今週の説教「何をしてほしいのか」ルカによる福音書18章35-43節

【今週の予定】

●7/4()東部中会臨時会(東京恩寵教会、18:00-21:00)

●7/5()牧会事例研究会(16:00-17:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

●7/6()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●7/7()コーヒーブレイク(聖書を読んで自由に意見を出し合う試み、超教派、要問合せ、昼食代込参加費1,000円、10:00-14:00)、ピアノ調律(13:00-15:00)

●7/8()牧師週休日

●7/9()礼拝(10:3012:00)、お茶会(12:00-13:00)、ゴスペル練習(13:0014:30)、掃除

★7/9()の説教:尾崎牧師

聖書:ルカによる福音書191-10

 

説教題「今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい」

 

ルカによる福音書1835-43

 

35イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。36群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。37「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、38彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。39先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。40イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。41「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。42そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」43盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 

 

 

 

 

今日の話ですが、物乞いをしていた人の話ですね。

 

今で言うところのホームレスです。

 

こうやって、時々、イエス様がホームレスの人たちの前に立ち止まることがあるんですけれども、そのたびに私は思い出すことがあるんですね。

 

もう何年も前になりますけれども、ホームレスの人が教会に来たことがあったんですね。

 

その人はもう、本当にお腹がすいているという感じの人でした。

 

はっきりは言いませんでしたけれども、やっぱりお金がほしかったんだと思います。

 

でも、お金はあげられないですよね。

 

お金をあげるというのはその人のためになりません。

 

お金をあげたらその人はそれで食べ物を買うことができるでしょうけれども、それでは問題は何にも解決しないですね。

 

お金をあげてしまうと、その人はいつまでも人からお金をもらわなくてはならない。

 

お金をくれる人がいなくなってしまうとその人はもう生きられない。

 

それでは困ります。

 

けれども、その人は、今日の場面に登場してくる人と、よく似ていたんです。

 

今日の場面で物乞いをしていたこの人は、「わたしを憐れんでください」って言っているじゃないですか。

 

もうほんと、そんな感じだったんです。

 

そうは言いませんでしたけれども、「わたしを憐れんでください」、そんな感じ。

 

そうなりますと何もせずに帰すことはできないですね。

 

まず、一緒にお祈りをしました。

 

お祈りの最後に、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします、と私が言いますから、そうしたら一緒に、アーメン、と言ってください、ということだけ説明して、私が祈ったんですね。

 

祈っている時、いろいろなことを考えましたね。

 

もうそういう時は500円だけあげて帰しちゃったほうがいい、なんていう話も聞いたことがあるんですが、それは相手に向き合った対応ではないので良くない。

 

何か食べ物でもあげたいけれども、独身でしたから、冷蔵庫にも食べ物らしい食べ物はないんです。

 

でも、思い出したんですね。

 

レンジであっためて食べるレトルトのご飯を置いていたんです。

 

でも、食べ物をあげるっていうのは、ある意味、お金をあげるのと同じことですね。

 

それで、祈り終わってから、その人としばらく話をしました。

 

で、一緒に話をしたんだから、もう知り合いです。

 

自分の中で、もう知り合いになったということにした。

 

そして、知り合いに食べ物をおごるという設定にしたんです。

 

自分の頭の中で。

 

そして、ちょっと待っていてくださいと言って、自分の部屋に戻って、ご飯を温めて、おにぎりを作りました。

 

おにぎりを作ったことなんてほとんどなかったと思いますが、何とか作って、ラップにくるんで、それをハンカチにくるんで、その人に渡したんですね。

 

その人、すっごい喜んでました。

 

それで僕も、ああ、よかったなあ、と思って送り出したんですけれども、その人、ものすごくお腹がすいていたんでしょうね。

 

もう、すぐその辺りでおにぎりを食べはじめたんです。

 

で、食べながら歩いていくんですね。

 

よっぽどお腹がすいていたんだなあと思って、私はそのことにショックを受けて、声をかけることもできなかったんです。

 

そして、姿が見えなくなってから、気づいたんですね。

 

イエス様だったら、おにぎりを渡して、それで帰らせるっていうことはないですよね。

 

イエス様だったらどうしますか。

 

一緒に食事をするんです。

 

それで後を追いかけたんですけれども、もういないんです。

 

どこを探してもいない。

 

だからもしかするとこれは、イエス様が、私の働きをチェックしようとして、ホームレスの姿で教会に来たのかなあなんて思っているんですけれども、まあ、何年か前にそういうことがあったんですね。

 

聖書のこういう場面を読むと、いつも思い出すんですけれども。

 

私はもう本当に、最低限のことしかできなかったんですね。

 

それに対して、今日、イエス様のなさりようというのはどうでしょうか。

 

この場面も、すごくシンプルな場面ですね。

 

イエス様とこの人のやり取り、すごく簡単なやり取りです。

 

でも、ここでイエス様のなさったことは、私のように最低限のことではないんですね。

 

シンプルですから最低限のことのように見えるかもしれませんが、そうではないんです。

 

これはもう本当にイエス様がこの人の心の奥に触れてくださった、感動的な場面です。

 

今からそれを、ご一緒に見ていきたいと思います。

 

今日の場面ですが、イエス様と弟子たちはエルサレムに向かって旅をしてきて、もう、エルサレムの近くまで来られたんですね。

 

エリコという町に近づかれたと書かれていますけれども、エリコという町はエルサレムから20キロくらいしか離れていません。

 

そしてそこに、目の見えない人がいて、物乞いをしていた、自分は地面に座って、自分の前に器なんかを置いて、そこにお金を入れてくれるようにお願いをしていたんですね。

 

そこにイエス様が通りかかりました。

 

イエス様と弟子たちだけではありません。

 

たくさんの人がイエス様の後について、そこを通っていきます。

 

多分この人は毎日同じ場所に座って物乞いをしていたんでしょうね。

 

目は見えないんですが、いつもと様子が違うことに気づきました。

 

「これは、いったい何事ですか」と聞いてみると、「ナザレのイエスのお通りだ」ということなんですね。

 

ナザレのイエス、と言われていますけれども、ナザレというのはイスラエルの北の方にある、イエス様の育った村ですね。

 

こういうふうに、その人の出身地を名前のようにつかうことというのはあったようなんですね。

 

それはいいとして、この物乞いをしていた人はイエス様のことを知っていました。

 

それで、イエス様に大声で呼びかけるんですね。

 

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

 

ダビデの子イエスよ、と呼びかけるんですね。

 

この人は、ナザレのイエスだと聞いたのに、ダビデの子イエスよと呼びかけるんですね。

 

ダビデというのはイスラエルの歴史の中で一番立派な王様で、イスラエルを強い国にした王様です。

 

そして、このダビデの子というのは、ダビデのように強い力で人々を救う、救い主を指す言葉です。

 

この人は、ナザレのイエスだと、まあ、言ってみれば、たまに出てくる立派な先生だというくらいのことを聞いたのに、イエス様に向かって、救い主よと呼びかけるんですね。

 

そして、「わたしを憐れんでください」、この言葉です。

 

日本語で憐れむと聞くと、なにか見下されるように感じてしまいますけれども、この憐れむという言葉は聖書では、神様の性格を指す言葉なんですね。

 

聖書の神様は愛と憐れみの神様なんです。

 

人間を愛して、憐れんでくださるのが神様なんです。

 

そしてこの、憐れむという言葉は、原文を見ますと、内臓という言葉がもとになっている言葉なんですね。

 

ですので、憐れむというのは見下すことなんかじゃなくて、もう、神様は、人間を見ていると、かわいそうで自分のお腹が痛くなるくらい、それくらい人間を愛しているんだということなんです。

 

けれども、ここで、人々はどうしましたか。

 

「先に行く人々が(この人を)𠮟りつけて黙らせようとした」と書かれていますね。

 

これ、先に行く人々なんて書かれていますけれども、先に行く人々って誰ですか。

 

弟子たちですね。

 

弟子たちが黙らせようとしたんですね。

 

先週、弟子たちはイエス様の話を何にも分かっていなかったということが言われていましたけれども、そういう弟子たちなので、この救いを求める人を黙らせようとするんですね。

 

そういう意味で、もう、本当にこの弟子たちは盲人です。

 

心の目が開かれていないんですね。

 

けれどもここで、イエス様は立ち止まるんですね。

 

そして、この人を連れてこさせるんです。

 

イエス様の方から近づいてきてくださってもいいのではないかと思いますが、イエス様は今、エルサレムに向かって旅をしてきたんでした。

 

エルサレムでは十字架と復活の出来事が起こります。

 

それはイエス様が救い主だと信じる人々が罪をゆるされて新しい命に生きるようになるためです。

 

イエス様は今、十字架と復活の道に立っておられるんですね。

 

イエス様はまっすぐにそこに向かいます。

 

右にも左にもそれない。

 

だから、この人をその道に招くんですね。

 

十字架と復活の道、救いの道にこの人を招くんです。

 

連れてこられたこの人に、イエス様は聞きます。

 

「何をしてほしいのか」。

 

この質問、どうでしょうか。

 

何をしてほしいのか。

 

目が見えるようになりたいに決まっているのではないかと思います。

 

けれども、考えてみると、この人はホームレスなんですよね。

 

ホームレスなんですから、必ずしも、「目が見えるようになりたい」とは言わないのではないかとも思うんです。

 

この人は物乞いをしているんですから、お金をくださいとか、食べ物をくださいとか、家をくださいとか、この人にとって現実に必要なものはたくさんあると思うんですね。

 

それにこの人、目が見えるようになったら、もう物乞いはできませんよね。

 

今まではこの人にお金をくれたり食べ物をくれたりする人がいたわけなんですが、目が見えるようになったらもう誰も何もくれませんよね。

 

この人は、普通の人たちと同じように、自分で働いて生きていかなければならなくなります。

 

それだったら、目が見えるようになんてならなくてもいいと考える人もいるのではないでしょうか。

 

お金や食べ物をもらっている方がよっぽど楽ですね。

 

けれども、これは私もホームレスの人とやり取りをしたとき考えたことですけれども、お金や食べ物をあげても、問題の解決にはならないですね。

 

お腹がすいている、それは大問題かもしれません。

 

けれども、お腹がすいているということは問題の本質ではないんですね。

 

私の失敗はそこにあったんですね。

 

何とかして慰めたい、励ましたい。

 

少しでも喜んでもらいたい。

 

その人の今の気持ちを和らげることしか考えていなかった。

 

それには、食べ物をあげることしか思いつかなかった。

 

けれども、問題の本質は、どうしてホームレスになったのか、もっと言うと、どうして今も仕事をしていないのかということです。

 

イエス様は、その人の本質に切り込んでいきます。

 

「何をしてほしいのか」。

 

こう質問して、この人が問題の本質をとらえることができるようにうながすんですね。

 

「あなたは本当のところ、何をしてほしいのか。何がほしいということではなく、あなたはどうなりたいのか」。

 

この人は答えます。

 

「主よ、目が見えるようになりたいのです」。

 

本質を求めるんですね。

 

これ、私たちが祈る時にも、気を付けたいと思いますね。

 

私たちが祈る時、本質を求めているでしょうか。

 

本質を求めているつもりで、そうでないことというのはあると思うんですね。

 

目が見えるようになりたいと求めるべきなのに、食べ物をくださいとお願いしてしまうことって、あると思うんです。

 

それでは解決にはならない。

 

問題を長引かせるだけです。

 

本当に自分は、「救い主」に対して「憐れみ」を求めているだろうか。

 

そのことに気を付けたいと思います。

 

これは私には思い出すことがあるんですね。

 

神学校にいました時、神学校というのは牧師になるための学校なんですが、そこは寮で生活をするんですね。

 

みんな一緒に同じ所に住んで、生活をするんです。

 

ところが、神学校というところは男性の方が多いんですね。

 

神学校の寮の二階は男性だけのフロアで、そこにキッチンなんかもあるんですね。

 

そうなりますと、男性だけの共同キッチンって、どういう感じになるかお分かりになりますでしょうか。

 

これはもう説明できないような状態になります。

 

ちょうど今のような雨の多い季節になりますと、ハシには全部カビが生えます。

 

食器にもカビが生えます。

 

ですので、みんな食事のたびにカビを食べるんですね。

 

中にはレストランでアルバイトしていたことのある人なんかもいて、そういう人がたまにきちんときれいに洗ってくれたりもするんですけれども、大体の人はまったく気にしないんですね。

 

ただ、私は男性の中ではきれい好きなほうでしたから、それに耐えられなくて、みんなで一緒に使う食器は使わないで、自分の食器を使っていました。

 

それで、カビが生えないように食器をちゃんと洗いましょう、ということをみんなに言っていました。

 

でも言っても誰も全然気にしないんですね。

 

気にせずカビを食べているんですね。

 

私は祈りました。

 

神様、みんなの体を守ってください。

 

でもこれ、違いますよね。

 

みんなの体を守ってくださいじゃなくて、みんなが清潔にするようにと祈らなければならないんです。

 

それが本質ですね。

 

本質を求めることを心がけたいと思います。

 

今日の話に戻りますが、もし私たちが本質を求めるなら、イエス様はこうおっしゃってくださいます。

 

「あなたの信仰があなたを救った」。

 

本当には私たちの信仰が私たちを救うんじゃなくて、イエス様が救ってくださるんですけれども、問題の本質を私たちがイエス様にお願いする時、イエス様は、それを良しとしてくださって、それを取り扱ってくださるんですね。

 

そして、今日の一番大事なことは、この人の抱えていた問題の本当の本質は、実は、目が見えないことではなかったということなんです。

 

目を見えるようにしてもらったこの人は、それから、仕事を探しに行ったのではありませんでした。

 

今までできなかったことをしたというのでもありませんでした。

 

この人は、神をほめたたえながらイエス様に従ったんですね。

 

目が見えなかったことが問題の本質なんだったら、仕事を探しに行けばいいじゃないですか。

 

好きなところに自分で出かけて行ってもいいですね。

 

でも、そうはしない。

 

この人は誰にも何も言われていないのに、イエス様についていったんです。

 

イエス様に従うこと。

 

自分のすべてをゆだねることができる方についていくこと。

 

あらゆる問題の本当の解決というのはこれですね。

 

それは、目を見えるようにしてくださいと言うことよりももっと本質的なことですね。

 

私たちがもし、自分のすべてをゆだねることのできる方についていくんだったら、その人に従って神の道を歩いているんだったら、この人が神をほめたたえながら、賛美しながらイエス様に従ったように、そこには大きな喜びがあって、目が見える見えないというのはそこではもう、小さな問題だといっていいと思うんですね。

 

目が見えないことよりももっと大きな問題が人間にはあります。

 

愛と憐みの神様から離れてしまっているということ。

 

そこから起きてくるいろいろな問題。

 

それで、喜びがなくなってしまう。

 

イエス様こそ、そのような人間を神様の前に連れ戻してくださる方なんですね。

 

この人はそれを知ったんです。

 

本当の意味で、見えるようになったんですね。

 

では、私たちは、どうでしょうか。

 

私たちも、今、イエス様のこの言葉の前に立っています。

 

「何をしてほしいのか」。

 

「あなたは本当のところ、何をしてほしいのか。何がほしいということではなく、あなたはどうなりたいのか」。

 

私たちがそれにどう答えるにせよ、私たちも、目を開いていただきたいですね。

 

今よりももっと、愛と憐みの神様をはっきりと見ることができるようにしていただきたい。

 

そして、もっと大きな声で神様をほめたたえながら、イエス様に従っていきたい。

 

イエス様は私たちもそうなるようにしてくださいます。

 

そのために、「何をしてほしいのか」、この質問の答えを、真剣に探したいと思います。