
【今週の予定】
●6/28(水)牧会事例研究会(16:00-17:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)
●6/29(木)コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)
●6/30(金)牧師週休日
●7/1(土)他教会の宣教師来訪(10:00-13:00)
●7/2(日)礼拝(聖餐式、10:30—12:00)、食事会(12:00-13:00)、小会(13:00—15:00)、掃除
★7/2(日)の説教:尾崎牧師
聖書箇所:新約聖書・ルカによる福音書18章35-43節
説教題:「何をしてほしいのか」

ルカによる福音書18章31-34節
31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。32人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。33彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」34十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
一週間のお休みをいただきまして、台湾に行ってきました。
日本ではこれから梅雨ですが、台湾はもう少しで梅雨が明けるところでして、曇りの日や雨が少し降る日が多くて、気温はそれほど高くはならなかったので、いろいろなところに出かけました。
まあ観光の話はいつでもできるとして、台湾は日本よりはずいぶんクリスチャン人口が多いですね。
人口の10%がクリスチャンです。
ですので、町を歩いていても、結構大きな教会を見かけることがしばしばあるんですね。
まあ、教会だけでなく、仏教のお寺や道教のお寺も、非常に大きい建物で、町の中で目立っているという感じでした。
そういうことですので、皆さんそれぞれに信仰熱心な町なんだなという印象を受けました。
そして、今回台湾に行って初めて知ったんですが、孫文も蒋介石もクリスチャンだったんですね。
孫文は「中国革命の父」と呼ばれている人で、中国だけでなく世界中を駆け巡って、何とかして新しい国を作ろうとした、そういう人ですね。
日本にも何度も来ていまして、私の故郷である神戸にも孫文の記念館があります。
蒋介石というのは孫文の後継者でして、ばらばらになっていた中国を統一した人です。
こんな歴史に名前を残しているような人たちが、その時代には他にクリスチャンはほとんどいなかったでしょうに、クリスチャンだったんですね。
それも、ただ信仰を持っていたというだけではなくて、記念館なんかに行くと、説教の原稿が展示されているんですね。
教会の礼拝で説教までしていたんですね。
神様と共に困難な道を切り開いて歴史を作っていったのかなあと思わされました。
いつか説教原稿を日本語で読むことができたら読んでみたいと思わされました。
いずれにしても、私たちは、孫文と同じ聖書を与えられているんですよね。
孫文と同じ聖書というだけではありませんね。
時を超えて、場所も超えて、本当に数多くの人たちと一緒に、私たちは同じ神の言葉を聞いている。
神様がその人その人に、何を願っておられるかは人それぞれ違うんでしょうけれども、神様はどの人も愛しておられるということは同じです。
そして神様は、私たちが、楽なことばかりではない人生を、それでも、希望にあふれて生きていくことを願っておられる。
そして、そのために神様が何をしてくださったのかということが書かれているのが聖書です。
私たちが苦しみの中で倒れてしまうことがないように、神の子が大変な苦しみを引き受けてくださったんですね。
私たちが希望の中で生きていくことができるように、神の子が私たちの前に、身を投げ出してくださったんですね。
それも、それは偶然、結果としてそうなってしまったということではなくて、イエス様はすべて前もってご存じだった。
すべてご存じの上で、すべてを引き受けてくださった。
そのことが書かれているのが今日の場面ですね。
イエス様は今日、ご自分が十字架にかかること、その三日後に復活することを予告しておられます。
この予告、十字架と復活の予告はもう3回目なんですね。
今までにイエス様は弟子たちに対して2回、そのことを予告なさっておられました。
そして今回は、わざわざ弟子たちをご自分のところに呼び寄せてお話になるわけです。
それも、今までよりも詳しく、お話になるんですね。
この十字架と復活の予告は3回目の予告、そして、最後の予告になります。
ですので、イエス様は今までよりももっと真剣にこのことをお話になったと思いますね。
この大事なお話を今イエス様がなさる理由が、イエス様の言葉の中にありますね。
一番最初の言葉ですが、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く」ということですね。
十字架と復活の出来事はエルサレムで起こる、だから、まさにエルサレムに上ろうとしている今この時、この話をしておくのだ、ということですね。
今までにもイエス様と弟子たちはエルサレムに向かって旅をしてきたんですけれども、聖書でいうと、もう2ページ先にエルサレムに到着しますから、その前に、最後の最後で、この大事な予告をしておこうということでしょうね。
ですから、今までの予告よりももう一歩突っ込んだ話をなさいます。
32節で、ご自分が「異邦人に引き渡される」というお話をなさっていますね。
単に殺されるという話ではなくて、どういういきさつになるのかまで、お話になっているんですね。
今の時点でもうすでに、イエス様はユダヤ教の権力者たちに命を狙われていますから、弟子たちもこれからどうなるか分からないという覚悟はしていたのではないかと思いますが、まあそういうこともあるかもしれないなと思われてしまったのではある意味予告になりませんから、こういう細かいことまでお話になるんですね。
そしてこの予告の通りに、ユダヤ教の権力者たちは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国を動かして、ローマ帝国にイエス様を死刑にさせることになっていくんですね。
それに続けて、イエス様はご自分がどういう扱いを受けるのかも詳しくお話になりますね。
もうこれは、ただ単に逮捕されて裁判を受けて、十字架にかけられるということではないということですね。
「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」、そして、「鞭打ってから殺す」。
とてつもなくひどい扱いを受けるんですね。
そしてそうなることを、ご自分で分かっておられる。
もう引き受けておられる。
イエス様はいったいどれくらいのお気持ちで、このことをお話になったでしょうか。
それを思うと胸が詰まります。
それなのに、弟子たちはどうでしょうか。
弟子たちは何もわからなかったと書かれています。
イエス様のお話になったことは、31節でイエス様もおっしゃっていますけれども、旧約聖書で預言者が書いていたことなんですね。
イエス様が、救い主が、このような目にあうということは、何百年も昔から旧約聖書に予告されていたことなんです。
だとしたら、弟子たちは、イエス様のこの予告を聞いたんだから、旧約聖書を思い出しても良さそうなものです。
それなのに何も分からないでいる理由は、最後の34節ですね。
弟子たちには、「この言葉の意味が隠されてい」たんです。
つまり、神様が分からないようにさせていたんですね。
隠していたとは言っても、秘密にしたかったわけではありません。
秘密にしたいのなら3回も言いませんね。
イエス様はこれから起こることを前もって言っていたということを覚えておいてほしかったんです。
ただ、弟子たちがこの予告を理解してしまったら、弟子たちはイエス様がエルサレムに行くのを止めるでしょうね。
けれども、イエス様はエルサレムに行かなくてはなりません。
イエス様はただ単に死ぬんじゃないですね。
異邦人に引き渡されて、偽りの裁判を受けて、苦しめられて死ぬわけですが、それをイエス様は何も言わずに受け入れるわけです。
とてつもない人の罪を受け入れるわけです。
イエス様はご自分の罪のために死刑にされるわけではないんですね。
イエス様を十字架につけたのは人間の罪です。
イエス様は人間の罪を十字架に持っていってくださったんですね。
だからそこで、人間の罪はゆるされるんですね。
人が神の元に帰る道が、そこに開かれるんですね。
イエス様はそのために来られたんです。
ですので、弟子たちが止めても、イエス様はエルサレムに行かなくてはなりません。
けれども、止めても自分は行く、となったら、弟子たちはどうするでしょうか。
実際、弟子たちはこんなことになると思っていなかったから、イエス様と一緒にエルサレムに行きました。
けれども、この予告の通りになってしまうと、弟子たちは全員逃げ出したんですね。
ということは、弟子たちは、今日の予告をきちんと理解できたら、イエス様を止めるでしょうし、でもイエス様は止められても行くでしょうし、そうなったらもう、弟子たちはついてこないんじゃないですか。
どういうことになるのかを本当に分かっていたら、この弟子たちは実際に後になって逃げだした人たちなんですから、もうイエス様についてこないですね。
そうなるとイエス様は一人でエルサレムに行くことになります。
そうなりますと、イエス様の十字架と復活を証言してくれる人がいなくなってしまいます。
実際、イエス様の十字架と復活を証言して、キリスト教を広めていったのは弟子たちです。
伝道というのは弟子がすることなんですね。
弟子の証言が伝道なんです。
イエス様がなさった奇跡なんかは伝道じゃないんですね。
神様に向き直る気持ちがないんだったら、いくら奇跡を見ても、それに驚くことはあっても、心は変わらないですから。
だから、イエス様に出会って心を変えられた弟子たちが、イエス様のことを証言していく、それが伝道なんです。
その弟子たちがいなくなってしまったら、イエス様が人々の罪を背負って十字架にかかっても、罪に対する罰である死というものを打ち破って復活しても、それだけですよね。
それでは、神様に向き直ろうという人は現れてこないでしょうね。
だからイエス様は、今は、弟子たちにこのことが分からないようにしておくんです。
ただ、前もって言っておくことで、これが神様のご計画なんだと後になってから分かるようにしておくんですね。
では、結局のところ、弟子たちは、いつ、後になって分かるようになったんでしょうか。
それが、この福音書の24章13節から35節のところです。
もう、この福音書の一番最後の方ですね。
十字架と復活の後、復活したイエス様が弟子たちのところに来てくださった場面です。
ここのところを読みますと、イエス様が弟子たちの心の目を開いてくださったというようなことが書かれているんですね。
隠されていたことを明らかにしてくださったということですね。
この場面で、イエス様は、弟子たちに対して、旧約聖書について説明してくださるんですね。
今日の話にもありましたけれども、旧約聖書がイエス様について書いていることを説明してくださるんですね。
ただ、大事なのは、弟子たちは説明を聞くんですけれども、説明を聞いたから分かったというふうには書かれていないんですね。
弟子たちの心の目が開かれたのは、夕食をとるときに、イエス様からパンを受けた時なんです。
イエス様からパンを受けるというと最後の晩餐を思い起こしますけれども、イエス様は逮捕される前の夜に弟子たちと一緒に食事をするときに、パンを弟子たちに渡して、「これはわたしの体である」とおっしゃったんですね。
イエス様はパンを裂いて弟子たちに渡したんですけれども、裂かれたパン切れは、十字架で傷つけられたイエス様の体なんですね。
そのパンを、イエス様は与えてくださるんです。
つまり、イエス様は、ご自分自身を与えてくださるということです。
その時、隠されていたことが弟子たちにも明らかになるんですね。
それだけではありません。
弟子たちは、イエス様から聖書の話を聞いただけでは理解できなかったんですけれども、弟子たちは言っているんですね。
「聖書を説明してくださった時、わたしたちの心は燃えていた」。
そういうふうに言うんですね。
イエス様は、心に火をつけてくださる方なんです。
そして、ご自分自身を与えてくださる方なんです。
それがイエス様のなさりたいことなんですね。
そこから、聖書のもう少し後で、聖霊、神の霊が弟子たちに与えられていって、弟子たちはイエス様のことを少しでも多くの方に知ってもらうために、命がけで働いていくことになるんですね。
イエス様が逮捕された時には怖くなって逃げだしてしまった弟子たちが、すべてを理解してから、命がけで働くようになっていったんですね。
弟子たちは理解したんですね。
イエス様は、前もって、これからどうなるかすべて分かっておられて、ご自分が人間の罪に苦しめられて死ぬことも、弟子たちが逃げ出すことも、すべて分かっておられて、それでも、そのような人間を見捨てないで、そのような人間であっても救われるために、すべて受け入れてくださっていたんですね。
そのために、何も理解できていない自分中心な弟子たちと一緒にいてくださっていた。
逮捕されると逃げ出すような人間なのに、ずっと一緒にいてくださっていた。
その自分たちに罰を与えるどころか、心に火をつけてくださって、ご自分自身を与えてくださった。
それはもう命がけになりますよね。
ですので、そこからの弟子たちの働きようと言ったらすごいですよ。
もう、行けるところにはどこにでも行くんです。
もちろん困難はありました。
というか、困難だらけです。
弟子たちが働いた時代にはまだ新約聖書はありませんし、キリスト教なんて言っても、誰も知らないんです。
そんな状況で伝道するんですから、これはもう、普通のことではありません。
それでも、弟子たちは絶対にくじけないんですね。
どうなってもあきらめない。
どんな状況でも、できることを考えてやっていく。
それを考えますと、孫文や蒋介石のことも思い出しますね。
孫文も蒋介石も、挫折することの多かった人たちですね。
成功よりも失敗の方がずいぶん多かったような人たちです。
もっと言うと、よくその年まで生きていられましたねというような人たちです。
それでも、どんな困難にあっても、彼らは倒れてしまうことはなかったんですね。
彼らの人生も、使徒言行録みたいな話なんです。
彼らも、弟子たちと同じなんじゃないですか。
心に火をつけられた人たち。
イエス様がご自分自身を与えてくださった人たち。
だから、困難に打ち負かされてしまうことがない。
そういうことではないかと思うんですね。
そして、考えてみればそれは、私たちも同じですよね。
弟子たちがもらったもので、私たちがもらっていないものがありますか。
何もないですよ。
洗礼を受けて、聖霊を与えられて、聖餐式のパンにあずかっているのが私たちです。
私たちは弟子たちと同じです。
私たちは弟子なんです。
弟子らしく、ここから送り出されて、世の中に出ていきましょう。
神様が私たちに願っておられることは、私たち一人ひとり、違うんでしょうけれども、この困難の多い人生を、イエス様と一緒に、力強く歩きとおしましょう。
そのためにイエス様は、ご自分の命まで投げ出してくださったんです。
生きていれば、理不尽なことって本当にいくらでもあります。
怒ることしかできないようなこと、怒る気もなくなるようなこともたくさんあります。
けれども、そういう時、今日の話を思い出すんですね。
今日のイエス様の話、どうですか。
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。
こんな理不尽な話がありますか。
それでもイエス様は、こんなにも受け入れがたいことを受け入れてくださった。
私たちが滅びの道ではなく、神の道、命の道を生きることができるようになるためにです。
そのために、こんなことでも、どんなことでも受け入れてくださるんですね。
イエス様は、私たちのことを、理不尽なまでに愛している。
私たちがまことの命に至るために、イエス様は、どんなことをしてでも私たちを支えてくださるんです。
そして、すべてのことを前もって分かっておられて、私たちのためにもっとも良い働きをなしてくださるんです。