今週の説教「託されたもの」(ルカによる福音書19章11節から27節)

【今週の予定】

●7/17()牧師夫妻盛岡出張(16日〔日〕から。この日まで)

●7/18()東部中会教師会(東京教会、13:30-17:00)

●7/19()受洗準備会(13:00-14:00)、聖書を読む会(19:30-20:30)

●7/20()コンディショニング・ストレッチ(13:00-14:20)

●7/23()学び会(9:00-10:00)礼拝(10:3012:00)、食事会(12:00-13:00)、プレ女性会(13:00-14:00)、ゴスペル・スクール(14:00-15:30)掃除

 

★7/23()の説教:尾崎牧師

聖書ルカによる福音書1928-40

説教題「主のお入り用」

ルカによる福音書1911節から27

 

11人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。12イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。13そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。14しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。15さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。16最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。17主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』18二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。19主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。20また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。21あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』22主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。23ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』24そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』25僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、26主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。27ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

 

 

 

 

 

今日の場面の次の場面はもうエルサレムに入る場面ですから、今日の場面はエルサレムに入る最後の場面ですね。

 

ここでイエス様は、最後に、たとえ話をなさいます。

 

イエス様がたとえで話すというのはいつものことですし、このたとえで話すという教え方は、ユダヤ教の先生たちも同じでした。

 

ただ、今回イエス様がたとえ話をなさったのは理由があったんですね。

 

最初の11節に、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものを思っていたからである」と書かれています。

 

こういうことですから、今日のたとえ話は、まず、イエス様がエルサレムに近づいておられたということ、それから、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたということと、関係があるんですね。

 

では、人々がすぐにも現れると思っていた神の国とはいったい何なのか、ということなんですが、この神の国という言葉は、神の支配とも訳すことのできる言葉です。

 

人々は、神様のご支配がすぐにもこの地上に実現すると思っていたということです。

 

ということは、今はまだ、その神の支配は実現していないということですね。

 

では、今は何に支配されているのかというと、人々はこう考えていました。

 

自分たちは、ローマ帝国に支配されている。

 

イスラエルの国は、ローマ帝国というとても大きな国の一部にされてしまっていたんですね。

 

そして、そのことをイスラエルの人々は悲しんでいましたし、怒ってもいました。

 

ですので、ローマ帝国の支配を打ち倒して神様のご支配を実現してくれる強い王様を求めていたんですね。

 

これは旧約聖書に書かれていたことでもありました。

 

いつの日か、救い主が現れて、神様のご支配を実現してくれる。

 

そうして、罪に支配されている人々を救い出してくれる。

 

そういうことが旧約聖書に書かれていたものですから、人々はなおさら、ローマ帝国の支配を打ち倒してくれる強い王様を求めていました。

 

別に旧約聖書に、救い主がローマ帝国の支配を打ち倒してくれるとは書かれていないんですけれども、人々はとにかく、ローマ帝国の支配から救い出されることを願っていたんですね。

 

ですので、イエス様という素晴らしく力のある立派な先生がエルサレムに入る、ということになりますと、人々は、とうとうこの時が来た、と大喜びするわけです。

 

エルサレムというのは王様がいるべき場所ですね。

 

ですので、人々は、イエス様がこれから王様になる、そして、ローマ帝国の支配を打ち倒してくれると期待していたんでした。

 

ですので、今日のたとえ話の中で、12節なんですが、ある人が王様になるために遠い国に旅立ちますね。

 

このある人というのはイエス様のことなんです。

 

それは、この話を聞いていた人たちはすぐに分かったんじゃないかと思いますね。

 

でも、もうこの時点で、人々が考えていたことは間違っていることになります。

 

人々は、イエス様がエルサレムで王様になると考えていました。

 

でもこのたとえ話では、イエス様は王になるために遠い国に行ってしまうんですね。

 

もうここからして違っているんです。

 

なんで王になるために遠い国に行く必要があるんだという話なんですが、当時、このあたりの国は全部、ローマ帝国に支配されていましたから、その国の王様になるには、ローマまで行って、ローマの皇帝にお許しをもらわなければいけなかったんですね。

 

イエス様からすれば、神様にお許しをもらう、そのために、遠くまで行かなくてはならない、ということですね。

 

とにかく、イエス様は、ご自分が王になることは認めておられるんです。

 

でも、そのために、これから、人々を残して遠くに行くことになるということなんですね。

 

けれども、この話を読み進めていきますと、イエス様はいつか帰ってくるんですね。

 

この、いつか帰ってくるというのは、いわゆる世の終わりのことですよね。

 

イエス様は今までにも、世の終わりに自分は帰ってくるということを予告しておられました。

 

そして、世の終わりにイエス様が帰ってくるその時、神の支配は完成するんですね。

 

ですので、人々はエルサレムですぐにイエス様が神の支配を完成してくれると期待しているんですが、それはちょっと違うよということになります。

 

とにかくイエス様は今日、人々が勘違いしていることを言いまして、そして、私はこれからあなたがたの前からいなくなるけれども、私がいない間、こういうことに気を付けて生きていきなさいよ、と伝えるんですね。

 

イエス様がいなくなってから、どうすればいいのかを伝えるんですね。

 

これは今もですけれども、イエス様はまだ、地上を留守にしているわけですよね。

 

全くいないというわけではなくて、洗礼を受けた人たちには神の霊が与えられていますから、神の霊というかたちで私たちと一緒にいてくださっていると言うことはできます。

 

だからイエス様は地上を去る時、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださったわけなんですが、しかし、イエス様の姿かたちが見えるというわけではありません。

 

神の支配にしたって、この世は罪に支配されているんですけれども、しかし、イエス様が私たちを支配している私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったわけですから、神の支配は確かにもうすでに始まっていると言うことはできます。

 

でも、神の支配はまだまだ完成はしていない。

 

私たちはその、もうすでに新しい時代が始まってはいるけれども、まだ全然完成はしていない、そういう時代にいるんですね。

 

そして、その時代というのは、イエス様がいない時代でもあるわけです。

 

ですので、今日のイエス様の言葉、心して聞きたいですね。

 

今、私たちはどうあるべきなのか。

 

それが今日の話です。

 

何しろこの話、イエス様の弟子たちに対して言われている話なんです。

 

人間みんなに、全員に言われた話じゃないんですよね。

 

今日のたとえ話の中にはしもべという人たちが出てきます。

 

そして、しもべという人たちだけに役割が与えられるんですね。

 

でも、登場しているのはしもべという人たちだけではなくて、14節ですが、イエス様に王様になってほしくない人たちもいたんです。

 

この人たちには役割は与えられていません。

 

ですので、私たちとしては、今日、役割をいただくつもりで話を聞きたいんですね。

 

ではどういう役割を与えられたのかということですが、イエス様の弟子たちは、一人につき1ムナというお金を受け取ったということですね。

 

この1ムナというのは今の日本のお金に直して100万円くらいです。

 

それが、みんな同じように与えられた。

 

そして、受け取った金額は一緒なんですが、その1ムナで10ムナもうけた人もいれば、5ムナもうけた人もいたということですね。

 

受け取った金額は同じなんですが、結果は人によってかなり違うんですね。

 

そして、10ムナもうけた人には10の町が与えられます。

 

5ムナもうけた人には5つの町が与えられます。

 

神様のくださる報いも、人によって違うんですね。

 

ではここで考えてみたいんですが、一番最初に与えられた1ムナ、これはいったい何でしょうか。

 

ヒントがいくつかありますよね。

 

イエス様の弟子には与えられているもので、弟子でない人には与えられていないもの。

 

そして、弟子たちにはみんなに同じだけ与えられているもの。

 

こうなりますとそれは私たちの能力とかではないですよね。

 

能力は人によって全然違いますからね。

 

では何なのか。

 

これは神様の約束です。

 

イエス様の弟子たちにはみんなに同じように与えられているもの。

 

イエス様が私たちを支配している私たちの罪を背負って十字架にかかってくださった。

 

神の支配が私たちの間にもうすでに始まっている。

 

そしてそれが、いつの日にか完成する。

 

その時、イエス様は私たちのまことの王となられる。

 

この、神様の約束のことでしょうね。

 

そして、ここで大事なことは、その神様の約束の御言葉が実りを生むっていうことですよね。

 

1ムナが5ムナになったり10ムナになったりする。

 

これはどういうことなのかということになりますが、神様の約束をどれくらい本気で信じて生きているか、それによって私たちの生き方は変わりますよね。

 

もし、神様の約束の御言葉を聞いたけれども信じないんだったら、私たちの生き方は何にも変わりません。

 

けれども、信じているのなら、生き方は変わりますよね。

 

私たちは本当に、毎日、いろいろなものに支配されて生きていますよね。

 

仕事に支配される、上司に支配されることもあれば、学校の先生に支配されることもあれば、家族に支配されることだってある。

 

むしろ、人と人との関係って、ほとんどの場合、度合いの違いはありますけれども、支配するかされるかの関係だということもできるかもしれません。

 

人と人との関係でなくても、お金に支配されることだってありますよね。

 

というより、お金に支配されずに生きていくことなんてできるのか、という感じですね。

 

けれども、そんなふうにいろいろなかたちで支配されている私たちのところに、イエス様が再び来てくださって、イエス様の愛の支配に私たちを完全に入れてくださる。

 

そして、それはまだ完成はしていないけれども、もうすでに始まっている。

 

その約束を信じているのといないのとでは生き方は全然変わりますよね。

 

信じていないんだったら、私たちは、嫌なものに一生支配され続けることを認めなくてはならない。

 

そうなりますと、何とかして少しでも自分が支配されないように、動きつづけなければならない。

 

それは、自分が支配する側に回ろうとするということですね。

 

でもそれって本当にそうなりたくてそうするのかというと、そうじゃないと思うんですね。

 

先月の終わりに、テレビで、支配する側の人のことが良く紹介されていましたよね。

 

国会議員の方ですけれども、自分の秘書に対して、ものすごい怒り方をしていましたよね。

 

「このハゲ~~~~~~~!!!!」って、もう、聞いていられないくらい。

 

もうあれを聞いて、私なんか、もう、自分の髪の毛が気になって、なんだか自分がつらかったですね。

 

そうすると奥さんが「あなた怒られてるわよ」なんて言って、いや僕じゃないよ、みたいな。

 

どう考えても、楽しそうではないんですよね。

 

支配する側に回っても、楽しくなんかないんですね。

 

どれだけ権力を手に入れて、相手を支配しようとしても、相手が何でも自分の思った通りに動いてくれるのかというと、そうじゃないですから。

 

まして、支配される側になってしまうと、なおさらですよね。

 

愛の支配以外は、どんな支配でも、本当にみんなが喜ぶことができるようなことって、ないんじゃないですか。

 

だからこそ、支配したりされたりしながら生きている私たちが、愛の約束、愛の支配を生きられるようになると、それはもう、人間変わりますよね。

 

ですのでもうこれは、本当に1ムナが5ムナにも10ムナにもなる話なんです。

 

信じた分だけ、実りがあります。

 

でも、大事なことは、それは、私たちが一生懸命信じようって努力することでもないっていうことなんですね。

 

16節で、一人の人が、「御主人様、あなたの1ムナで10ムナもうけました」って言ってるじゃないですか。

 

これだと何かこの人が頑張ってお金を増やしたっていう感じですけれども、そうじゃないんです。

 

この人の言葉は、直訳すると、「御主人様、あなたの1ムナが10ムナかせぎました」っていう言葉なんです。

 

18節に、「御主人様、あなたの1ムナで5ムナ稼ぎました」とありますけれども、これも違うんです。

 

これは、「あなたの1ムナが5ムナになりました」という言葉です。

 

自分の力じゃないんです。

 

まるでお金が勝手に増えているような言い方なんです。

 

つまり、神様の約束を信じるなら、それはもう信じた分だけ勝手に実りを生むんですね。

 

神様の約束の御言葉それ自体に、それだけの力があるということなんです。

 

それに対して、全然増えなかった人もいましたよね。

 

この人は何なのかというと、結局のところ、この人は、約束の御言葉をいただいたんですけれども、イエス様が王になることを望んでいなかった人ですよね。

 

こんなことを言っています。

 

「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。

 

でもこれ、本当にそう思って言っているんですかね。

 

もし本当にそう思うんだったら、それこそこのすぐ後でイエス様がおっしゃるように、お金を銀行に預けておけばよかったんじゃないですかね。

 

だいたい、100万円を布に包んでしまっておいたっていうのは、それってもう邪魔にしてる感じですよね。

 

この布っていう言葉も、単にハンカチみたいな言葉なんです。

 

しまっておくって言っても、それじゃダメですよね。

 

この人は、イエス様の弟子で、神様の言葉を聞いているけれども、まじめに取り合っていない人のことですね。

 

恐ろしかったとかっていうのは言い訳です。

 

だいたい、イエス様のことを、「預けないものも取り立て」るなんて言っていますけれども、イエス様、何にも取り立ててないじゃないですか。

 

最初にみんなに渡した1ムナですけれども、イエス様はそれを取り返していますか。

 

取り返してないんです。

 

最後のところで、この不真面目な人から取り上げた1ムナが10ムナ持っている人に与えられるんですけれども、10ムナ持っている人はその通り、10ムナをずっと持っているんですよね。

 

取り立てなんてないんです。

 

この不真面目な人は1ムナを取り上げられましたけれども、取り上げられたのは、不真面目だったこの人だけなんです。

 

ただ、この人も、命までは取られないですね。

 

渡されていたお金を取り上げられただけです。

 

でも、最初の方の14節で、イエス様が王になることを嫌がっていた人たち、この人たちは、一番最後には殺されてしまうんですね。

 

イエス様の愛の支配に入ることができるのは、イエス様の愛の支配に入ることを願う人だけなんです。

 

イエス様が王になることを嫌がる人は、そこには入れないんです。

 

そんな人がいるかなあと思ってしまいそうですが、人間には自分が王になりたいと願う心があると言っていいと思いますね。

 

支配する、される、という関係の中で生きていて、だから、できることなら自分が王になりたい。

 

そういう気持ちは私たちにも、心の中の隠れたところにあるんだと思いますね。

 

その気持ちが強くなってしまうと、イエス様に王になってほしくない、そういうことにもなっていくでしょうね。

 

けれども、私たちは、そうではないんです。

 

私たちは、そういう人たちが与えられなかった1ムナを与えられている。

 

神様の約束を与えられている。

 

その約束の中に生かされていくとき、その生き方は、必ず実りを生む。

 

御言葉自体の力によって、私たちの人生に実りが生まれる。

 

そうだけ。

 

今日の話はそれだけなんです。

 

大事なのは、それを当たり前のことであるかのように信じることができるかどうか。

 

信じるなら、報いは大きいです。

 

1ムナ、100万円稼ぐだけで、一つの町をもらえる。

 

町一つって、いくらくらいなんですかね。

 

その時、実際にどうなるのか、今から楽しみにしていたいと思います。

 

今、イエス様は、姿かたちが見える形ではおられないんですけれども、その人がいないところで何をしているのかって、すごく大事なことですね。

 

自分のいないところで自分のことをよく言ってくれる人こそが友達だ、なんていう言葉もありますけれども、いない時だからこそ、本当にどう思っているのかが現れてしまうんでしょうね。

 

私の妻は週に何日か、働きに出ますけれども、妻が働いている間、私が何をしているか。

 

皿洗いをしているか。

 

洗濯はしたか。

 

洗濯ものをきちんとたたむところまでしたか。

 

そこで妻に対する気持ちが伝わるんです。

 

イエス様がいない今が大事。

 

今の時を、大事に生きていきましょう。

 

大丈夫です。

 

御言葉の力が、私たちを支えてくださいます。

 

それが、今日の約束です。