかない。
それは生活するだけでも本当に大変なんじゃないかと思うんですが、コンサートが始まる前にVTRが流れまして、それを見ておりますと、この方は大体のことは一人でこなすんですね。
右足を使って、料理をして、食事もして、車の運転もして、ガソリン・スタンドで車にガソリンを入れることもできてしまうんです。
これは本当に驚きました。
そして、もっと驚いたことなんですが、この人はいつも笑顔なんですね。
いつも楽しそうにしている。
歌っているときも、本当に楽しそうなんです。
歌声と一緒に、喜びがこちらまで届いてくるような、そんな感じなんです。
もう、希望にあふれているっていうか。
どこか遠いところにある希望じゃなくて、今ここにある希望。
そんな感じなんです。
これ、この人は生まれた時からそうだったんだそうですね。
VTRで流れたんですけれども、彼女が生まれて、ご両親が最初に彼女に面会した時から、彼女はハッピーだったんだそうです。
ご両親は大変だったんです。
コンサートの会場にレーナ・マリアさんの本が売っていましたから、私はそれを買って帰ってきて、読んで知ったんですけれども、赤ちゃんが生まれるとすぐに、お医者さんはその子を毛布にくるんで部屋を出て行ってしまった。
そして、後から、お医者さんがご両親に説明するんですね。
お子さんには両腕がありません。
左足は右足の半分の長さしかありません。
内臓にも問題があるかもしれないから今、検査をしています。
そして、お医者さんは、こういうことをご両親に提案したんだそうです。
お子さんには会わなくても構いません。
このままお子さんを施設に送ることもできます。
どうしますか。
「どんな場合でも、子どもには家庭が必要なんです」。
そして、お父さんお母さんが彼女に会ってみると、もう二人とも大喜び。
その赤ちゃんは本当に幸せそうにしていて、それはもう、感動するくらいだったんだそうですね。
よほどニコニコしていたんでしょうね。
ただこれは、考えてみると、多くの人はお父さんになるとき、お母さんになるとき、同じことを体験するのではないか、と思うんです。
赤ちゃんって、いつも幸せそうにしてるじゃないですか。
まあ泣くこともあるんですけれども、泣いてるところでミルクでもあげたりして、お腹いっぱいになると、もうそれだけでニッコニコなんですよね。
ある程度年を取ってくると、もう、お腹がいっぱいになっただけでそんなにニッコニコにはならないですよ。
でも赤ちゃんは、違うんですよね。
何かこう、私たちって、年を取る内に無くしてしまったものがあるんじゃないかなあ、と思わされるんですね。
レーナ・マリアさんみたいに、大人になってもいつでもハッピーな人って、どれくらいいますかね。
成長していく中で、ほとんどの人は、自分の思い通りにいかないことがたくさんあることに気づいて、だんだんだんだんハッピーじゃなくなってしまう。
レーナ・マリアさんも、その点では私たちと同じだったはずなのに、どうして今でもハッピーのままでいられるんでしょうか。
そんなところで、今日の御言葉をご一緒に読んでみたいと思います。
イエス様のところに、人々が乳飲み子、赤ちゃんを連れてきたんですね。
それはイエス様に触れていただくためでした。
触れていただくというのは手を置いて祝福していただくということです。
けれども、弟子たちは叱ったんですね。
赤ちゃんを連れてきた、お父さんお母さんたち、でしょうけれども、その人たちを叱ったんです。
大体、ここのところの書かれ方、乳飲み子「までも」連れてきたっていう書かれ方で、弟子たちがどういう気持ちだったのかっていうのが分かりますよね。
イエス様のところにやってくる人はいっぱいいるんです。
イエス様の言葉を聞きたいという人もいれば、弟子になりたいという人もいます。
病気を治してもらいたいという人もいれば、イエス様と議論をしてやろうという人もいます。
とにかくいつもたくさんの人がイエス様の周りにいて、イエス様も弟子たちも大変なんですね。
けれども、赤ちゃんを連れてきたお父さんお母さんたち、この人たちは、イエス様の話を聞きたいとか、イエス様の弟子になりたいとか、そういうことではないじゃないですか。
赤ちゃんに手を置いて、祝福してもらいたい。
そうしたら、何か良いことがあるだろう、というそれだけのことですね。
そうなると弟子たちとしては、なんで大変なところに赤ちゃんなんか連れてくるんだ、という気持ちになってしまったんでしょうね。
赤ちゃんは泣いたりするかもしれません。
そうなると、イエス様の話を聞いている人の邪魔になってしまいます。
それで、赤ちゃんを連れてきたお父さんお母さんたちを叱ったんですね。
けれども、イエス様は違うんです。
赤ちゃんを抱いたお父さんお母さんたちを呼び寄せたんです。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。
そういうふうに言うんですね。
弟子たちは困ってしまったでしょうね。
赤ちゃんを連れてくるなんて、邪魔をするなと思っていたのに、「妨げてはならない」と言われてしまった。
イエス様の邪魔にならないようにと思っていたのに、自分たちが邪魔をしているんだと言われてしまった。
しかしこれ、どうしてイエス様は赤ちゃんを呼び寄せたんでしょうか。
子どもが好きだからでしょうか。
そんな単純な話ではありませんね。
イエス様はこう言います。
「神の国はこのような者たちのものである」。
神の国は、赤ちゃんのような者たちのものである。
この「神の国」という言葉は「神の支配」とも訳すことができる言葉なんですが、神様のご支配、要するに、神様が神様の手のひらの上に置いてくださる人はどのような人であるか、それは、赤ちゃんのような人なんだ、ということですね。
では大人はダメなんだろうかと思ってしまいますが、そうではありません。
そもそも聖書は人間を大人と子どもに分けて、大人はダメ、子どもだったらいいなんて言いません。
聖書は、人間はみんな罪びとだ、と言いますね。
聖書でいう罪というのはエゴイズムのことですが、それって人間みんな、多かれ少なかれ、だれでも持っているものです。
ですので、聖書は、子どもには罪がないなんて言わないんですね。
だからここでイエス様が言っているのも、子どもならいいということではなくて、「神の国はこのような者たちのものである」、赤ちゃんの「ような」者たちのものである、と言っているんです。
ではどういう点で赤ちゃんのような者であればいいのかというと、17節ですね。
「子供のように神の国を受け入れる」ということです。
そうでないなら、「決してそこに入ることはできない」。
つまり、それが難しいんだ、ということでしょうね。
子どものように神の国を受け入れることが、大人には難しい。
そもそもここに、「受け入れる」という言葉がつかわれているんですよね。
「受け入れる」という言葉をつかうのは、それが受け入れにくい場合ですよね。
受け入れやすい場合だったら、受け入れるという言葉をつかったりはしないわけです。
神の国って、受け入れにくいものなんですね。
神の国に入れられている、神様の手のひらの上に置かれている、それって本当にありがたい、心の安らぐことですけれども、神の国という言葉は、神の支配とも訳すことのできる言葉です。
けれども、私たちの周りの現実を見てみると、どうですか。
聖書は、この世は罪に支配されていると言いますけれども、まさにそれですよね。
神の支配なんてなかなか見えない。
罪の支配しか見えないくらいじゃないですか。
その現実の中に、神の支配が始まっている、と聖書は言うわけですけれども、それを見つけ出すのは簡単ではないんですね。
特に、世の中の現実を知っている大人ほど難しいと思いますね。
これは、もしかすると、まだ小さい子どもでも、神様のご支配、神の国を信じるのは難しいかもしれません。
これは私が幼稚園の時のことなんですが、私は幼稚園はキリスト教の幼稚園だったんですね。
家はキリスト教の家ではなかったんですけれども、私は神戸の出身で、神戸には、神戸市立の幼稚園もあれば、仏教の幼稚園もあれば、キリスト教の幼稚園もあるんですが、一番多いのがキリスト教の幼稚園なんですね。
ですので、当たり前のように、近所にあったキリスト教の幼稚園に通っていました。
そして、毎日神様の話を先生から聞くんですね。
ある時、私は、幼稚園の友達に、「神様っているのかな」とたずねてみました。
私は神様はいると思いたかったんですね。
でも友達はどう思っているんだろうと思って、聞いてみたんです。
そうすると、その友達は答えました。
「神様がいるんだったら、世の中がこんな世の中のはずはないよ」。
幼稚園ですよ。
幼稚園児だったんですけれども、その子はそう答えたんですね。
大人と同じ考え方ですね。
しかし、自分自身のことを考えてみますと、私は、神様はいると思いたかったから、そういう質問を友達にしたんでした。
神様はいると思いたかった。
それって、結局のところ、友達と同じことを考えていたんじゃないかと思うんですね。
世の中が、こんな世の中だから、だからこそ、神様がいると思いたい。
神様がいてくれたらいいのに。
そういうことではなかったかと思うんですね。
こうなりますと、もう、小さい子どもだったら大丈夫とか、そういう話ではなくなってきます。
けれども、今日の話は、乳飲み子について、赤ちゃんについて、言われているんですよね。
幼稚園児じゃないんです。
赤ちゃんなんです。
赤ちゃんなんだから、神様の話を聞いて、自分の頭で理解して、現実を見て確かめて、受け入れる、とか、そういうことではないんですね。
赤ちゃんは何かあると泣きますね。
お腹が空いたら泣く。
お腹がいっぱいになるとニコニコする。
そして、寝てしまう。
もう、言葉以前の状態なんです。
言葉以前の状態で、要求して、与えられたものをもらう。
もらったら満足。
それだけ。
ひたすらそれだけ。
そこでイエス様は言うんですね。
神の国は、この赤ちゃんのような人のものである。
これを、イエス様は、大人たちにお話になられたんですね。
要するに、あなたがた大人たちも、赤ちゃんと一緒だよ。
神様の赤ちゃんなんだよ。
赤ちゃんがお父さんお母さんに生かされているように、あなたがたも、神様に生かされているんだよ。
考えてみると私たち、生まれてこようと思って生まれてきたんじゃないし、生きようと思って生きているわけではないですよね。
別にそんなこと何も考えなくたって、私たちは生きている。
これ、生かされているって言ってもいいんじゃないですか。
イエス様は気付いてほしいんですね。
あなたがたは神様の恵みによって生かされている。
赤ちゃんがお父さんお母さんに生かされているように、あなたがたも神様に生かされている。
お父さんお母さんが赤ちゃんにそうするように、神様は私たちの命を守って、毎日毎日私たちを養ってくれている。
イエス様は気付いてほしいんですね。
神の国はもう、私たちに与えられている。
だからこれは、頭の中で言葉で考えて、とか、現実を見て、とかそういうことではないんですね。
言葉以前の問題なんです。
感覚なんです。
確かに、世の中は罪に支配されています。
けれども、私たちは、その世の中にあっても、神様の見えない手のひらの上に置かれている。
神様の腕に抱かれている。
これはもう聖書の全部のページに書かれていることですけれども、神様は私たちを愛している。
私たちと神様の関係は、赤ちゃんとお母さんの関係なんですね。
お母さんが赤ちゃんを愛するのに、条件は付きません。
こういうことをしたから愛するとか、そういうことではないんです。
お母さんはひたすら赤ちゃんを愛して、ひたすら、その子に幸せになってほしいと願っているんです。
だから今日、お母さんたちは赤ちゃんをイエス様のところに連れてきたんじゃないですか。
この子を祝福してもらいたい。
祝福なんて、目には見えないものなんですけれども、それでも、この子に幸せになってもらいたい。
神様はそのお母さんと同じように、私たちを抱いていてくださっているんですね。
イエス様は、今日、私たちに、そのことに気付いてほしいんです。
そしてそれが、確かなことであることを、イエス様は今日、約束してくださっています。
「はっきり言っておく」ってイエス様、言ってますよね。
この「はっきり言っておく」という言葉は、直訳すると、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」っていう言葉なんです。
「アーメン、わたしはあなたがたに言う」。
これ実は、普通の言葉遣いじゃないんですね。
アーメンという言葉は、直訳すると「真実に」という言葉なんですが、この言葉は、聖書が読まれた後なんかに、それを聞いていた人が言う言葉なんですね。
聖書の言葉、神の言葉に対して、「真実に」、「その通りです」。
あるいは、お祈りの時にも言いますよね。
お祈りした後、アーメン、「真実に」、「その通りになりますように」。
そういう言葉なんですね。
今イエス様は、それくらいの気持ちで、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」って言ってるんです。
真実にそうなんだ。
あなたがたは神様の腕に抱かれる赤ちゃんなんだ。
そのことに気づきなさい。
頭で考えるのではなく、現実を見て判断するのではなく、赤ちゃんのように、言葉以前のところで、それを感じなさい。
そういうふうにイエス様は言うんですね。
それを感じることができるとしたら、それはどれくらい心の安らぐことで、どれくらいハッピーなことでしょうか。
今日の最初の話に戻りますけれども、レーナ・マリアさんがいつもハッピーでいられる理由、分かりますよね。
あの人は生まれた時からずっと、神様の赤ちゃんなんですよね。
ずっと神様の手のひらの上に置かれている。
それを感じている。
神様を賛美するゴスペルの、その歌う言葉の通りに、神様は私を愛していると信じている。
それが当たり前のように信じている。
ご両親の役割も大きかったと思いますね。
ご両親は、レーナさんに、「お前にはそれは無理だ」と言ったことは一度もなかったんだそうです。
失敗したら、「もう一度挑戦してごらん」、いつもそう言って励ましてくれたんだそうです。
それもこれもすべて、ご両親がレーナさんを受け入れる決断をしてくれたからですよね。
お医者さんは、この子に会わなくてもいい、すぐに施設に送ってもいい、そういうふうに言っていたんです。
けれども、受け入れようと決心して、レーナさんに会うと、もうかわいくて仕方ない。
これ、私たちに対する神様の気持ちも同じじゃないですか。
私たちには罪がある。
神に背く性質がある。
そしてそれは、どうしたって、私たちは自分では治せない。
もうそれって、重い障がいみたいなものですよね。
だけれども、神様は私たちを見捨てることはできなかった。
罪はあるけれども、この私たちを、抱きしめてくださった。
私たちのことが、自分の赤ちゃんのようにかわいくて仕方ない。
だから私たちも、レーナさんと同じように、ハッピーでありたいですね。
思い通りにいかないこと、悲しいこと、辛いこと、私たちにはたくさんあります。
でもそれはレーナさんのような人も同じでしょう。
その時、気づくことができるかどうか。
それでも自分が神様の手の上に置かれている、神様が私たちに手を置いて、祝福してくださっている。
それが真実なんです。
イエス様は今日、真実にそうなんだと、私たちにおっしゃってくださっているんです。