
【今週の予定】
●6/5(月)ワックスがけ
●6/7(水)牧会事例研究会(16:00-17:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)
●6/8(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
●6/10(土)牧師週休日
●6/11(日)礼拝(10:30—12:00)、お茶会、埼玉西部地区役員研修会(14:30-16:30※役員は12時過ぎに出発)、埼玉西部地区運営委員会(17:00-18:30)、掃除
★6/11(日)の説教:尾崎牧師
聖書ルカによる福音書18章18節から30節
説教題「救われる人はいるのか」

使徒言行録2章1節から4節
1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
昨日、上野の美術館に行ってきました。
美術館で「バベルの塔」の絵の展覧会があったので、見に行ったんですね。
バベルの塔の話は、皆さん聞いたことがあると思いますね。
旧約聖書の創世記11章に書かれている物語です。
人間がどんどん罪深くなっていって、どんどん神様に背くようになっていって、とうとう、天まで届く高い塔を建てて、有名になろう、なんて言い出して、実際に塔を造りはじめた。
そういう話ですよね。
まあ、それが絵になっているわけです。
そして、その絵がもう面白いんですよね。
天まで届く高い塔っていうと私たちは東京タワーとかスカイツリーみたいなのを想像しますけれども、このブリューゲルという人の描いたバベルの塔はそんなんじゃないんですね。
この人以前には、バベルの塔っていうと、もう全部、東京タワーみたいな細長い感じの塔が描かれていたんですけれども、この人の描いたバベルの塔はタワーというよりも、古代ローマの競技場のコロッセウムみたいな感じで、それがらせん階段みたいな感じで空に伸びていくような感じなんですね。
似たような建物がないのでなかなかお伝えするのが難しいんですが、階段状のピラミッドみたいなものを想像していただくと近いかもしれません。
とにかく、ブリューゲルのバベルの塔は細長い塔ではありませんので、塔の中に部屋がたくさんあるんですね。
もうそこで生活している人がいるような感じなんです。
ただ、描かれている人の身長が3ミリくらいなので、何をしているのかはなかなか分からないんですが、教会もありまして、たくさんの人が並んでそこに入っていく様子なんかも描かれているんですね。
ですので、そういう細かいところを見ていっても、本当に楽しい絵なんですね。
けれども、創世記11章のあのバベルの塔の話は、そんな楽しいものだったんでしょうかね。
天まで届く高い塔を建てて、有名になろう、なんて言い出して、実際に塔を造りはじめた。
そういう話ですよね。
これはただ単に高い塔を建てようという話じゃなくて、神様に対する挑戦なんですね。
自分たちの力を、天まで届かせてやろう。
神様がおられるところまで、自分たちも行ってやろう。
人間が神様になろうとしているような、そんな話なんです。
それに対して神様はどうしたか、と言いますと、罰を下すんですね。
ただ、その罰の下し方が面白いんです。
普通に考えたら、塔を壊してしまえばいいんじゃないかと思いますけれども、神様は塔を壊すことはしなかった。
塔を壊すのではなくて、何をしたのかというと、人の言葉をバラバラにしたんですね。
言葉がバラバラにされてしまいますと、私たちは言葉でコミュニケーションをとるものですから、みんなで一緒になって何か一つのことをするということができなくなりますね。
何かこう、悪いことを考えて、みんなで一緒になってそれをする、ということができなくなる。
神様はそういう形で罰を与えました。
言葉をバラバラにして、みんなで一緒に悪いことができないようにしたんです。
それが創世記11章です。
そして、その出来事が、今日の新約聖書の使徒言行録2章ともつながってきます。
今日の場面ですが、使徒言行録の2章4節で、弟子たちは「ほかの国々の言葉で話し出した」って書いてありますよね。
バラバラにされてしまった言葉。
その、いろいろな言葉で話し出したんですね。
でも、この続きのところを見ると、それを聞いていた人たちがいて、その言葉がちゃんと通じているんですよね。
創世記11章では言葉が通じなくされてしまったんですが、ここでは、言葉が全部通じている。
言葉が通じなくされてしまったというのは、神様の罰だったんですが、この場面では、その神様の罰がなくなっているんです。
みんな、何を話しているのかちゃんと分かる。
言葉が通じる。
そして、注目してほしいんですが、弟子たちはいろいろな言葉で、どんなことを話していますか?
それが、2章11節の最後です。
これは、弟子たちがいろいろな言葉で話しているのを聞いた人の言葉なんですが、弟子たちは、「神の偉大な業を語っている」んですね。
神様をほめたたえているんです。
神様を賛美しているんです。
創世記11章のバベルの塔の物語では、人々は、天まで届く高い塔を建てて、有名になろう、と言っていたんです。
神様に対する挑戦ですね。
自分が神様になってやろう、みたいな、そういう言葉を語っていたんです。
ですけれども今は、弟子たちは、神様を賛美しているんですね。
神様と人間の関係が良い関係になっているんです。
バベルの塔の時は神様と人間の関係はものすごく悪かったわけです。
だから、罰を下されてしまったんですが、この時には罰も無くなって、神様と人間の関係が良い関係になった。
それが、この時の出来事です。
どうしてそんなことが起こったのかというと、それは、聖霊、神の霊が下されたからなんですね。
ですので、今日の場面を見ますと、まず一番に目につくのが、弟子たちがいろいろな国の言葉で話し出した、知らないはずの外国語で話し出したということですけれども、それ自体はあんまり大事な話じゃないんですね。
何にも勉強もしていないのに外国語を話せるようになるということでしたら、それはもうとてもとてもうらやましい話ですけれども、それはどういうことなのかというと、神様と人間の関係が良い関係になりましたよ、神様は私たちに罰を与えるんじゃなくて、神の霊、聖霊を与えてくださるんですよ、ということなんですね。
そういうことですから、今外国語で話しているこの弟子たちも、知らないはずの外国語で話したなんていうのはこの時だけです。
これから弟子たちは、いろいろなところに出かけて行って、いろいろなところにたくさんの教会を建てていくんですけれども、聖書のどこを読んでも、弟子たちが、外国人相手に、知らないはずの外国語で話して伝道したなんていうことは書かれていません。
これはもうこの時だけ。
神様としては、こういう出来事を起こすことで、神様が聖霊を下してくださったら、人間は神様を賛美するようになる、神様に対して挑戦しようなんてことは、もう考えなくなる、神様と人間の関係が良いものになる、これを知らせてくださっているんですね。
そして、もっと大事なのはここからなんです。
聖霊を与えられると、人間はどうなるのか。
大事なのは2章14節です。
ここで、弟子のひとりのペトロが立ち上がって、声を張り上げて、話し始めますね。
この話が、長い長い話になります。
次のページの下の段の36節までずっと続いていくんですね。
何を話しているのかというと、神様が私たちを救ってくださったんだということを、説教しているんですね。
そのことを、こんなにも堂々と、声を張り上げて、話しているんです。
でもこれって、実は大変なことなんです。
この日はイエス様が死刑にされてからまだ50日しかたっていないんですね。
となりますと、イエス様の弟子たちだって、捕まって死刑にされてしまうことだって、ないとは言えないじゃないですか。
実際、弟子たちは、イエス様が逮捕された時、すぐに逃げ出したんですね。
自分も逮捕されることになってしまうかもしれないから、それが怖くて逃げだした。
でもこのペトロっていう人は、イエス様が逮捕される前は、イエス様に対して、「あなたのためなら命を捨てます」なんて言っていたんですね。
イエス様と一緒なら、逮捕されても、死刑にされても構いません。
ペトロはそんなことを言っていたんです。
それなのに、イエス様が逮捕されると、逃げ出した。
その後、イエス様が裁判を受けるために引き出されていくと、ペトロはこっそり後を付けていくんですが、その時、周りにいる人たちから、あなたはイエスの弟子ではないのか、と聞かれると、違うと言ってしまうんですね。
私はイエスのことなんて知らない。
そう言ってしまったんです。
その時、イエス様は振り向いて、ペトロをじっと見つめました。
これ、イエス様が前もって予告しておられた通りのことだったんですね。
あなたは私のことを知らないというだろう、とイエス様は逮捕される前にペトロに予告していました。
その通りになった。
その時、ペトロは、激しく泣いたと聖書に書かれています。
「あなたのためなら命を捨てます」なんて立派なことを言っていたのに、そうすることができなかった。
それどころか、イエス様のことを知らないと言ってしまった。
全部イエス様の言っておられた通りになった。
普通に考えたら、イエス様の言っておられた通りになったっていうのは、それ自体、素晴らしいことじゃないですか?
イエス様がすごい方だ、ということなんですから。
でもペトロは、イエス様はすごい方だ、だからイエス様について行こう、そういう考えではなかったんですね。
ペトロは、バベルの塔を建てようとした人たちと同じなんです。
もちろんペトロも、イエス様はすごい方だというふうには思っていたでしょう。
けれども、イエス様もすごいけれど、自分もすごいぞ、と思っていた、そう思いたかったんです。
だから、頑張って立派なことを言うんですね。
自分にはできないことなんですけれども、「あなたのためなら命を捨てます」なんてことを、頑張って言うんですね。
自分もすごいぞ、そう思いたいからです。
バベルの塔ですよね。
自分の力で、天まで届く高い塔を建ててやろう。
でも、そんなペトロは、崩れ落ちることになります。
ペトロは、激しく泣くことになるんですね。
打ち倒されてしまうんです。
人間の力は、強そうに見えても、弱い。
でも、聖書はここで終わらないんです。
人間は、バベルの塔を建てることができませんでした、人間の心の中のバベルの塔は崩されてしまいました、そこでは聖書は終わらないんです。
むしろ、そこから、第二巻が始まるんですね。
人間が立ち上がらされて、力にあふれて生きていく第二巻が、そこから、バベルの塔が崩れたところから、始まっていくんです。
1ページ戻って、使徒言行録の1章1節を見てください。
ここに、「わたしは先に第一巻を著し」たと書かれていますよね。
この第一巻というのはルカによる福音書のことです。
福音書というのはイエス様と弟子たちの物語ですよね。
イエス様がどんなことを教えていたのか、どんなことをしていたのか、イエス様について行った弟子たちはどんな様子だったか、それが書かれているのが福音書です。
ただ、この福音書というのは、考えようによっては、これは弟子たちの失敗の記録ですよね。
イエス様の言うことを弟子たちは分かっていなかったんですよね。
的外れなことばかり弟子たちは言ったりしたりしていました。
最後には、弟子の一人は、それも、自分こそがイエス様の一番弟子だと思っていた人が、イエス様のことを知らないと言ってしまって、泣き崩れてしまう。
それが福音書です。
バベルの塔が崩される物語です。
でも、聖書はそこで終わらないんです。
ここから、この使徒言行録で、第二巻が始まっていくんですね。
第二巻に入ると打って変わって、今度は弟子たちは大活躍ですよ。
イエス様はもういないのに、弟子たちは、行けるところならどこにでも出かけて行って、いろんなところにキリストの教会を建てていくんですね。
一体どうしてそうなるんでしょうか。
イエス様がいた時にはダメだった人たちが、イエス様がいなくなったのに、どうしてそんな大活躍ができるんですか。
聖霊が与えられたからなんです。
では聖霊って何ですか。
1章8節を見てください。
イエス様はこういうことを約束してくださっていたんですね。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。
これですね。
聖霊は力なんですね。
神の力。
崩れ落ちた人でも、力にあふれて立ち上がらせる、そんな力。
ここでつかわれている力という言葉は、ギリシャ語でデュナミスという言葉なんですが、この言葉は、ダイナマイトという言葉の元になった言葉です。
それくらい強い力。
大きい力。
ただ、ダイナマイトは壊す力ですけれども、聖霊の力は人間を立ち上がらせる力なんですね。
だから、崩れ落ちた弟子だって、立ち上がって、声を張り上げて、神様を証するんです。
そして、どこにでも出かけて行って、いろんな場所にいくつもいくつも教会を建てていくんですね。
その聖霊が、私たちには、すでに与えられています。
そして、これから与えられる機会も開かれています。
それが洗礼なんですね。
洗礼という言葉を聞きますと、何か特殊な言葉に聞こえますよね。
ですがこれ、原文で見ますと、特に変わった言葉ではないんです。
バプテスマという言葉なんですが、この言葉は、単に、どっぷり浸かるという言葉なんですね。
どっぷり浸かる、全部浸かる。
普通の言葉です。
ですのでこの言葉は、船が沈没することとか、お酒を飲んで酔っ払って寝てしまうようなことにもつかわれる、そういう言葉です。
では、洗礼の場合には何にどっぷり浸かるのかというと、それが聖霊なんですね。
ですので、洗礼を受けた私たちには、聖霊がもうすでに与えられているんです。
私たちは、聖霊を受けた弟子たちのように、力にあふれて生きて行っていいんですね。
もし私たちがそうするのが嫌だというのでもないのなら、私たちだって、弟子たちと同じように力にあふれさせられるんです。
私たちは時として、ペトロのように、打ち崩されてしまうことがありますよね。
何かあると私たちはまず、自分の力でどうにかしようとしますけれども、自分の力ではどうにもならないことというのは、いくらでもあるわけです。
むしろ、考えてみると、自分の力でどうにかなることの方が少ないくらいかもしれません。
それでも何とか頑張ろうとする時、私たちだって、ペトロのようになってしまわないとも限らない。
崩れ落ちてしまう。
そういうことだって、私たちの多くは、生きてきた中で一度や二度は味わってきたんじゃないですか。
けれども、私たちはそれでは終わらない。
私たちが崩れ落ちて、もう立ち上がれなくなってしまうようなことを、神様は望んではおられない。
神様は私たちが、力にあふれて立ち上がることを望んでおられる。
だからこの第二巻があるんです。
神様は私たちの力には限界があるということを知っておられるんです。
私たちが崩れ落ちてしまうことがあるということを知っておられるんです。
でも神様は、私たちをそこで見捨てたりはしない。
だからこの第二巻があるんです。
聖霊によって立ち上がらせられて、力にあふれて生きていく第二巻です。
この第二巻があるということは、神様は私たちを決して見捨てないということです。
洗礼を受けた人は皆、もう第一巻にはいないんですね。
みんなもう、第二巻に入っている。
神様と共に歩む第二巻がもう、始まっているんです。
まだ洗礼を受けていない方は、どうぞこの機会に、洗礼を受けることを考えてみてください。
これは私が願っていることではないんですね。
神様が願っておられることなんです。
神様に代わってお願いいたします。
もちろん、洗礼を受けても、辛い出来事、悲しい出来事がなくなるわけではありません。
この使徒言行録にも、辛い出来事、悲しい出来事がたくさん記されています。
ですが、この第二巻、使徒言行録には、そのような出来事に弟子たちが打ち崩されてしまったという話はもう出てこないんですね。
聖霊が共にいるんですから。
神様ご自身が共にいるんですから。
どうぞその力を受けてください。
宗教改革者であったマルティン・ルターは、本当にどうしようもなく苦しい出来事が起こった時には、「私は洗礼を受けた、私は洗礼を受けた」と繰り返しつぶやいたんだそうです。
私は洗礼を受けた、そして、聖霊を与えられた、だから、どんなことがあっても大丈夫なはずだ。
そのことを確かめるように、何度も何度も、「私は洗礼を受けた」と繰り返したんだそうです。
私も、同じ言葉を繰り返したことがありました。
病気をして、実家に帰っていた時期ですね。
体調が少し良い日、と言っても、周りの人から見ると体調が悪そうに見えたでしょうけれども、近所を散歩した時に、その言葉を繰り返しながら歩いたことがありました。
「私は洗礼を受けた、私は洗礼を受けた」と繰り返しつぶやきながら歩きました。
しばらく歩いて家に帰ってくると、自分の部屋の机の上に、封筒が置いてあるんですね。
この教会から届けられたものでした。
一体何が入っているんだろうかと思って、ドキドキしました。
完全に休んで、治療に集中して、仕事はしないようにと言われていましたから、それなのに、なんだろう、大変な知らせでもあるんだろうか、ドキドキしました。
ところが開けてみると、中に、皆さんが寄せ書きしてくださった色紙が入っていたんですね。
皆さんの言葉を一つ一つ読むごとに、それが私の力になりました。
これ、聖霊の働きじゃないですか。
聖霊が皆さんに働いてくださって、私にも働きかけてくださった。
そうして、崩れ落ちていた私を、立ち上がらせてくださった。
それが御心なんです。
神様は、私たちが神様と共に、力強く生きていくことを望んでおられるんです。
私たちがもう立ち上がれなくなることを、神様は望んでおられない。
辛いこと、悲しいことはありますよ。
でも、そのことを通して、私たちはますます神様の力にあずかるようになって、ますます道が整えられていくんです。
それがこの、使徒言行録に書かれていることじゃないですか。
その第二巻に、私たちはいます。
そのことを、深く心に刻んで、生きていきましょう。
もう私たちは以前の私たちではない。
以前は私たちは一人でした。
今は、神様と一緒です。
これくらい大きな違いが、他にあるでしょうか。