

ルカによる福音書19章1-10節
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
先週の火曜日なんですが、駅前の、人でいっぱいのところで、有名人を見かけました。
火曜日の夜に、東部中会の臨時会があったので東京恩寵教会に行ったんですけれども、駅の改札を出たところに、今しょっちゅうテレビに出てくる将棋の加藤一二三さんがいたんですね。
つい最近引退した方ですけれどもインターネットの世界では前々から「ひふみん」と呼ばれていたみたいで、今ではテレビでも「ひふみん」と呼ばれていて、まあ、お年はもう77歳なんですけれども、でもそんなふうに呼ばれることを全然嫌がっておられなくて、というかそんなことを何にも気にしておられなくて、まあ、将棋の世界で頂点に上り詰めた人ですので、やっぱりトップに立つ人は普通の人とは違うんだなあと思わされるところですよね。
その日は少し雨が降っていたんですけれども、加藤一二三さんは、……ひふみんとお呼びした方が良いのかもしれませんが、ひふみんは、そこいらへんで売っているビニール傘を手に持って、駅の改札を横切っていったんですね。
そしたらもう、駅前ですから人はたくさんいますよね。
まあ、みんなそれぞれに用事があるので、足早に歩いているわけなんですけれども、群衆はみんな驚くわけです。
でも、みんなが驚いても何にも気にしない。
最初っから気にしてないんです。
ああいう方が一つのことに集中するときっていうのは、もう本当にものすごい集中なんだろうなあと思わされました。
そういう感じで将棋を指して、トップにまで上り詰めたんでしょうね。
この加藤一二三さんはカトリックの信者なんだそうですね。
クリスチャン・ホームのご出身ではなくて、30歳の時、ご自分から教会に通うようになって、クリスチャンになったんだそうです。
どうして教会に通うようになったのかというと、30歳の頃、将棋で勝てなくて勝てなくて追い込まれて、それで教会に行ったんだそうです。
これは私たちも励まされることですけれども、その後にその世界でトップに立つような人でも、そういう時期があるんですね。
ただ、それだったら勝てるようになったらもう教会は離れちゃったりしないのかな、なんて思ったりもしますけれども、この人の場合はそういうことはなくて、今に至るまでずっと熱心なクリスチャンなんだそうですね。
で、ある時、羽生善治さん、この人は今、将棋の世界で頂点にいる人ですけれども、羽生善治さんから「どうしてそんなお歳になっても情熱を失わないでいられるんですか」と聞かれて、加藤一二三さんは、「自分には信仰があるからだ」と思ったけれども、人様に洗礼を受けてあなたもクリスチャンになりなさいというのは乱暴な気がして、その質問には答えなかった、なんていうことをテレビでおっしゃっていましたね。
答えなかった、何て言っても、テレビで言っちゃってるんですけどね。
でもまあ、情熱の源が信仰だというのはそうなんでしょうね。
もともとは勝てなくて参ってしまって教会に行ったということですけれども、それだったら勝てるようになったらもう教会に行く必要はないわけで、それでもずっと教会に通い続けているというのは、教会に通う中で、単に勝つこと以上の価値を見つけたからですよね。
だから教会から離れられない。
本当の価値、表面的ではない、奥深い価値。
勝ちたいっていう、自分の思いを超えたところにある、もっともっと大きな価値。
そういうものを見出した人ですね。
そのあたりのところっていうのが今日の聖書の場面とも重なってくるんですけれども、とにかくまあ、そういう人ですので、もうこの人、自分を誇ったりすることが一切ないんだそうです。
地位も名誉も誰よりもあるのに、そんなもの何にも気にしない。
私たちの教会から、数年前に、カトリック教会にお移りになったご夫妻がいらっしゃいますけれども、そのご夫妻の通っておられる教会が、加藤一二三さんも通っておられる教会なんですね。
で、そのご夫妻は、加藤一二三さんと同じクラスで聖書を学んでおられたんだそうです。
ですけれども、一緒に聖書の勉強をしている、あの「加藤さん」がプロ棋士であるということも、もちろん、その世界の第一人者だということも、つい最近まで全然ご存じなかったんだそうです。
そういう人なんでしょうね。
もうずーっと神様を見上げてるから、何にも気にならない。
そういう人なんだろうなあと思いますね。
今日の場面に出てくるザアカイという人も、最後にそうなったような感じに見えますけれども。
イエス様に出会って変えられた、自分が表面的に望んでいたことよりも、もっと深いものに気づかされて、自分自身が新しくされた、そういうことなんでしょうね。
まああまりこういう話ばかりしていると時間が無くなりますので、今日の聖書の話に移りますけれども、イエス様との出会い方にはこういう出会い方もあるんだっていう話ですね。
まあ、私たちはみんな、それぞれにいろんなかたちでイエス様に出会ってここにいるんですけれども、私には私の出会い方がありましたし、加藤さんには加藤さんの出会い方があって、みんなそれぞれいろんな出会い方をして、ここにいるんですよね。
で、今日の場合は、イエス様が、徴税人に出会ってくださったという話なんですね。
この、徴税人という職業の人に出会うというのがなかなかすごいことなんですよ。
この徴税人というのがどういう人たちだったのかということなんですが、徴税人というのは、人々から税金を取る仕事です。
そう言いますと、今で言う税務署の人なのかなあと思ってしまいそうになりますが、事情は少し違っていました。
徴税人は、神に背く罪人の代表であるように思われていたんですね。
どうしてかというと、この人たちは、ローマ帝国のための税金を集めていたからです。
イスラエルの人々から税金を集めて、イスラエルの国に収めるのではなくて、当時イスラエルの国を支配していたローマ帝国に税金を収めていたんですね。
つまり徴税人というのは、神の民であるイスラエル人からお金を奪って、外国人に届けるという仕事なんです。
集められたお金は、イスラエルの人々を支配するために使われるわけです。
しかも、徴税人は、決められた金額だけをローマ帝国に収めれば、残ったお金は自分のものにしていいことになっていました。
ですから徴税人は、必要以上に多くの税金を人々から取るんですね。
それで、自分のふところにため込むわけです。
ですので、徴税人はみんなお金持ちだったと言われています。
人からしぼり取ったお金で、自分は豊かな生活をしていたんですね。
こういうことですから、徴税人というのは皆に嫌われていたんです。
そして、これがローマ帝国がずる賢いところなんですが、ローマから派遣されてきた徴税人が現地の人から税金を取るということになりますと、ローマ帝国が嫌われてしまいますから、そうならないように、現地の人を雇って徴税人にするわけです。
ですのでこの徴税人というのはイスラエル人なんですね。
徴税人になればいくらでもお金持ちになれますから、嫌われてもいいからやりたいという人はいます。
そういう人たちがこの仕事についたんですね。
そして実際、この人たちは、イスラエルの中では、罪びとの代表だというふうに見られていました。
今日の10節の言葉で言いますと、この人たちは、神様の前から失われた人たちだと思われていたんですね。
けれどもこの人、ザアカイは、イエス様を見たいって思ったんですよね。
けれども、背が低いから、見ることができない。
集まった人々は「この人こそ、救い主じゃないか」と思っていて、イエス様を少しでも見てみたい、そして、話をしてみたいと思っていたでしょうね。
そうなると、誰も徴税人なんかに場所をゆずったりしないですね。
お前なんか最初からどうしようもないんだからあっち行ってろっていう感じでしょうね。
なので、背の低いこの人は近づくこともできない。
ただここで思うのは、イエス様を少しでも見てみたい、そして話をしてみたいっていう人々の気持ち、これは、ザアカイも同じ気持ちだったんでしょうか。
ザアカイの気持ちは少し違っていたと思うんですね。
ザアカイは、イエス様と話をしたいとは思っていなかったと思うんです。
ザアカイはこの後すぐ、木に登ってイエス様を見ようとしますよね。
木に登ってしまったら、もう話はできないですよ。
木の上から話しかけるなんて、失礼じゃないですか。
話しかけるんだったら、人々の足の間をくぐりぬけてでも、イエス様の前に立たなくてはいけません。
でも、そうはしなかった。
木に登った。
ということは、イエス様と話をすることまでは期待していなかったでしょうね。
ただ、ちょっとでもいいのでイエス様を見たいという気持ちは強かったでしょうね。
何しろ、走って先回りして、木に登るんです。
これはもうお分かりでしょうけれども、今の日本でも当時のイスラエルでも、大人がこんなことをするというのは全くふさわしくないことです。
けれどもそれくらい、イエス様がどんな人なのか、見たかった。
きっと、ザアカイはイエス様のことを聞いていたんだろうと思いますね。
イエス様は今までにも、徴税人や罪びとと一緒に食事をしたりしたことがありましたけれども、それは、当時の人たちにはなんでそんなことをするのか、全く理解できないことなんですけれども、そういう話を聞いていたんだろうと思うんですね。
だからこそ、見るだけでもいいからその人を見たいわけです。
けれども、ちょっとだけ見るだけでいいというんだったら、走って先回りして木に登るなんてことをしますかね。
本当はこの人は、今の自分が置かれている状況から救い出されることを求めていたんだろうと思いますね。
この人は、お金は持っているけれども、お金以外に何も持っていない、寂しい人です。
何しろ、誰もこの人をまともな人間だとは思っていないんです。
そのことがつらいし苦しいんですけれども、それはあきらめている。
けれども、イエス様がやってくると、それがどんな人なのか、ほんの少しだけでも見たい。
どうしても見たい。
これ、もう、言葉にならない叫びですよね。
この人は本当は、心の奥底で、「わたしを憐れんでください」って叫んでいるんですね。
この直前の個所で、目の見えない人がそういう言葉で叫びましたけれども、この人も同じじゃないですか。
本当はこの人も、今の状況から救われたいんです。
でも、それに自分では気が付いていない。
一番大事なことを勝手にあきらめて、一目見ることだけを強く願っている。
本質に気づいていないんですね。
考えてみれば、この直前の場面の話は、イエス様が問題の本質に気づかせてくださったっていう話ですよね。
イエス様が目の見えない人に、「何をしてほしいのか」とたずねた。
なんてことを聞くんだと思ってしまいますが、これに対して、目の見えない人は答えますね。
「目が見えるようになりたいのです」。
これ、当たり前のやり取りに見えるかもしれませんが、そうではありません。
この目の見えない人はホームレスだったんです。
誰かがお金や食べ物をくれて、それで生きていたんです。
もしこの人が目が見えるようになったら、誰もお金や食べ物をくれなくなります。
だったら、今のままでいいので、とりあえず、お金をください、食べ物をください、そういうことをお願いすることだってありえると思うんですね。
そこに、イエス様は、「何をしてほしいのか」とたずねた。
「あなたがしてほしいことは、本当は何なのか。とりあえずお金がほしい、食べ物がほしいということではなく、あなたが抱えている問題の本質は何なのか」。
それに対してこの人は、まっすぐに答えたんですね。
イエス様は本質に気づかせてくださる方です。
けれども今日の話では、ザアカイは本質に気づいていませんね。
心の奥底で叫んでいても、あきらめてしまっているんです。
けれども、イエス様はあきらめないんです。
イエス様は、ザアカイが登った木のそばまで来ると、上を見上げました。
これは偶然ではないんですね。
イエス様はザアカイのことを知っています。
だから、「ザアカイ」と名前で呼ぶんですね。
今まで会ったこともないのに、名前を知っているんですね。
ザアカイはびっくりしたでしょうね。
そして、その時、気づいたんじゃないですか。
この人は私のことを知っている。
もしかしたら私自身よりも私のことを知っている。
そんなふうに感じたんじゃないかと思うんですね。
イエス様は言います。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
この言葉、原文で見ますと、私はあなたの家に「泊まることになっている」というような感じの言葉です。
良かったら泊めてほしいというような言葉ではないんですね。
イエス様が、自分を名前で呼んでくれている。
そればかりか、こちらから声をかけなくたって、イエス様は自分のところに泊まることになっていた。
これはもうザアカイは今までの人生で一番びっくりしたでしょうし、今までの人生で一番うれしかったでしょうね。
そして、イエス様はザアカイを急がせるんですね。
「急いで降りてきなさい」と言うんですね。
その通り、ザアカイは急いで降ります。
そして、喜んでイエス様を迎えたんですね。
イエス様はこう言っているんですね。
そんなところにいなくていいよ。
一番大事なことをあきらめた、そんな場所にいなくていい。
そこから降りてきなさい。
急いで降りてきなさい。
そして、喜びなさい。
喜びへと急ぎなさい。
もうそれだけで十分だったんですね。
この後、イエス様がザアカイに何を話したのかは書かれていません。
けれども、もうこれで十分なんです。
これでザアカイはまったく生き方が新しくされました。
ザアカイは8節でこんなことを言っていますよね。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。
この人は、人からお金を奪って、人から憎まれて、それでもまた人からお金を奪って、という人なんですよね。
もう、どうしたって人と良い関係を築くことができないような人なんです。
それが、人を支えて生きる生き方に変えられたんですね。
大事なことは、これは、財産の半分を施すようなことをしなければ救われないということではありません。
救われたからこそ、こんなふうに自分から、イエス様にも誰にも教わらなくても、こういうことを言えるようになったということなんです。
こんなことを言えるっていうのは、もう、この人、この時、本当に喜びにあふれていたと思いますね。
そしてそれは、イエス様がこの人の本質に、無理矢理突っ込んできてくださったからですね。
今日の場面は無理矢理なんです。
何しろ、イエス様が自分からおっしゃって誰かの家に泊まるなんて言うのはこの場面だけです。
そのために、イエス様は評判を落としましたよ。
7節ですけれども、イエス様が徴税人の家に泊まったと、悪く言う人がいたんですね。
でも、イエス様はそんなこと気にしないんです。
イエス様は最後に言っていますね。
「この人もアブラハムの子なのだから」。
アブラハムというのはイスラエル人の最初の先祖です。
そして、イスラエルというのは神様が選んだ人々ですね。
要するに、このザアカイという人も、神の民なんだ。
神様に愛されている、神様の子どもなんだ。
だから、イエス様は、この人が勝手にあきらめて、木の上にいたとしても、イエス様はあきらめないんです。
神様の子どものところには、イエス様は無理矢理来てくださいます。
私たちが問題の本質に気づいていなくても、私たちの心の奥底の叫びを聞いてくださって、私たちに無理やり出会ってくださって、私たちを喜びで満たして、その喜びで、私たちの生き方を新しくしてくださるんですね。
わたしたちは、もしかすると、そこまでのことは期待していないかもしれないですね。
でもそれは、ザアカイもそうだったんです。
イエス様は今日、私たちにおっしゃっておられます。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
今日は、私は、あなたの家に泊まることになっている。
どうでしょう、うれしくないですか。
私たちも、それぞれに、自分が登った木から、降りましょう。
イエス様が呼んでおられるからです。
急いで降りて、イエス様を迎えましょう。