今週の説教「救われる者はいるのか」(ルカによる福音書18章18-30節)

 【今週の予定】

 ●6/13()バザー(10:00-14:00)、大会役員修養会(愛知県豊橋市、15日〔木〕まで)

 ●6/15()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

 ●6/17()牧師休暇(23日〔金〕まで)

 ●6/18()礼拝(10:3012:00)、父の日祝会、お茶会、掃除

★6/18()の奨励:金田知朗)信徒奨励者

聖書・マタイによる福音書41-11

説教題「荒れ野での試み」

 

ルカによる福音書1818-30

 

18ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。19イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」21すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。22これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」23しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。24イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、27イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。28するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、30この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

 

 

 

 

 

今日の御言葉ですが、最初に、一つの言葉を取り上げてみたいと思います。

 

25節なんですが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉がありますよね。

 

イエス様の言葉です。

 

けれどもこれ、何か不思議なたとえですよね。

 

金持ちが神の国に入るのは難しいということをたとえて言っているんですが、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。

 

これは何なのか、ということですね。

 

らくだが針の穴を通れないのは当たり前ですね。

 

というか、そもそもらくだは針の穴を通る必要なんてないんじゃないですか。

 

それなのになんでこんなことが言われているのか、ということなんですが、この「らくだ」という言葉を原文で見ますと、動物のらくだという意味にもなるんですが、船をつなぎ留めておくための太いロープのことも「らくだ」と言ったんですね。

 

ですからこれは動物のらくだではなくて、太いロープのことですね。

 

細い糸なら針の穴を通ることができますけれども、太いロープは通りません。

 

それで、そんなのは無理だ、という意味になるんですね。

 

ちなみになんですが、ここに出てくる「針」という言葉は、着物を縫ったりする時に使う普通の針ではありませんでして、お医者さんが皮膚を縫う時に使う針を指す言葉がつかわれています。

 

この福音書を描いたルカは医者ですので、ここを書く時にそういう言葉を選んだのかもしれませんね。

 

しかし、このイエス様の言葉はどうでしょうか。

 

ここでイエス様は、お金持ちは神の国に入れないって言っているんですよね。

 

お金持ちでない人がこれを聞いたら、それだったら自分にはチャンスがあるかもしれない、と思うかもしれませんが、この時イエス様が話している相手は、議員なんですよね。

 

立派な仕事についているわけです。

 

23節に、この人は大変な金持ちだったと書かれています。

 

それも、この議員さんは、「持っている物をすべて売り払いなさい」なんてことをイエス様から言われて、そんなことはできないと思って、「非常に悲しんだ」って書かれていますよね。

 

この人はものすごく悲しんでいたんです。

 

それなのにイエス様は、その人に対して、お金持ちは神の国に入れないなんて言うんですね。

 

これは一体どうしたことでしょうか。

 

イエス様は何を考えておられるんでしょうか。

 

一体、どんなやり取りがなされていたのか、最初のところから見ていきたいと思います。

 

まず、一番最初に、議員さんの方からイエス様に質問したんですね。

 

「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問ですね。

 

こんなふうにイエス様に対して質問する人って、時々出てきますよね。

 

そして、イエス様に対して質問する人って、たいていイエス様の敵だったりなんかして、イエス様をやっつけてやろうとして質問するなんていうことがありましたけれども、この議員さんはそうではありませんでして、イエス様のことを「善い先生」なんて呼んでいますし、イエス様とのやり取りの中で、最後にはこの人は非常に悲しむことになったわけです。

 

悲しんだということは、イエス様の言葉をまじめに受け止めていたということですよね。

 

もしイエス様の敵なんだったら、イエス様から何を言われても悲しんだりはしませんね。

 

この人は本当にイエス様に教えてもらいたかったんですね。

 

「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」。

 

それを本当に知りたかった。

 

そして、言われたとおりにして、永遠の命をいただきたいと願っていたんですね。

 

まじめな人ですね。

 

ただここでイエス様は、この人に対して、それは違うよ、と言うんですね。

 

この人はイエス様のことを「善い先生」と呼びましたけれども、イエス様はそれに対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか」と言うんですね。

 

「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」。

 

そういうふうにイエス様は言うんですね。

 

これも、どうしてそんなことを言うのかなあと思ってしまいます。

 

イエス様は神の子、善い方ですね。

 

それなのにこんなことを言うのはどうしてかなあと思うのですが、この議員さんの質問は、永遠の命についてでしたよね。

 

永遠の命を与えてくださるのは神様ですから、イエス様としてはこういうふうに言って、この人の心をとにかく神様に向けさせようとしたのではないかと思いますね。

 

そして、続けて、神の言葉をイエス様は持ち出しますね。

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」。

 

これ、旧約聖書に記されている十戒ですね。

 

十戒、十の戒め、十のルール。

 

神様がご自分を信じる人々に与えてくださったものですね。

 

十戒ということですから、本当は十あるんですが、そこから五つを持ち出してきて、これを守りなさい、とイエス様は言うんですね。

 

この十戒というのはユダヤ人でしたらみんな、小さい頃から教えられて良く知っているものです。

 

イエス様はそれを示しました。

 

イエス様のお考えとしてはこうですね。

 

「永遠の命を受け継ぐ道はもうすでに示されているんだから、私に新しい道をたずねる必要はないんだよ」ということですね。

 

ところが、そういうふうに言われましたこの人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

 

これは高慢でそう言っているのではないと思いますね。

 

少なくとも行いの上では、この人はそういうことを守ってきたんでしょう。

 

だからこの人は議員になれたんですし、そういうまじめな人だからこそ、自分はそういうことを守ってきたけれども、でも、自分には何かが足りないと思って、今日、イエス様のところに来たんでしょうね。

 

そうすると、イエス様はお答えになりました。

 

「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。

 

これを聞いて、この人は非常に悲しんだんですね。

 

しかしこれ、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」というのは、どういう意味なのか、ということはよく考える必要があります。

 

これは、貧しい人を助けたら永遠の命をいただけるよ、良い行いをしたら永遠の命をいただけるよ、ということではないんですね。

 

今日のこの言葉によく似た言葉がこの福音書の132ページに書かれています。

 

これはちょっと開いていただきたいんですが、12章の33節ですね。

 

今日の言葉とよく似た言葉がありますね。

 

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」。

 

これですね。

 

よく似ています。

 

ただ、この12章のこの言葉は、どういう意味で言われているのか、ということですね。

 

ここの部分には「思い悩むな」というサブタイトルが付けられていますけれども、食べるもののこととか着るもののことを人間は思い悩みますよね。

 

どうやって生活しようか、という毎日の生活のことを、私たちは本当にいろいろ考えます。

 

でもそこでイエス様は、心を神様に向けなさいと言うんですね。

 

心を神様に向ければ、神様があなたを養ってくださるよ。

 

一本の草花でも、神様はきれいに花が咲くように養ってくださる。

 

まして、あなたがたのことを神様はどれくらい大事に思ってくださっているだろうか。

 

その神様を信頼しなさい。

 

そういうふうに言われているんですね。

 

ですので、大事なことは、持ち物を全部売り払うとか、売り払ってお金にかえて、そのお金を貧しい人にあげるとか、そういうことが大事なんじゃないんですね。

 

大事なのは、心を神様に向けることなんです。

 

お金に心を向けてしまって、何を食べようか何を着ようか、お金と相談しながらあれこれ思い悩むのではなくて、神様に心を向けなさいということなんですね。

 

お金を信頼するんじゃなくて、神様を信頼しなさいということなんです。

 

イエス様が言っていることは、心を神様に向けなさいということなんです。

 

今日の18章に戻りますけれども、22節でイエス様はこの議員さんに言っていますよね。

 

「あなたに欠けているものがまだ一つある」。

 

この欠けているものというのが、神様を信頼することなんです。

 

イエス様は、最初から、そのことに気づいておられたんだと思いますね。

 

この人に何が足りないのか、イエス様は最初から知っておられたんだと思います。

 

どうしてそう言えるのかといいますと、さっき、イエス様は、十戒から五つのことを取り出しましたよね。

 

この五つ、「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」、これって、十戒の中で言うと、十のルールの後半に出てくるものなんです。

 

十戒は前半と後半に分かれるんですが、後半はこういう、人と人との関係についてのルールなんです。

 

そして、十戒の前半は神と人との関係についてのルールです。

 

イエス様はその、十戒の前半の話を、さっきはわざとしなかったんだと思いますね。

 

わざと後半の話だけしておいて、それは守ってきましたと言わせておいて、そこで、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」、それが、本当に、心を神様に向けるということなんだよ、ということですね。

 

これを、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」なんていう言い方じゃなくて、十戒の前半の言葉をそのままつかって、神様以外のものを神にしてはいけませんよとか、週に一度礼拝しなさいとか、そういう言葉で言っても良かったんでしょうけれども、十戒の前半の言葉をそのままつかってしまいますと、この人は、もちろんそれも子どもの頃から守ってきました、と言うでしょうね。

 

心を神様に向けなさい、というふうにストレートに言っても同じでしょうね。

 

この人は、もちろんそのつもりです、と言うでしょうね。

 

そこでイエス様はこういう言い方をなさったんでしょうね。

 

お金ではなくて神様を信頼しているのなら、こういうふうにできるはずだよ、ということですね。

 

そして、ここでつかわれている、「それから、わたしに従いなさい」という時の、「それから」という言葉が、深い意味のある言葉なんです。

 

この「それから」という言葉は、「さあ、来なさい」というような言葉なんですね。

 

「さあ、来なさい」。

 

何かもう、イエス様に従うっていうのは、今までの生き方と決定的に違うんだっていう感じですよね。

 

だからこそ、考え方を変えなければいけないんです。

 

お金でもなく、物でもなく、神様に信頼する。

 

そうなった時に初めて、イエス様に従う準備ができたということになるんですね。

 

けれども、この議員はそれができないと思って悲しんだんです。

 

イエス様に従う、その準備をするということは、今まで持っていたものを捨てることで、それはとても悲しいことだということ。

 

この議員さんの気持ちは私にも少し分かるんですね。

 

実は、ここ1か月くらいの間に、私は急激に髪の毛の量が減ってきたんですね。

 

もう38歳ですから、仕方ないのかもしれませんけれども、もともと肌が弱くて、夜中に頭をかいているらしい、ということもあって、急に髪の毛が減ってきたんです。

 

そうなると、悲しいですよ。

 

こんな悲しいことがあるのかというくらいに悲しい。

 

そして、髪の毛がしっかり生えている友達にいくら話をしても、その悲しさは分かってもらえない。

 

それがまた悲しい。

 

でも、髪の毛が減って、今まで持っていたものを手放して、気づいたことがあるんですね。

 

私は男性ですから、自分の見た目のことをそんなに気にしていないつもりだったんですね。

 

せいぜい、汚い格好をして、人を嫌な思いにさせなければそれでいい、というくらいのことしか考えていないくらいのものだったんです。

 

けれども、今まで持っていたものがなくなっていくとなった時に、自分は実は自分の見た目をすごく気にしていたんだ、自分は人に良いように見られたいと思っていたんだ、ということが本当によく分かりました。

 

だって、髪の毛が減ったくらいでこんなに悲しいっていうのは、そういうことですよね。

 

見た目を実は気にしていたんです。

 

妻に相談しますと、妻は、「私は気にしないよ」と言ってくれました。

 

ありがたかったですね。

 

ですが、つい先日、私の髪の毛がどれくらい大変なことになっているのかを確認しますと、妻は、「私困る」と言ったんですね。

 

もう私には神様しかいないんですね。

 

そうなるともう、心がまっすぐに神様に向かいますね。

 

まあそれは冗談ですけれども、髪の毛が減って、それに慣れてくると、気づいたんですが、お祈りをする時なんかに、今までよりもまっすぐに神様に向かうことができるようになったことを感じるんですね。

 

今までは、自分の見た目のことを無意識で考えていた、それが、自分の心が神様に向かうことをいくらかは邪魔していたんでしょうね。

 

でも今はそれを手放して、それまでよりももう少し、まっすぐに神様に向かい合うことができるようになった。

 

そういうことかなあと思います。

 

そして、このお金持ちの場合は、神様に心を向けることを邪魔しているのが、お金なんですね。

 

ですけれども、髪の毛は自然に減っていきますけれども、お金は勝手になくなったりはしませんから、自分で捨てなくてはならない。

 

それはできない。

 

だから、この人は悲しむんですね。

 

でも、悲しむっていうことは、イエス様の言っていることが当たっているということだと思います。

 

この人にとって、お金というものがとても大きなものなんですね。

 

だから、捨てろと言われると悲しいんです。

 

悲しいっていうことは、それに心を奪われているということで、その分、神様に心が向かわない、ということですね。

 

そこで、イエス様は言います。

 

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。

 

ここで、今日初めて、神の国という言葉が出てきましたね。

 

そもそも、この議員は、永遠の命について質問したんでしたが、言ってみればその、永遠の命という言葉が、ここでは、神の国と言いかえられています。

 

永遠の命を受け継ぐということと、神の国を受け継ぐということは同じことなんですね。

 

そして、これがまた別の言葉で言いかえられています。

 

26節の、イエス様と議員の話を聞いていた人々の言葉ですが、「それでは、だれが救われるだろうか」。

 

今度は「救われる」と言いかえられているんですね。

 

永遠の命と神の国と救われるということは、同じことなんです。

 

それはいいとして、ここで、人々が、「それでは、だれが救われるだろうか」と言っていることに注目したいですね。

 

この人々の中にはお金持ちもいたかもしれませんが、全員がお金持ちだったということはないと思いますね。

 

でも、「自分はお金持ちじゃないから、普通だから、あるいは、自分はお金を持っていない方だから、全部捨てることができるぞ」というふうに思う人は誰もいなかったんですね。

 

そうなんです。

 

できないんです。

 

全部売り払って貧しい人々に分けてあげるなんて、誰にもできません。

 

一体私たちはどうすればいいんでしょうか。

 

イエス様は言います。

 

「人間にできないことも、神にはできる」。

 

ここで、イエス様は二つのことを言っていますよね。

 

まず、「人間にはできない」、そのことを、イエス様は認めておられるんです。

 

けれども、「神にはできる」。

 

神様がそうすることができるようにしてくださる。

 

そもそも、人間が自分の力で神様に向き直ることができるんだったら、神の子が地上にくる必要はないですよね。

 

人間はみんな罪びとで、神様に背いている。

 

それを、人間は自分の力ではどうすることもできない。

 

だから、神の子イエス様が地上に来てくださって、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださって、救いの道、永遠の命に至る道をひらいてくださったんですね。

 

そうなんです。

 

「人間にできないことも、神にはできる」。

 

別に言い方で言うと、私たちは、できないままで救われるんです。

 

できないままでいいんです。

 

いや、できないからいいんですよ。

 

今日の場面の直前のところで、イエス様は、乳飲み子のようになりなさい、赤ちゃんのようになりなさいって言ってたじゃないですか。

 

赤ちゃんなんて、なんにもできないですよ。

 

でも、だからいいんです。

 

そういう私たちを、神様が抱き上げてくださるから。

 

ここでペトロが、私たちはすべてを捨ててイエス様に従ってきました、なんて言っていますけれども、この人、別に捨ててないですよ。

 

ペトロはもともとは漁師でした。

 

ですので例えば、船を持っているんですね。

 

ですけれども、イエス様の弟子になるとき、その船を捨てたのかっていうと、捨ててないんです。

 

ヨハネによる福音書の最後の方のところで、イエス様が十字架にかけられて、その後のことですけれども、ペトロは、漁をするんですね。

 

船を使って、漁をするんです。

 

捨ててなかったんです。

 

でも、ペトロがイエス様の弟子になった時、それは、この福音書でいうと511節ですけれども、ここに確かに、「すべてを捨ててイエスに従った」って書かれているんですね。

 

本当には捨てていないんです。

 

でも、もう、それに頼ろうという心を捨てた。

 

船に頼って、漁をして、自分の生活を自分で守っていこう。

 

そういう気持ちを捨てた。

 

だから、自分の体一つでイエス様についていった。

 

大事なのは、心ですよね。

 

船に頼るんじゃなくて、イエス様に頼る。

 

そして、その、人間にはできないことをしてくださったのがイエス様ですね。

 

ペトロが弟子になった時、ペトロから声をかけたんじゃないですね。

 

イエス様の方から声をかけてくださった。

 

そして、その言葉の通りに、ペトロはイエス様に従うようになった。

 

人間にはできないことも、神にはできるんです。

 

そのペトロも、イエス様が十字架にかけられた時には、怖くなって逃げだしてしまいました。

 

ペトロは、「あなたのためなら命を捨てます」と言っていたんですが、そうすることができなかった。

 

でも、そのペトロを、イエス様は見捨てないんですね。

 

イエス様を見捨てたペトロを、イエス様は見捨てない。

 

もう一度、ペトロのところに来てくださるんですね。

 

そしてやっぱり、イエス様の方から声をかけてくださるんです。

 

そこからまた、ペトロは変えられるんですね。

 

人間にはできないことも、神にはできるんですね。

 

だから、思うんですね。

 

今日のこの議員さん、まじめな人なんですけど、この人は自分からイエス様に声をかけたんですね。

 

それも、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」なんて言っている。

 

自分で何かしなきゃいけないって思っているんですよね。

 

そうじゃないんです。

 

神様がしてくださるんです。

 

だからこそ、思うんです。

 

神様は、このまじめな人のことも、見捨てなかったんじゃないかと思うんですね。

 

大体この人、イエス様に、すべてを捨てなさいって言われて、怒って帰ってしまったんじゃなくて、悲しんだんですよね。

 

まじめに受け止めていたんです。

 

イエス様がそんな人を放っておきますか。

 

ご自分を見捨てたペトロを見捨てなかったイエス様が、こんなまじめな人を放っておきますか。

 

たぶん、イエス様はもう一度この人に出会ってくださって、今度はイエス様の方から、声をかけてくださったと思うんですね。

 

だから今日の話で、大事なことは、一つだけです。

 

「人間にできないことも、神にはできる」。

 

これだけですね。

 

これだけでいいんだと思います。

 

どうぞこの言葉を繰り返しつぶやいてください。

 

そうすると、力が与えられます。

 

必ず神様が力を与えてくださいます。

 

実際、この言葉は、昔から今に至るまで、本当にたくさんの人たちが、この言葉と共に、喜びにあふれて生きた、そういう言葉なんです。